第67話 古代の『おかえり係』を引き継ぐことになったら、世界最大企業の受付係が一番頼りになりました
《もし、すべての帰還者を迎え終えたなら》
《最後に》
《迎える者自身を、迎えに来てほしい》
古代帰還網が残していた最後の文章を読み終えてから、俺はしばらく考えていた。
帰れなくなった人を帰すための装置。その帰還を成立させるため、誰かが向こう側でずっと待っている。何千年も前から稼働している《おかえり係》という仕組みは、どうやら単なる自動術式ではなかったらしい。
もちろん、実際に誰がその役割を担っているのかは分からない。
リーネなのか、アウローラなのか、それとも俺たちがまだ知らない別の誰かなのか。
少なくとも現時点では、同じ人物だと判断できる証拠はなかった。
「ねえ、エルシア。この《おかえり係》って、俺が代わりにやれないの?」
俺が尋ねると、エルシアは古代記録から顔を上げた。
「すでに代替迎接者として登録されています。ただし、実際の引継ぎは完了していません」
「何で?」
「登録されたことと、仕事を引き受けたことは別だからです。古代帰還網はアレンを代替候補として認識していますが、今も旧迎接担当が一部の処理を続けているようです」
なるほど。
知らないうちに役職を与えられたものの、正式に仕事を引き継いだわけではないらしい。
「じゃあ引き受ければいいんじゃない?」
「それがですね……」
エルシアは少し言いにくそうに画面を切り替えた。
《代替迎接者への権限移譲》
《引継ぎ対象――全帰還点》
《対象範囲――現存する帰還要求すべて》
《継続義務――帰還完了まで》
「……全部?」
「全部です」
世界地図には十一個の帰還点がある。
そのうち十地点には本来の帰還者が割り当てられ、二人が帰還を果たした。第十一帰還点は別の危険を抱えており、さらにリーネの《帰還案件・零号》も残っている。
つまり、この権限をそのまま引き受ければ、俺はそれらすべてについて迎接担当になる可能性がある。
「それ、途中で誰かに任せられる?」
「古代術式の規定だけでは判断できません。管理権限を委譲する仕組み自体は存在しますが、条件が複雑です」
「そっかー」
俺が頷いたところで、トーマが横から口を挟んだ。
「おい。今、まさか全部引き受けようとしたか?」
「ちょっと考えただけだよ」
「顔に書いてあったぞ」
「そんなに分かりやすい?」
「四百年分の前科があるからな」
前科という言い方には抗議したかったけれど、セレスたち十人まで揃って頷いていたので諦めた。
セレスは俺の隣へ立つと、古代記録を改めて確認した。
「アレン。今のあなたが全業務を引き受ける必要はありません。むしろ、そうしないために《全員帰宅計画》を作ったのでしょう?」
「そうだったね」
「なら、現代側の帰還支援担当者にも権限を分担できるよう、仕組みを調べましょう」
俺は少し笑った。
「うん。任せるよー」
セレスも微笑む。
以前なら、こういう場面では俺が先に術式へ触っていた。どんな仕組みなのか確かめ、問題があれば自分で直し、最後まで責任を持とうとしていただろう。
けれど、今はそれをする必要がない。
世界最大企業の会長がいて、最高水準の魔導研究者がいて、何百年分もの救難実績を持つ専門部署まである。
考えてみれば、ずいぶん贅沢な環境だった。
「ところで、今の《アウローラ》って帰ってきた人を迎える担当者はいるの?」
俺が尋ねると、セレスが少し不思議そうな顔をした。
「もちろんです。各地の帰還支援施設には、必ず受入担当者を配置しています」
「受付の人?」
「受付も含まれますが、帰還支援の場合は少し特殊です。遭難者や避難民、長期間行方不明だった方などは、戻ってきても自分がどこへ行けばよいか分からない場合がありますから」
セレスが説明するところによると、《アウローラ》には帰還支援専門の職員が相当数いるらしい。
医療担当者とは別に、帰還者へ状況を説明し、一時的な滞在先を確保し、家族や関係者との連絡を手伝う仕事だという。
本人が望めば故郷へ送り届けるし、帰る家がなくなっていた場合は新しい生活先を探す。
「……それ、俺たちが昔やってたことと同じだね」
「はい。ただし、現在は専門教育を受けた職員が担当しています」
「何だ。じゃあ、もういるじゃない」
セレスが首を傾げた。
「何がでしょう?」
「おかえり係」
調査室が静かになった。
俺としては、何も変なことを言ったつもりはない。
古代帰還網には、帰ってくる人間を迎える役割がある。
現代の《アウローラ》には、帰ってきた人間を迎える職員がいる。
やっていることは、かなり似ている。
「だったら、古代の担当者が全部やらなくても、今の人たちにお願いすればいいんじゃない?」
エルシアが目を見開いた。
少し考えたあと、急いで古代術式の別の領域を開く。
「……待ってください。確かに、その方法なら可能性があります」
「本当?」
「古代帰還網が必要としているのは、特定の個人ではありません。《帰還者を迎える意思を持つ存在》です。ただし、実際の迎接を担えるかどうかは、別途確認が必要になります」
「じゃあ、今の受付の人たちに聞こうか」
「いきなりですか?」
トーマが俺を見る。
「世界最大企業の受付係に、数千年前の古代装置の仕事を引き継いでもらうつもりなのか?」
「そうだねー」
「いや、普通の会社なら受付の仕事じゃないだろ!」
「でも、帰ってきた人を迎える仕事でしょ?」
「そこだけ聞けばそうだけど!」
トーマは何か言い返そうとして、途中で黙った。
どうやら反論を考えているらしい。
俺は邪魔しないことにした。
その間にセレスが世界帰還支援本部へ連絡を入れ、各地点の受入担当者を確認し始めた。
驚いたことに、十か所すべての帰還拠点で、すでに専任の担当者が決まっていた。
しかも今回の古代帰還者を迎えるために新しく配置したわけではない。
もともと、そこで働いていた人たちだった。
「みんな、そんな仕事してたんだ」
「はい。特別なことではありません」
セレスが言った。
「《アウローラ》にとって、誰かを無事に帰すのは日常業務ですから」
俺はその言葉が何となく嬉しかった。
四百年前。
迷子になった子供を探して、森を歩き回ったことがある。
帰ってきたら温かい食事を用意して、怖かったねと話を聞いて、それで終わり。
大したことではなかった。
でも、そういう小さなことが何百年も積み重なって、今では世界中の人間を迎える仕事になっている。
「ほんと、大きくなったねー」
俺が呟くと、セレスは静かに笑った。
「はい。あなたが想像していたより、ずっと」
「そもそも会社になる予定もなかったしね」
「そこは今、改めて言わなくてもよいかと」
カレンに注意された。
どうやら世界最大企業の創設者が、会社を作るつもりなどなかったと連呼するのは、あまりよくないらしい。
もっとも、事実なのだから仕方ないと思う。
◇
最初の検証対象として選ばれたのは、第三帰還点だった。
場所は東方諸島にある《アウローラ》の大型通信中継施設。昔は船舶の救難信号を受け取る小さな観測所だったらしいが、現在では東方海域全体の通信と災害対策を支える重要拠点になっている。
当然、緊急医療設備もある。
さらに、海上で救助された人たちを一時的に保護する滞在施設まで併設されていた。
「……帰ってくる人を迎えるには、かなりいい場所だね」
俺が言うと、セレスが頷いた。
「本来は海難救助施設ですが、今回の帰還者受入にも対応できます」
「じゃあ、そこにお願いしよう」
ただし、すぐに帰還門を開くわけではない。
第一に本人確認。
第二に外部干渉の確認。
第三に現地の受入意思の確認。
そして今回は、もう一つ追加する。
帰還者を迎える職員本人が、自分の意思で迎接担当を引き受けること。
もちろん、危険がある仕事だから、命令だけで引き受けさせるわけにはいかない。
セレスが現地責任者へ事情を説明すると、少し意外な返事が来た。
『担当者本人が、直接お話ししたいそうです』
「いいよー」
通信画面が切り替わった。
現れたのは、二十代半ばくらいの女性だった。
紺色の職員制服を着ており、胸元には《アウローラ》の紋章と、帰還支援担当者であることを示す小さな銀色の標章が付いている。
彼女はセレスを見た瞬間、姿勢を正した。
『東方第三帰還支援室所属、ハンナ・リードです。今回の帰還者受入担当を務めます』
「よろしくねー」
俺が挨拶すると、彼女は一瞬こちらを見た。
次の瞬間、驚くほど背筋が伸びた。
『そ、創設者様!?』
「今は普通の学生だから、アレンでいいよ」
『いえ、そのような……!』
「受付の人にまで敬語使われると、何だか落ち着かないんだよねー」
ハンナは困ったようにセレスを見る。
セレスは少しだけ笑った。
「アレンの希望どおりにしてください」
『……承知しました』
それでも緊張は残っているようだった。
トーマが小声で言う。
「世界最大企業の会長が隣にいて、その創設者から名前で呼べって言われたら、普通は緊張するだろ」
「そういうもの?」
「そういうものだ」
少し悪いことをしたかもしれない。
俺はハンナへ改めて尋ねた。
「今回の仕事、引き受けても大丈夫?」
彼女はすぐには答えなかった。
数秒ほど考えてから、落ち着いた声で話し始める。
『私はもともと、海難救助施設の受付で働いていました。救助された方が到着した時、身元確認や医療班への引継ぎ、家族への連絡を担当しています』
「うん」
『その中には、何日も海を漂流していた方や、船が沈んで家族が亡くなったと思っている方もいます。ですから、帰還者を迎える仕事がどれほど大切なのかは、理解しているつもりです』
彼女は一度だけ呼吸を整えた。
『ただ、古代帰還網の仕組みは分かりません。私にできることは、普通の帰還者を迎えることだけです。それでもよろしいのでしょうか?』
俺は少し考えた。
古代術式。
魂魄識別。
空間位相。
世界を滅ぼすかもしれない災厄。
そんなものを全部理解してからでないと「おかえり」と言えないのなら、四百年前の俺だって資格はなかっただろう。
「十分じゃない?」
ハンナが目を瞬かせた。
「帰ってきた人が困ってたら助けてあげて、休める場所を用意して、必要なら次の行き先を一緒に考えるんでしょ?」
『はい』
「じゃあ、いつもどおりお願いしたいな」
彼女はしばらく俺を見つめていた。
やがて、少しだけ笑った。
『分かりました。私が迎えます』
その返事を聞いたエルシアが、古代迎接記録を確認する。
「……反応しました」
第三帰還点の管理画面に、これまでなかった表示が現れていた。
《現代迎接担当者――候補登録》
《意思確認――成立》
《帰還者受入権限――限定付与可能》
「できそう?」
「はい。ただし、古代帰還網から無条件に権限を与えるのではなく、現代側の安全確認手順と連動させます。本人が引き受けたからといって、勝手に門が開くことはありません」
「うん。それがいいね」
エルシアの説明を聞いていたハンナも頷いた。
『私一人で帰還を判断するわけではないのですね』
「そうだよ。危ない部分は専門家が見るから、ハンナさんは帰ってきた人を迎えてあげて」
『……はい』
その時、彼女の表情から緊張が少し消えた。
自分にできないことまで背負わされるのではない。
自分が長年やってきた仕事を、今回もやればいい。
それが分かったのだと思う。
「何だか普通の会社みたいだな」
トーマが呟く。
「普通の会社だよー」
「普通の会社は古代文明の帰還網を運営しない」
「そうなの?」
「そうなの!」
最近、トーマの声が少し大きくなった気がする。
◇
第三帰還点の帰還予定者は、フィオという少女だった。
ユノアへ確認すると、彼女はすぐに名前を思い出した。
「フィオは道を覚えるのが得意だった。地図がなくても帰れたし、暗い場所でも迷わなかった」
「帰還点を使うのに向いてそうだね」
「うん。でも、怖がりだった」
ユノアは少し寂しそうに笑った。
「だから一人で外へ出す時、みんなで大丈夫だって言ったの」
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。
古代の十人にとっては、まだ八日ほどしか経っていないらしい。
けれどこちら側では、何千年もの時間が流れている。
フィオにとっては、つい昨日まで一緒にいた仲間たちが突然いなくなったようなものなのだろう。
「じゃあ、ユノアも通信で待っててくれる?」
「いいの?」
「本人確認が終わってから話してもらうことになるけど、そのほうが安心すると思うから」
ユノアは何度も頷いた。
アシュルも参加すると言い出したが、彼はちょうど現代の魔導搬送装置について質問しすぎて医療班から休憩を命じられたところだった。
『俺も立ち会う! それと帰還点の位相変換機構なんだが――』
「先に休んでねー」
『まだ話は――』
エルシアが通信を切った。
少し気の毒だった。
「あとで話を聞いてあげてね?」
俺が言うと、エルシアは真剣に頷いた。
「もちろんです。非常に興味深い技術知識を持っていますから」
どうやら二人を同じ研究室へ入れる時には、カレンの監督が必要になりそうだった。
やがて、第三帰還点の受入準備が整った。
帰還予定者の識別照合は成立。
空間接続を開始する前の段階では、災厄干渉も検出されていない。
現地の医療班、警備担当、受入責任者も配置済み。
ハンナは帰還区画の外側で待機している。
エルシアが最終確認を行い、セレスへ報告した。
「受入処理を開始できます」
セレスは俺を見る。
「アレンは?」
「いいと思うよ。ただし、異常があったらすぐ止めてね」
「はい」
受入責任者の承認が入る。
《第三帰還点》
《帰還対象――フィオ》
《本人識別――一致》
《帰還先承認――成立》
《帰還処理――準備開始》
映像の中で、床へ円形の光が広がった。
ユノアの時。
アシュルの時。
それと同じように、向こう側の空間が少しずつ見えてくる。
暗い場所だった。
その中央に、小さな人影が立っている。
年齢は十三、四歳ほどだろうか。
明るい茶色の髪を後ろで束ねた少女が、両手で小さな袋を抱えていた。
彼女は門の向こうから、こちらをじっと見ている。
「……フィオ」
ユノアが呟いた。
しかし、次の瞬間。
エルシアが声を上げた。
「待ってください。帰還処理を保留します!」
即座に現地へ停止指示が送られ、光の膜が固定された。
「どうしたの?」
俺が尋ねると、エルシアは新しい測定結果を表示した。
「迎接音声が検出されました」
俺は眉を寄せた。
「まだ誰も迎えてないよね?」
「はい。現代側の迎接担当者は何も発言していません」
画面の中のフィオが、突然顔を上げる。
何かを聞いたらしい。
彼女は周囲を見回し、暗い空間の奥へ向かって一歩踏み出しかけた。
「……何か聞こえてる?」
エルシアが観測結果を確認する。
「帰還者側に音声情報が送られています。発信源は帰還点の外側。こちらから送ったものではありません」
嫌な予感がした。
四百年前。
俺たちが《最初の家》で聞いた、正体不明の「ただいま」。
名前も声も記憶も真似する、あの何か。
「ハンナさん、少し待っててね」
俺が言うと、彼女はすぐ頷いた。
『分かりました。こちらからは何も操作しません』
フィオは暗い空間の中で誰かを探している。
やがて、こちらへ向かって何かを叫んだ。
古代語だった。
俺には意味が分かる。
『ユノアが呼んでるの?』
ユノアが目を見開いた。
「私?」
「フィオには、ユノアの声が聞こえてるみたい」
「……私、呼んでない」
「うん。分かってる」
声を真似されたのだ。
もしかすると、こちら側でユノアが帰還したことまで利用されているのかもしれない。
フィオはもう一度、暗闇へ視線を向ける。
『そっちにいるの? ユノア?』
俺はエルシアを見る。
「こちらから文字通信はできる?」
「可能ですが、相手側へ新しい情報を渡すことになります」
「じゃあ、まず何も送らないで調べよう」
昔の俺なら、たぶんすぐ声を掛けていた。
怖がっている子供がいる。
助けてあげたい。
それだけで動いていたと思う。
けれど今回は、声そのものが危険なのだ。
エルシアは帰還処理を保留したまま、観測術式を切り替えた。
さらにアシュルが持ち帰った古代技術資料を参照し、帰還経路の魔力位相を二つに分離する。
しばらくして、彼女が小さく息を吐いた。
「……見つけました」
「何を?」
「帰還対象とは別の情報です」
測定画面には、二種類の反応が映っていた。
一つはフィオ。
もう一つは、帰還経路へ極めて弱く重なっている別の反応。
ただし、二人目の人間がいるわけではない。
「何かが帰還者の認識へ干渉しています。実体が確認できないため、同じ経路を通過できるかどうかは不明ですが、このまま帰還処理を進めるのは危険です」
「分かった。なら止めておこう」
俺が答えると、エルシアは頷いた。
彼女はそのまま接続を維持するのではなく、一度安全側へ戻す処理を始める。
ところが、その途中でフィオが突然こちらへ駆け寄ってきた。
光の膜へ両手を押し当て、必死に何かを訴えている。
『お願い、置いていかないで!』
その声を聞いて、俺は少しだけ息を止めた。
向こうにいる少女は、ただ帰りたいだけなのだ。
何千年も前の世界へ。
仲間のところへ。
誰かが待っている場所へ。
怖い声を聞いたからといって、そのまま置き去りにするわけにはいかない。
でも、だからこそ慌ててはいけない。
「エルシア。安全な通信だけ残して、帰還経路は一度閉じられる?」
「できます。帰還対象との接続が完全に失われないよう、座標だけを保持する方式に切り替えます」
「お願い」
エルシアが操作する。
光の膜がゆっくり薄くなり、フィオの姿が見えなくなる。
その直前。
彼女はまだ泣きながら、何かを叫んでいた。
『帰りたい!』
その声だけが、調査室へ届いた。
誰もすぐには話さなかった。
ユノアは画面を見つめ、両手を強く握っていた。
俺は彼女へ声を掛ける。
「大丈夫。今の子を置いていくつもりはないよ」
「……本当?」
「うん。ちょっと時間をもらうだけ」
彼女はゆっくり頷いた。
アウローラの世界帰還支援本部では、その間にも解析が進んでいた。
エルシアだけではない。
東方の魔導通信技師。
中央の空間術式研究者。
西部の救難網設計者。
各地の専門家が、同じ観測結果を別々に調べている。
数分後。
東方通信部門から一つの提案が届いた。
『帰還者本人の反応だけを、独立した誘導標へ接続する方法があります』
「誘導標?」
俺が尋ねると、現地技師は一枚の設計図を表示した。
『《アウローラ帰還標》の応用です。帰還先との魔力位相差だけを追跡する古い方式を使えば、余分な音声情報や認識干渉を経路制御から切り離せる可能性があります』
俺は図面を見る。
何となく見覚えのある術式だった。
当然かもしれない。
もともとは俺が四百年前に作った、あの黒い板なのだから。
「……またこれ?」
トーマが横から覗き込む。
「お前の忘れ物、本当に便利だな」
「昔は迷子防止だったんだけどねー」
「今は何千年前の帰還者を案内してるぞ」
「大きくなったね」
「毎回それで済ませるな!」
今回は、さすがに俺も笑ってしまった。
四百年前に作った手作りの帰還標。
それを後世の人間が改良し、世界中の救難網へ使った。
さらに今、その技術が古代帰還網の安全対策に利用されようとしている。
最初に俺が考えていたのは、霧の森で迷った子供たちが家へ帰れるようにすることだけだった。
でも、その程度の願いでも何百年も残れば、ずいぶん立派な道具になるらしい。
「じゃあ、お願いしていい?」
俺が技師へ尋ねると、彼は一瞬固まった。
『……私どもへ、ですか?』
「うん。専門家なんでしょ?」
『もちろんですが、創設者様ご自身が設計された術式であれば、直接ご指導を――』
「いや、四百年前の俺より、今の人たちのほうがずっと詳しいと思うよ」
画面の向こうで、技師が言葉を失った。
その隣にいた研究部門の責任者まで、何とも言えない表情になっている。
エルシアが少し笑った。
「そのとおりですね。原型の設計思想は非常に優れていますが、現在の帰還標は何世代もの改良を受けています」
「でしょ?」
「とはいえ、原型の術式を短時間で作ったアレンも相当おかしいのですが」
「そこはいいんじゃない?」
トーマが肩を震わせていた。
どうやら笑いをこらえているらしい。
技術者たちは、それから本格的に作業へ入った。
俺が直接術式へ手を出すことはなかった。
全体の安全確認だけを受け取り、あとは専門家の判断に任せる。
その結果、一時間ほどで第三帰還点の独立誘導回路が完成した。
帰還者本人の魔力波形だけを追う。
未知の声や認識情報は遮断する。
受入先は現代の《アウローラ》施設側で指定し、帰還者本人がそれを受け入れるかどうかを確認する。
そして最後に、現地の担当者が迎える。
手順としては、それだけだった。
「……意外と単純だね」
俺が言うと、エルシアが頷いた。
「基本原理は単純です。しかし、これを安全に成立させるためには、現代の通信技術と魔力制御設備が必要でした」
「つまり、四百年前には無理だった?」
「少なくとも、今と同じ方法では困難だったでしょう」
そっか。
俺が昔作ったものだけでは、ここまでできなかった。
セレスたちが四百年掛けて組織を育て。
何世代もの技術者が改良し。
世界中に設備を作った。
その全部が揃って、ようやくできることなのだ。
「……やっぱり、みんなすごいねー」
俺がそう言うと、セレスが静かに微笑んだ。
「アレンが私たちへ任せてくださったからです」
「任せた結果、世界最大企業になったのはちょっと予想外だけどね」
「その点については、私たちも少々やりすぎた自覚があります」
「少々?」
トーマが反応した。
セレスは笑顔のままだった。
「少々です」
どうやら世界最大企業の会長にとっては、これでも控えめな成長だったらしい。
◇
第三帰還点への再接続は、慎重に行われた。
今度は帰還者本人の魔力波形を独立して追跡する。
余分な音声情報は遮断。
帰還経路へ不明な干渉が加われば、すぐ接続を停止する。
現地ではハンナが待っていた。
彼女は朝からずっと担当場所へ残っていたらしい。
ただし、一人ではない。
医療班。
警備担当。
受入責任者。
全員が自分の仕事を把握し、帰還者が到着するのを待っている。
「ハンナさん」
俺が呼びかけると、彼女は通信画面へ顔を向けた。
『はい』
「怖くない?」
少し意外そうな顔をされた。
それから、彼女は正直に答えた。
『怖いです』
「そっか」
『ですが、救助された方を迎える時も同じです。無事でいてほしいと思いますし、何が起きるか分からないこともあります』
ハンナは少しだけ笑った。
『それでも、帰ってきた方には最初に安心してほしいので』
俺は頷いた。
「じゃあ、お願いねー」
『はい。必ず迎えます』
エルシアが帰還網を再接続する。
古代の光が現れた。
今度は余分な音声情報が検出されない。
帰還対象本人の反応だけが、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
フィオの姿が再び見えた。
彼女は先ほどと同じように小さな袋を抱えていたが、今度は周囲を見回さなかった。
目の前の光だけを、じっと見ている。
帰還点の向こう側から、文字通信による意思確認が行われた。
《帰還先を提示》
《安全確認済みの受入施設》
《帰還者本人の意思を確認》
フィオはしばらく迷っていた。
やがて、ゆっくり頷いた。
《帰還意思――確認》
エルシアが最後の干渉検査を実施する。
「外部追跡反応なし。帰還対象以外の干渉も検出されません。現代側の独立誘導回路は正常です」
「うん」
「帰還処理を進めます」
光が強くなる。
フィオが一歩踏み出した。
その瞬間、古代帰還網と現代の帰還標が同時に反応する。
《帰還対象――フィオ》
《本人識別――一致》
《帰還経路――正常》
《受入側承認――成立》
そして。
《帰還成立》
光が消えた。
東方通信施設の床へ、小さな少女が立っていた。
彼女は数秒ほど動かなかった。
自分の足元を見て、天井を見上げる。
それから、恐る恐る周囲を見回した。
知らない建物。
知らない服装の人間。
聞き慣れない言葉。
何千年もの時間を越えて帰ってきた少女にとっては、何もかも初めて見るものだろう。
ハンナはすぐには近づかなかった。
少女が自分の意思で周囲を確認する時間を作っている。
やがてフィオが顔を上げた。
小さな声で何かを言う。
古代語だった。
俺には意味が分かった。
『……帰れたの?』
ハンナは言葉そのものを理解できなかったらしい。
ただ、少女の表情を見て、ゆっくり膝を折った。
視線の高さを合わせる。
そして。
「おかえりなさい」
それだけ言った。
大きな声ではない。
特別な魔法も使っていない。
ただ、目の前の少女へ向けた言葉だった。
フィオは一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
しかし翻訳術式が動き、意味を伝える。
彼女の唇が震えた。
『……おかえり?』
「はい。ここは、あなたが今までいた場所とは違います。でも、安全に休める場所があります。困っていることがあれば、私たちが一緒に考えます」
翻訳された言葉を聞いたフィオは、しばらく黙っていた。
そして。
『帰る家、なくなっちゃった?』
ハンナの表情が少しだけ変わった。
嘘をつくこともできただろう。
大丈夫。
元の家へ帰れる。
みんな待っている。
そんな言葉を掛ければ、その場では安心するかもしれない。
けれど実際には、何千年もの時間が流れている。
彼女が知っている家や町は、もう残っていない可能性が高い。
だからハンナは、安易に約束しなかった。
「今すぐ元の家へ戻れるかどうかは、まだ分かりません」
フィオの目から涙がこぼれた。
ハンナは続けた。
「でも、今日休む場所はあります。明日からのことも、一緒に考えられます。あなたが行きたい場所を見つけるまで、手伝わせてください」
フィオは泣きながら頷いた。
それから、ゆっくりハンナへ手を伸ばした。
ハンナも手を差し出す。
二人の手が触れる。
それだけだった。
けれど、俺には十分だった。
「……よかったねー」
俺が呟くと、セレスも静かに頷いた。
「はい」
ユノアは映像の向こうで泣いていた。
フィオが無事に帰ってきたと分かった瞬間から、ずっと涙を流している。
やがて二人の映像通信がつながると、フィオは目を見開いた。
『ユノア!?』
『フィオ!』
古代語で名前を呼び合う。
フィオは何度も画面へ近づき、ユノアが本当にいるのか確かめていた。
ユノアも泣きながら笑っている。
現地の医療担当者たちは、少女が落ち着くまで無理に会話を遮らなかった。
検査の必要性は理解している。
それでも、今は再会した仲間の声を聞くことが大切だと判断したのだろう。
俺はその光景を眺めながら、少し笑った。
何千年も前に離ればなれになった二人。
その再会を、世界最大企業の通信網が支えている。
四百年前に秘密結社ごっこを始めた頃には、こんなことになるなんて想像もしていなかった。
「便利になったねー」
「便利という規模ではないと思いますが」
カレンが笑っている。
トーマも小さく頷いた。
「まあ、今回は分かる。これは本当にすごいことだと思うぞ」
「でしょ?」
「ただし、すごいのはお前だけじゃないからな」
「分かってるよー」
俺はセレスを見る。
エルシアを見る。
カレン。
ラグナ。
十人全員。
そして世界各地の《アウローラ》職員たち。
「みんながすごいんだよね」
セレスは少し目を伏せた。
それから、ゆっくり頷いた。
「はい。今は、そう言っていただけることが何より嬉しいです」
◇
第三帰還点の受入処理が完了したあと、エルシアが新しい表示に気づいた。
「アレン。古代迎接記録が更新されています」
「何かあった?」
「はい。今までとは違う処理結果が出ています」
画面へ、三人分の帰還記録が並んだ。
第七帰還点。
ユノア。
《迎接方式――旧式》
第二帰還点。
アシュル。
《迎接方式――旧式》
そして第三帰還点。
フィオ。
《迎接方式――現代側直接迎接》
その下に、新しい項目がある。
《迎接担当者――ハンナ・リード》
《受入意思確認――成立》
《帰還者本人の帰還意思――成立》
《迎接処理――完了》
俺は少し嬉しくなった。
「ちゃんと記録されてるねー」
「はい。しかも、さらに重要な情報があります」
エルシアが次の項目を開く。
《旧迎接担当の代理処理――不要》
《第三帰還点の迎接権限――現代側へ移譲》
《引継ぎ成立》
調査室が静かになった。
セレスが一歩前へ出る。
「……本当に、引き継げたのですか?」
「はい。ただし第三帰還点に限ります。旧迎接担当のすべての権限が移ったわけではありません」
「それでも十分だよ」
俺は笑った。
何千年も続いていた仕事。
帰れない人を迎えるために、誰かがずっと続けていた役割。
その一部分を。
現代の普通の受付係が、正式に引き継いだ。
トーマが画面を二度見した。
「……おい」
「何?」
「つまり今、古代文明の重要な役職を《アウローラ》の受付係が引き継いだのか?」
「そうなるねー」
「世界最大企業、業務範囲が広すぎないか?」
俺としては、そうでもないと思う。
最初からやっていたことだ。
帰ってきた人を迎える。
休める場所を作る。
次に行きたい場所が決まるまで、手伝う。
やっていることは何も変わっていない。
ただ、今回は古代装置が正式にそれを認めたらしい。
「ハンナさんにも教えてあげようか」
セレスが通信をつなぐ。
フィオの受入を終えたハンナは、少し疲れた顔で画面へ現れた。
けれど、帰還者が無事に保護されたことが嬉しいのか、穏やかな表情をしている。
『何か問題がありましたか?』
「いや、成功したよ。ありがとう」
俺がそう伝えると、彼女はほっとしたように笑った。
『よかったです』
「それでね、古代の《おかえり係》って役職、ハンナさんが正式に引き継いだみたい」
『……はい?』
「第三帰還点の分だけだけど」
ハンナは黙った。
セレスが正式な記録を説明する。
エルシアも技術的な意味を補足する。
帰還点の迎接権限が、現代側の担当者へ移ったこと。
今後は旧迎接担当が代行しなくても、適切な本人確認と受入承認が行われれば帰還を成立させられること。
それらを説明し終えたあと。
ハンナは、かなり長い間沈黙していた。
『……あの』
「うん?」
『私は普通の受付職員なのですが』
「知ってるよー」
『古代文明の役職を継承するような資格はありません』
「でも、フィオを迎えてくれたでしょ?」
『はい』
「それで十分だったみたい」
ハンナは何か言い返そうとして、やめた。
それから、少し困ったように笑った。
『……でしたら、明日もいつもどおり勤務します』
「うん。お願いねー」
トーマが隣で呟いた。
「古代文明の正式な後継者になった翌日も、普通に受付勤務なのか……」
「それが仕事でしょ?」
「もう何も言わん」
珍しく諦めた。
通信が終わったあと、セレスはしばらく画面を見つめていた。
「……私たちは、少し考え違いをしていたのかもしれません」
「何が?」
「古代帰還網を引き継ぐには、その仕組みを完全に理解しなければならないと思っていました」
セレスは静かに続けた。
「ですが、必要だったのは、それだけではなかったのですね」
「うん」
俺もそう思う。
高度な魔法は便利だ。
古代の知識も大切だ。
でも、それだけでは帰還は終わらない。
帰る人がいて。
迎える人がいて。
初めて、帰ってきたことになる。
「大事なのは、ちゃんと迎える人がいることなんだねー」
セレスが頷いた。
「はい」
その横でエルシアが、古代迎接記録をさらに調べていた。
「……もう一つ分かりました」
「何?」
「旧迎接担当が、どれだけの処理を残しているのかです」
画面へ、古い記録が表示される。
《第一から第十帰還点》
《帰還予定者――十名》
《帰還完了――三名》
《未帰還――七名》
ユノア。
アシュル。
フィオ。
三人が帰ってきた。
残り七人。
そこまでは分かっている。
だが次の表示は、今まで見たことがなかった。
《旧迎接担当・残務照会》
《通常帰還処理――七件》
《特別帰還処理――一件》
「……特別?」
トーマが眉を寄せる。
「十人のほかにも誰かいるのか?」
「一件だけです」
エルシアが詳細を開く。
《特別帰還処理》
《案件番号――零号》
その瞬間、俺たちは全員黙った。
零号。
三百九十七年間、帰還要求を送り続けている人物。
リーネ・ハルヴァ。
《最初の家》跡に残された帰還標を直し、後世の帰還所を作った少女。
そして現在は、《黎明喰らい》に相当する何かを向こう側へ閉じ込めたまま、帰れなくなっている。
「……リーネも?」
俺が尋ねると、エルシアは頷いた。
「はい。旧迎接担当の処理には、リーネの帰還も含まれています」
「じゃあ、古代の七人を帰しても終わりじゃないんだね」
「そのようです」
俺は少し考えた。
リーネは三百九十七年間、扉を開けるなと言い続けている。
自分だけ帰ろうとすれば、あの何かまでついてくる。
だから帰れない。
でも、彼女が帰れない限り、旧迎接担当の仕事も終わらない。
そしてその仕事が終わらなければ、旧迎接担当自身も帰れない。
「……困ったねー」
思わず口にした。
だが、ここで焦っても仕方ない。
危険な門を開いて二人とも帰そうとすれば、世界中を巻き込む可能性がある。
それだけは避けたい。
「エルシア。零号の処理だけ詳しく調べられる?」
「はい。帰還経路を開く必要はありません。保存済みの管理記録を確認します」
「じゃあお願い」
彼女が解析を始める。
その間、俺はセレスへ声を掛けた。
「残り七人の帰還準備も進めよう。全部終わってから零号を考えるんじゃなくて、できるところから並行して」
「はい。すでに各拠点へ次の準備を指示しています」
「さすがだねー」
セレスは嬉しそうに微笑んだ。
「アレンが任せてくださっていますから」
俺は少し笑った。
四百年前。
この十人を助けた時、俺は全部自分でやろうとしていた。
食事も。
家も。
魔法も。
外敵から守ることも。
みんなのためなら、どれだけ大変でも自分がやればいいと思っていた。
けれど今は違う。
みんなが自分で考え、仕事を引き受けてくれる。
俺が休んでいる間も、世界中で誰かが誰かを助けている。
昔の俺が一人で作ろうとしていた《帰れる場所》は、もう俺だけのものではなかった。
「……ほんと、いい組織になったね」
セレスは少しだけ目を伏せた。
「そう言っていただけることが、何よりの報酬です」
「じゃあ今度みんなでご飯食べようか」
彼女が顔を上げた。
「……全員で?」
「うん。今回の仕事が一段落したらね」
「アレン」
「何?」
「その予定は、私が正式に確保してもよろしいですか?」
「いいよー」
セレスの表情が明らかに変わった。
喜びを隠そうとしているのだろうけれど、隠せていない。
するとラグナが突然立ち上がった。
「待て! それは我ら十人全員との約束であるな?」
「そうだよ?」
「ならば席順を決めねばならぬ!」
ミコトがすぐに口を開く。
「隣」
「早いよ、ミコト」
シズクも小さく手を上げた。
「反対側」
「まだ何も決まってないって」
ヴィオラが微笑みながら端末を取り出し、リゼットは会場候補の確保へ動き始めた。
カレンが額へ手を当てる。
「皆さん。アレンがようやく自分から全員で食事をしようと言ってくださったのですから、今度こそ普通に楽しみましょう」
「我は普通に隣へ座りたいだけである!」
「十人全員が同じことを言っています!」
トーマが俺を見る。
「お前、また大変な約束したな」
「みんなでご飯食べるだけなんだけどねー」
「その『だけ』で世界会議が始まる連中だぞ」
言われてみれば、そうだった。
でも今回は逃げるつもりはない。
昔みたいに、適当な理由をつけて姿を消すこともしない。
「まあ、いつかねー」
そう言いかけた瞬間、十人全員がこちらを向いた。
俺は途中で言葉を変える。
「……じゃなくて、ちゃんと日にち決めようか」
セレスが笑った。
ラグナも笑う。
ミコトとシズクまで、少し嬉しそうだった。
トーマだけが呆れた顔で天井を見上げた。
「世界を滅ぼす災厄より、食事の約束のほうが緊張感あるの何なんだよ……」
俺にも分からない。
ただ、こういう時間は嫌いではなかった。
◇
それから少しして、エルシアが零号の解析結果を持ってきた。
「アレン。重要なことが分かりました」
その声で、調査室の空気が再び引き締まる。
エルシアは《帰還案件・零号》の管理記録を開いた。
《帰還対象――リーネ・ハルヴァ》
《帰還要求――継続中》
《外部追跡干渉――確認》
《双方向帰還路――形成禁止》
ここまでは以前にも確認した内容だった。
しかし、その下に別の項目がある。
《迎接処理状態――保留》
《保留理由――帰還対象本人による拒否》
「……リーネが拒否してる?」
「はい」
俺は少し驚いた。
帰還要求そのものは、三百九十七年間続いている。
本人は帰りたい。
それなのに迎接処理を拒否している。
矛盾しているように見えた。
「どうして?」
エルシアは次の記録を表示した。
《帰還先――最初の家》
《迎接担当――旧迎接担当》
《帰還処理開始条件――成立》
《帰還対象本人による最終同意――未成立》
その下。
古い文字が、少しずつ復元されていく。
《本人申告理由》
《私が帰れば、あれも帰る》
俺は黙って読んだ。
さらに続く。
《だから、私を迎えないで》
《まだ、誰も帰してはいけない》
三百九十七年前。
リーネは自分から、帰還の最終同意を取り消していた。
ただし、帰還要求そのものは止めなかった。
帰りたい。
でも、帰れば危険なものまで連れてくる。
だから迎えないでほしい。
その二つを、何百年もの間、同時に抱え続けていたのだ。
「……そっか」
俺は少し考えた。
「じゃあ、リーネの問題は迎える人がいないことじゃないんだね」
「はい」
「帰ってきたら危ないから、本人が止めてる」
「そのとおりです」
それなら、やることは少し違う。
帰還門を無理に開く必要はない。
リーネの意思を変えさせる必要もない。
まずは、危険なものが追いかけてこない方法を見つければいい。
「じゃあ、そこから調べようか」
俺が言うと、エルシアが頷いた。
「はい。第三帰還点で使った独立誘導回路も参考になると思います。ただし、零号では外部干渉の規模がまったく違いますので、同じ方法をそのまま適用することはできません」
「うん。無理しないでね」
「承知しています」
その返事を聞いて、俺は少し安心した。
ところがエルシアは、まだ画面を閉じなかった。
「……実は、もう一つあります」
「何?」
「リーネが迎接処理を拒否したあと、旧迎接担当へ別の指示を残しています」
俺は画面を見る。
《零号帰還者から旧迎接担当への伝達》
《もし私が帰れなくなったら》
《あなたは先に帰って》
そこまでは分かった。
だが、その次の文章で俺は少し眉を寄せた。
《私は扉を守る》
《だから、あなたまで残らないで》
つまりリーネは、自分だけでなく旧迎接担当のことまで心配していたらしい。
何千年も帰還者を迎え続けた誰か。
その人物まで一緒に閉じ込めてしまわないように、帰るよう促していた。
しかし。
旧迎接担当は帰っていない。
今も残っている。
「……何でだろうね」
俺が尋ねると、エルシアは静かに次の記録を開いた。
そこには、旧迎接担当側からの応答が残されていた。
《伝達を受信》
《提案を拒否》
《理由――》
その先は、長い間破損していたらしい。
エルシアが慎重に補正する。
やがて文字が浮かび上がった。
《あなたを一人で待たせることはできません》
誰も声を出さなかった。
リーネは帰れない。
旧迎接担当は、そんなリーネを残して帰らない。
だから二人とも。
三百九十七年間。
向こう側に残っている。
「……頑固だねー」
俺が呟くと、セレスがこちらを見た。
「アレンに似ています」
「そう?」
「非常に」
ラグナまで頷く。
「我も同感である」
カレンも。
ミコトも。
シズクも。
十人全員。
トーマは、もう笑っていた。
「お前みたいなのが二人いたら、そりゃどっちも帰らないよな」
「ひどくない?」
「褒めてるんだよ。半分くらい」
本当に半分なのだろうか。
でも。
少しだけ分かった気がした。
リーネも旧迎接担当も、誰かを一人で残したくないのだ。
きっと、どちらも相手を大切に思っている。
だから帰れない。
俺が昔、全部一人で抱え込んでいた時と同じだ。
「じゃあさ」
俺は十人を見る。
「二人とも、一人で頑張らなくていいって教えてあげようか」
セレスが微笑む。
「はい」
「俺たちがいるからね」
ラグナが大きく頷いた。
「当然である! 世界最大企業と、世界最大の秘密結社がついておるのだ!」
「秘密結社の規模まで世界最大って、自慢していいのかなー」
「よいではないか!」
まあいいか。
少なくとも。
四百年前、冗談で始めた組織が。
今では誰かの長すぎる孤独を終わらせられるかもしれない。
それだけでも、十分に意味があると思う。
「エルシア。零号の解析は引き続きお願い。危険があるなら、今日はここまででいいからね」
「はい」
「セレスは残り七人の帰還準備。ほかのみんなも、担当の仕事をお願い」
十人がそれぞれ頷いた。
俺は椅子から立つ。
「じゃあ、俺はそろそろ帰ろうかな」
トーマが驚いた顔をした。
「……お前が?」
「何?」
「こんな大事な謎の途中で、普通に帰るのか?」
「今日はもう十分進んだでしょ」
第三帰還点から一人帰ってきた。
古代迎接担当の仕事を、現代の職員へ一部引き継げた。
さらに、零号と旧迎接担当が帰れない理由も少し分かった。
これ以上無理して調べれば、何か見落とすかもしれない。
「続きは明日でいいよー」
俺が言うと、セレスが少しだけ目を見開いた。
それから、とても嬉しそうに笑った。
「はい。では、明日も一緒に調べましょう」
「うん」
ラグナは何か言いたそうだったが、カレンが先に口を開いた。
「では、本日の調査は終了します。帰還支援業務については、各担当部門へ引き継ぎましょう」
その言葉を聞いて、俺は改めて思った。
本当に、いい組織になった。
俺が帰っても仕事は止まらない。
誰か一人が倒れるまで頑張らなくても、必要なことは続いていく。
四百年前にはできなかったことだ。
だから。
「帰ろうか」
俺は十人とトーマへ声を掛けた。
皆が笑って頷く。
その時。
エルシアの端末が、最後に一度だけ小さく光った。
「……アレン」
「何?」
「旧迎接担当の記録が更新されています」
俺は足を止めた。
画面へ表示されたのは、現在の帰還状況だった。
《通常帰還残務――七件》
《特別帰還残務――一件》
そこまでは変わらない。
しかし、その下。
《現代迎接担当者への権限移譲を確認》
《第三帰還点――引継ぎ成立》
そして。
《旧迎接担当・帰還準備状態を更新》
「……帰還準備?」
エルシアが頷いた。
「今までずっと《未帰還》のままでした。しかし、現代側へ仕事を引き継げたことで、初めて帰還準備処理が動いたようです」
つまり。
まだ帰ってこられない。
でも。
帰るための準備は始められた。
俺は少し嬉しくなった。
「よかったねー」
セレスも頷いた。
「はい。少しずつですが、確実に進んでいます」
そこで画面がもう一度更新された。
《旧迎接担当》
《帰還先指定――保留》
《迎接者登録――なし》
俺は首を傾げた。
「……この人、自分を迎える人がいないんだ」
「はい」
《おかえり係》は、誰かを迎える仕事をずっと続けていた。
だから帰ってきた人たちは、みんな無事に帰還できた。
でも、その本人を迎える人は登録されていない。
帰る人を迎える仕組みなのに。
迎える人自身が帰る時のことは、まだ決まっていない。
「じゃあ、それは俺たちがやろうか」
俺が言うと、セレスがすぐに頷いた。
「はい」
「十一人で?」
「もちろんです」
ラグナも笑う。
「我ら全員で迎えようではないか!」
ミコトが小さく頷いた。
「おかえり、言う」
シズクも。
「全員で」
俺は少し笑った。
「じゃあ、それで決まりだねー」
その瞬間。
まだ誰も操作していない古代帰還網に、新しい表示が現れた。
《旧迎接担当への受入意思を検出》
《迎接者候補――十一名》
《帰還先登録――準備開始》
俺たちは顔を見合わせた。
どうやら。
今度は俺たちが。
何千年も帰れなかった《おかえり係》へ、帰る場所を用意することになったらしい。
けれど、すぐには帰ってこない。
残り七人。
そしてリーネ。
全員を無事に帰してからだ。
それでいいと思う。
何千年も待っていた相手なのだから。
最後に少しだけ待ってもらうことくらい、許してくれるだろう。
俺は表示へ向かって、小さく声を掛けた。
「ちゃんと迎えるからねー」
返事はなかった。
通信経路も開いていない。
ただ、古代帰還網の奥深く。
今まで一度も動かなかった小さな記録だけが、静かに更新された。
《旧迎接担当》
《帰還先候補――最初の家》
《受入希望者――十一名》
《帰還予定――未定》
そして最後。
数千年前から一度も変更されていなかった項目が、初めて書き換わった。
《帰還先――なし》
その文字が消える。
代わりに。
《帰還先――あり》
俺は少し笑った。
四百年前。
俺たち十一人が、初めて帰る場所を作った時と同じだった。
建物なんて、まだ何も用意していない。
相手の名前すら分からない。
それでも。
帰ってきたら迎えるつもりの人間が、ここにいる。
だから。
もう、その人は帰る場所を失っていない。
「……よかったねー」
俺がもう一度呟くと、セレスが俺の隣へ並んだ。
「はい」
俺たちはその日、本当に全員で帰った。
そして翌朝。
古代帰還網の保管記録から、さらに一つの事実が判明することになる。
《旧迎接担当》
《帰還先――最初の家》
《帰還準備――待機》
その下に、新しく開放された記録があった。
《旧迎接担当・最後の帰還時に必要なもの》
《帰還者の名前ではない》
《帰還点の座標でもない》
《迎接者十一名による意思確認――成立》
《未成立条件――一件》
《帰還対象本人の意思確認》
それを読んだエルシアは、しばらく画面を見つめていた。
本人が帰りたいと言わなければ、迎えることはできない。
それは当然だった。
しかし問題は、その意思確認が何百年も行われていないことだ。
旧迎接担当は誰かを帰すための返事を続けながら、自分が帰るための返事だけ、一度もしていなかった。
そして、その項目の最後には。
古い手書きの文章が一つだけ残されていた。
《私が帰っていいか、誰かに聞いてほしい》
誰も帰ってこない場所で。
ずっと誰かを迎え続けていた人が。
今度は、自分が帰ってもいいのかと。
誰かに聞いてほしいと思っていた。




