第188話 過去その二、のようです
今回は長くなってます。
「これと似た話を何処かで聞いた事が……」
少女達の一人がそう呟いた。
その呟いた少女以外にも同じ様に既視感を覚えた少女が何人かいた。
いつだったか聞いた覚えのある話だったが、薄らとしか覚えていなかった。
だが、ただ一人この記憶を見て驚愕に満ちた表情をしている者がいた。
「この犯罪者……私を殺した人と同じ人よ。それと、この助けに入ったら場面も一緒ね」
ジュリと呼ばれる少女は自分の記憶と、彼の記憶からの類似点を挙げていった。
その内、この記憶を見せている者が自分が助けた少年であった事に気付く。
「――! そうでした! ジュリ様からいつしか聞いたお話でした!」
「彼の名前はマモルって言うのね。今の記憶から彼の名前が分かったわ。そしてマモルを救ったのが私である事も」
「という事はジュリ様と主様は転生する前に一度出会っていたという事ですか」
「そうみたいね。その事に今まで気付けなかったのは、マモルが成長してたし、あの時は焦ってよく顔も見れてなかったからだと思うわ。マモルも姿が変わった私を見ても気付かないのは当然でしょうしね」
彼の記憶から自分と彼は関係があった人だという事が分かった少女。その少女は顔を顰めた。
「マスターが可哀想なの……」
「えぇそうね。あの年で私が死んだ所を目撃してしまったのは辛いでしょうし、あの犯罪者から逃げようとしている時の気持ちが痛いほど伝わってきたわ」
「あの隣にいたシオリって何処かで聞いた様な気がする」
「さっきあの女神に向かってマモルが叫んだでしょう? 恐らくだけど、あの女神がシオリなのよ。どうして人間から神になったのか分からないけれど」
少女達の視線が宙に浮く女神に向けられる。
女神は頭を抱え、苦しそうに唸っていた。
少女達は皆同じ事を考えた。この記憶が、シオリと呼ばれた少女の心を刺激しているのでないかと。そしてその少女が元に戻ろうと必死になっているのではないかと。
そしてまた彼の見せる記憶に悲劇が訪れる。
◇◆◇◆◇
あの事件から八年が過ぎた。
高校二年になった今でもあの時の事は鮮明に覚えている。たまに夢に出てきて眠れない夜を過ごす事もあった。
あの時、俺を救ってくれたのは女子高校生の『櫻井 愛美』という人だった。
もし、その人が俺を助けに来なかったら俺は最悪死んでいた可能性があった。
死んでしまった櫻井さんの両親とはあの事件の後から交流がある。
初めて櫻井さんの両親にあった時は罪悪感で一杯で小学生だった俺は怒られてしまうのではないかと怯えていた事を覚えている。
だが、櫻井さんの両親はあの子が命を張って君を助けたんだねと言って、俺を優しく抱いてくれた。
それは怯えていた俺の心や、あの人を死なせてしまった事に対する恐怖を溶かしてくれた。だから俺はみっともなくその両親の胸の中で泣きじゃくっていた。
俺には記憶はないが、泣いている時にずっとごめんなさいと謝っていたそうだ。
今では櫻井さんの両親は、俺に第二の両親だと思ってくれてもいいからと言ってくれる程になっている。俺も長い付き合いから、時々そう思う時がある。
だけどやっぱり罪悪感は抜け切らなくて、高校生になった今では娘がいなくなった事への寂しさなどの感情が理解出来てしまってなおのこと、罪悪感が増していた。
だからだろうか。
今日も悪い夢を見た。最近は頻繁に見ていて、夜が眠れない日が多くなっている。
俺は布団から身を起こして、溜め息を一つ吐いた。
カーテンの隙間から朝日が漏れており、今日は明け方に起きた事を物語る。体は汗でぐっしょりだった。
それを確認してから二度目の溜め息を吐いた時、俺の部屋の扉が開いた。
「あれ、起きてたの?」
そうやって俺の部屋に遠慮なく入って来るのは、幼馴染の詩織だ。
「あぁ、ちょっとあの時の夢をな……」
俺がそう言うと、決まって詩織は俺の手を握って言うことがある。
「大丈夫。私が君を救ってあげるから。だから安心して……」
俺にはよく意味が分からない。だが詩織はあの事件の後から、俺に何かがあるとこうして口癖の様に呟くのだ。
「もう大丈夫だからその手を離してくれ」
「うん。なら、学校に行く準備してね」
「りょーかい」
俺は詩織の言う通り制服に着替えて、鞄に今日の授業で使う教科書を突っ込んだ。
準備を済ませると、リビングで既に用意されていた朝ご飯を取った。
「はい、これお弁当」
「ありがとう母さん」
そう言って、母さんがいつも作ってくれてる弁当を渡してくれたので、鞄に弁当を入れる隙間を開けて弁当も突っ込む。
そして、歯を磨いたり何だりして学校へ向かう。
「「いってきます」」
「はい、いってらっしゃい」
今日も、俺は詩織と共に登校する。
俺が望んで一緒に登校している訳じゃない。何故か詩織がいつも一緒にいるのだ。何を言っても俺の近くから離れる事はない。
いつもの通学路、いつもの風景、いつもの状況。
何も変わっていることはない。強いて言うなら、俺達の年齢が上がってる事だけだ。
「そう言えば護琉、昨日石川さんに告白されたらしいじゃん」
「あぁ、そんな事もあったな」
耳が早いものだと思う。
確かに詩織の言うように、昨日石川さんっていう人に告白された。一度くらいしかあった事がなかったから、よく知らない人だった。
「でも石川さん振ったんでしょ? なんで? あんなに可愛い子なのに」
「確かにそうかもしれないが、あまり知らない人と付き合う事はしないと思う」
「えー、勿体ないと思うんだけどなー」
「じゃあ、詩織は顔も知らなかった人にいきなり告白されたら受け入れるのか?」
「いや、そんな事するわけないじゃん」
「それと一緒だ」
「なるほど」
詩織と会話していると、こいつは馬鹿なのかと思う事がしょっちゅうあるが、成績だけで言えば俺よりも上だ。天然で抜けているところがあるだけの奴なのだ。
「それにな、今まで何回か告られて振ってるが、最後の一言はいつも、『三上さんが居るからですか?』って聞かれるんだぞ」
「えっ? そうなの?」
三上とは詩織の苗字だ。ちなみに俺は神崎だ。
「その度に否定する俺の気を知るんだな……」
いつも、そこで泣きそうになる女子を宥めながら否定する事になるのだ。昨日の石川さんだって最後にはいつもと同じ展開になってうんざりした程だ。
「そもそもな、詩織がいつも一緒にいるせいでこうなってるんだぞ?」
「だって護琉の近くに居ないと――」
「それに、一緒に居るせいで殆どの男子からからかわれてるんだぞ? いい迷惑だよ……」
「それでも一緒に――」
「俺はそう頼んだ覚えはないのだがな……」
「――っ!」
いつもからかわれるのは気が滅入る。否定すると面白がってさらに度を増すし、無視すればするで別のからかわれかたをするのだ。
俺は今日何度目かの溜め息を吐いた。
その時、詩織が着いてきてない事に気付いた。
「おい詩織どうし――」
振り向いて、詩織を見ると涙を流していた。
俺は言葉に詰まった。
俺がなんて言おうか言葉を選んでいたら、先に詩織が口を開いた。
「ごめんね……私気付かなかった……。もう近付かない様にするから」
詩織は涙を流しながら、走って俺の横を通り過ぎた。
突然の事に処理が追いつかない。俺が言い過ぎたせいで詩織は泣いたのかもしれないと思った。だが、これくらい強く言うことは何度目あったが、こんなことにはなった事はなかった。
俺は遠くなっていく詩織の背中を眺めているしか出来なかった。
◇◆◇◆◇
教室に着いたとき、俺はクラスの男子に囲まれた。よく見ると、詩織もクラスの女子に囲まれていた。
これだけで分かると思うが、俺と詩織は同じクラスだ。だからこそからかわれる事が多いのだ。
「おい、護琉。お前は三上に一体何をしたんだ。無理矢理か? 無理矢理迫ったのか!?」
「あのうるさいほどにいつも元気一杯の三上が泣いて教室に入ってきたんだぞ! しかも一人で! お前と一緒じゃないって事はそう言う事じゃないのか!?」
「そうだぞ! 泣いた三上が教室に入ってきた時の静寂と困惑は今でもゾッとするぞ! 主に女子の怒りが出てきた辺りから!」
「お前女子に殺されるなよな」
好き勝手に言ってくれる。
俺だってこうなるなんて思ってなかったんだ。詩織を泣かせるつもりはなかった。
俺としては、ただいつも通りに接してただけだった。だけど、詩織にとっては泣くほどに嫌な事だったって事だろう。
完全に俺が悪い事は分かってた。泣かせた方が悪いって言うのは小さい時から母さんに言われてきたから。
「おい、お前もなんか変だぞ? 本当に迫ったんじゃねぇだろうな?」
「俺達がからかってたのも悪かったが、それは許さん」
「本当にやったんなら俺達はお前を軽蔑するからな」
「そんな事は一切ない。むしろ俺からすればいつも通りに接してただけだったんだよ。けど、詩織には泣くほどに辛かったらしくてな……。よく分からんのだが、俺が悪いみたいだ」
「……なるほどな。ま、お前って無自覚にやり過ぎることあるからな。昨日の石川の告白を断る時だって、一刀両断してたからなぁ」
「ちょっと待て。何故それをお前が知っているんだ?」
「ん? そんな細けぇこと気にすんなって! じゃ俺達はお前達が仲直りすることを望んでるぞ。じゃないとクラスの雰囲気がダダ下がりだからな」
そう言って男子陣は散り散りに散った。
それを見計らったかのように今度は女子が俺を囲む。
女子特有の匂いが俺の鼻腔をくすぐる。この状況では望ましくない状態だ。
「ちょっとあんた詩織に何したのよ。あの子ったら私が悪いのって言うだけで何も教えてくれないのよ」
「私達としてはこの件に関してはよく分からないから首を突っ込まないようにするけど、何があったかだけ教えて」
俺は困惑した様な女子に男子にも言ったことをそのまま言った。
女子達は更に分からなくなったようで、頭を抱える。
「あんたはあんたが悪いって思ってて、あの子はあの子が悪いって思ってるってどういう状況よ? 普通逆じゃないの?」
「って言ってもな……。俺だってあの状況で自分が悪いって言ってる詩織がよく分からないんだ」
「まぁ、私達は首は突っ込まないって決めてるからちゃんと話し合って仲直りしなさいよ。じゃないとクラスの雰囲気が悪くなるんだから」
女子も男子と同じ事を言って捌けていく。
俺は詩織が自分が悪いと言っている事に対して不思議に思ってた。あの場はどう考えても俺が悪いはずなのだ。いつもの詩織なら絶対に俺が悪いと言っていたはずなのだ。
なのに詩織は自分が悪いと言っている。
それの答えを探したが、結局見つける事は出来なかった。
◇◆◇◆◇
放課後になってすぐに俺は急いで校門に向かっていた。
いつもなら学校にいる時は話かける事ない詩織に俺から近付いて話掛けようとして、休み時間と昼休みを利用して近づいてた。
だが、詩織は俺を見ると俺を避けるように逃げて行く。それを追いかけるが、小さい時から詩織は俺よりも足が早いので追いつくことが出来ずに、撒かれてしまってた。
だから俺は考えた。絶対に捕まえるにはどうすればいいかを。
この学校に門は一つしかない。他の高校は二つある所もあるが、俺達の通っている学校は一つしかなかった。
その為、下校するにはその門をなければならない。
だから追いかけるのは止めにして、待ち伏せをすることにしたのだ。
だが、この策は詩織よりも先に校門に着いておかなければならないと言う欠点がある。
だから俺は校門に急いでいるという訳だ。幸い詩織は女子に足止めを食らっている。俺の差し金だ。
念には念をというものだ。
俺は予定通り詩織より先に校門へ着いた。あとは詩織が来るのを待つだけだ。
それから待つこと十分。校舎から出てくる詩織の姿を捉えた。
俺は詩織に気付かれない様に近付いて、詩織の手を握った。
いきなり手を掴まれた詩織は一瞬ビクッと体を震わせ、俺の方を見た。
「しお――」
俺が詩織の名を呼んだが最後まで聞くことなく、手を振り解こうとする。
だが、俺だってそれくらい想定済みだ。離されること無く、強く握っていた。
「詩織。話を聞いてくれ」
「い、いや! 迷惑になるくらいなら――」
「詩織っ!」
「――っ!」
俺の突然の大声に言葉を詰まらせる詩織。
下校中の生徒達も何事かと俺達の方を向いた。
だが、そんなの関係なしに俺は話を続ける。
「詩織。俺の話を聞いて欲しいんだ。お前が俺から離れるのもいいし、関わらないと言うならそれでもいい。だけどそれは俺の話を聞いてからにしてくれ」
「ちょ、ちょっと――」
「言いたい事は分かってるが、お願いだ。俺の人生をかけてもいい」
「だ、だから――」
「頼む! 俺の話を――」
「私の話も聞け! このバカチンが!」
「いってぇ!」
突然、詩織に頭を叩かれた俺。一瞬何が起こったのか分からなかった。
「一つも嫌と言ってないでしょうが! それになんでこんなに人の目がある所でそんな事言うの!? 恥ずかしいじゃん!」
「い、いやこれは逃げられないようにと……」
「言い訳はいいからとりあえず行くよ!」
俺は手を引かれながら学校を離れていく。その背後から大きな笑い声が聞こえていたがそれは気にしない事にした。
しばらく俺は手を引かれながら、詩織の後ろを付いて行っていた。
その状態が続いたのも学校が見えなくなるまでだった。そこまで来ると、引かれていた手を離して横に並んで歩く事が出来てた。
「もう! なんであんな所であんなことするの!?」
「詩織が逃げるからだろ? 休み時間だって昼休みだって俺はお前と話がしたかったのに……」
「だ、だって……護琉が迷惑だって言ったから」
「それはからかって来る奴らにだ」
「じゃ、じゃああの、頼んだ覚えがないって言うのは……?」
「そいつらにからかってもらうのを頼んだ覚えはないって事だよ」
「じゃあ私の勘違いなの……?」
「俺の言葉足らずが誤解を招いたみたいだが、俺はお前と一緒に居たくないわけじゃないからな?」
「そ、そうだったの?」
「そりゃそうだろ。嫌いな奴を許可も無しに自分の部屋に入れると思うか?」
「思わないけど……」
「まぁそういう事だ。済まなかったな。なんか誤解させたようで」
「い、いいの! 私の方こそごめん!」
こうしていると、とても安心する。
今日の朝、詩織が泣いて俺の横を通り過ぎた時から何か落ち着かなかった。
何故あの時引き止めなかったのだろうと後悔した。休み時間や昼休みに俺のことを拒絶反応させただけで胸が苦しかった。
でも今、こうして詩織が隣にいるだけでとても安心するのだ。それこそこれから先、ずっと一緒に居たいって思う程に。
その気持ちに思い当たる節があった。いつもそうやってからかわれていたから。
――俺は詩織の事が好きなんだ。
その事にようやく気付くことが出来た。
恐らく、今日みたいに詩織が俺の元から離れなければこの気持ちに気付くことはなかっただろう。
だったら、俺の言葉足らずに、詩織の誤解に、少なからず感謝をしようと思う。
「なぁ、詩織。聞いて欲しい事があるんだ」
「ん? 何? 今なら何でも聞いてあげるよ?」
「俺さ、詩織の事が好きだ」
「えっ?」
「今日の弁当さ、母さんの手作りじゃなくて詩織の手作りだったんだろ? 食べてすぐ分かった。母さんの味とちょっと違ってたから。でも、美味かったぞ」
「ま、待って……」
「詩織が手を握って口癖の様に言ってくれるあの言葉を聞くだけで安心出来るんだ。あんな事もあったけど……いいや、あんな事があったからこそ、俺には詩織が居ないとダメなんだ」
「……そう」
俺の胸にあった詩織への感謝や依存、詩織が居なくなった時の不安や辛さを、その詩織自身へ伝える。
恥ずかしいという想いより、詩織個人に対する想いの方が強かった。だから、詩織に今まで言った事もない事を言ってしまう。
だけど、俺の想いを伝えるのにこれ以上の言葉は必要ない。たった一言。それで充分だ。
「好きだ」
その言葉を聞いた、詩織は今日二度目の涙を流した。
今回だけは俺でもなんで泣いているのか分かる。
今日の朝みたいな誤解から生まれた涙じゃない。今詩織が流している涙は嬉しくて泣いているのだ。
俺の自意識過剰でなければ確実にそうだ。むしろそうであって欲しいと思う。
俺達は通学路を歩きながらしばらく無言が続いた。
その間、詩織の啜り泣く音と、俺の心臓の音しか聞こえなかった。
そして、詩織が泣き止んだ時、その瞬間が訪れた。
「私もずっと好きだった」
その一言は舞い上がる程に嬉しかった。
だから、大切に、大事に、俺が次の言葉を紡いだ。
「付き合ってくれないか?」
「――はい」
そうして俺達は一つ関係を進めた。
今日は忘れられない日になるとそう直感した。
詩織をずっと大切にしていこうと、そう誓った。
その先は言葉はなかった。けれど、今までで一番暖かく、一番幸せな時間だったと思う。
いつまでもその幸せを感じていたいと思っていた。
そして俺達が信号に捕まった時だった。
「ありがとうね」
不意に詩織が感謝の言葉をかける。
「どうして感謝するんだ?」
「なんかそう言う気分にね? 護琉もそんな気分にならない? なんか感謝したくなるような気分に」
「俺か? 俺は感謝というより、これからの日々への想いの方が強いな。詩織とどんな事しようとか、詩織と何処に行こうとか。その他にも――」
その時だった。
俺の体が突き飛ばされた。
目の前には、必死な顔をして両手を前に突き出している詩織がいた。
地面に突っ伏した俺は起き上がって、
『何をするんだよ』
そう言うつもりだった。
でもその先の言葉を発する事はなかった。
何故ならそれを伝えようとした相手が目の前から居なくなったからだ。
一瞬何が起こったのか分からなかった。
ただ目の前を通る、猛スピードの車と大きな音という外からの情報しか得られなかった。
だが、すぐに何が起こったのかを理解する。
――詩織が車に撥ねられた。
ただそれだけの事だった。
だが、それだけで済ませるにはあまりにも事が大きすぎた。
俺はすぐに立ち上がり、急いで詩織の元に駆けつけた。
「詩織! 詩織! 無事か!?」
詩織は道路に仰向けに倒れ、ぐったりしていた。
「ま……もる……?」
「あぁ、そうだ! 俺だ!」
俺は詩織の隣にしゃがみ込んで、地面に手を付いて、出来るだけ詩織に近付いて俺が居ることを分かって欲しかった。
「どこに……いる……の……?」
「――っ!」
詩織は目が見えていなかった。
まさかと思った。冗談だと言って欲しかった。
「詩織! 詩織っ! 詩織っ!!!」
「けが……して……ない……?」
「詩織が俺を突き飛ばしてくれたお陰で怪我なんてしてない!」
「よかっ……た……」
「何も良くねぇよ! 詩織逝くな! お願いだから逝くな! 詩織! 詩織!」
俺はずっと呼び掛ける。
地面に流れる詩織の血が着いた手で、詩織の手を握りずっと詩織へ呼び掛ける。
「やっとなんだ! やっと幸せになれると思ったんだ! ここでお前が死んだら何も無くなっちまう!」
詩織と二人でようやく掴んだ幸せが、指の間から零れていく錯覚に囚われる。
怖くて怖くて、ただ恐怖に怯えて、体の震えが止まらない。
「詩織としたい事があるんだ! また昔みたいに遊びたいんだ! 一緒に過ごしたいんだ! 全部詩織が居ないと出来ないんだ!」
卒業して、結婚して、子供が出来て、二人で子育てして、子供が独り立ちしたらゆっくり二人で余生を過ごして……。
「俺の未来には詩織が居ないとダメなんだよ! またあの弁当を作って欲しい! また手を繋いで欲しい! またあの口癖を聞かせて欲しい! 詩織のその優しい声で! 詩織のそのやわらかい手で! お願いだ! お願いだから!」
まだ詩織に何も返してない。詩織に何もしてあげてない。詩織を幸せにしてあげてない。
「す……き………………」
「詩織……? 詩織! 詩織っ!! 詩織っ!!!
詩織――っ!!!」
詩織は目を開けたまま動かない。
嘘だ、冗談だ、何かの間違いだ。そう自分に言い聞かせて、ただひたすらに詩織の名を叫ぶ。
「詩織! 詩織! 冗談はやめろよ! こんな所で目を開けたまま寝てるんじゃねよ! なぁせっかく付き合える事になったんだぞ! 幸せはこれからなんだぞ! 目を覚ませよ! 詩織! 詩織!!」
どれだけ呼び掛けても、どれだけ名を叫んでも、どれだけ揺すっても、どれだけ泣いても、どれだけ嘆いても。
あの優しい声を聞くことは出来ない。あの温もりを感じることは出来ない。あの笑った顔を見る事は出来ない。
――あの『好き』を聞くことが出来ない。
「なに勝手に死んでんだよ……! 俺を置いて逝くなよ……! なんでいつも俺の先をいくんだよ! なんでこのタイミングでっ! やっとじゃねぇかよ! やっと想いが通じたのによっ! なんでこんなに早くに逝くんだよ! 詩織っ! 詩織っ!!!」
俺はずっと詩織と名を呼んだ。
詩織から流れる血は俺を染め上げ、最後の別れと言わんばかりに俺を包んでいった。
もう詩織の目に光はない。顔に笑顔がない。体に元気がない。
悲しくて、悔しくて、やるせなくて。
俺はただ、死んでしまった詩織の隣で詩織の名を叫ぶ事しか出来なかった。
気付いていた人も多いでしょうが、これで主人公のトラウマは全てです。
今回は長くなってしまいましたが、楽しんで貰えていたら幸いです。