10転生の物語
私は驚いて鏡台にぶつかったが、鏡台はびくともしなかった。私はよろめきながら強打した腰をさすった。ヒガンはすまなさそうな顔をしていた。
「申し訳ありません。驚くのも無理はありません」
ヒガンのしょんぼりとした表情を見ながら私は冷静になっていた。そういう顔をするということは、ヒガンは私に殺意を持ったわけではないということだ。
「私は衝動と戦いました。そんなことをするのが人として正しいことには思えませんでしたから。ただ魔法使いの勘のようなものが、あなたを裂け目の底に送るようにと叫んでいました」
「だからあの時私に聞いたんですね? "まさかあちらに行きたいと思っていた訳ではありませんね?"と」
私が言うと、ヒガンは大きくうなずいた。
「そうです。あなたがあちらに行きたいならば、それを止めてはいけないと思いました」
私はあの時のことを振り返った。あの裂け目の底に興味を引かれたのは事実だ。ただ、飛び降りたかったかというと、そうではなかったと思う。
「私は飛び降りるつもりはなかったですよ」
私は答えてみたが、心の奥の方で「本当に?」と問う声がしたのが不思議だった。
「そうですか。私はまだ人間だったようですね」
ヒガンは言った。どこか皮肉めいているその言葉の意味を私は計りかねていた。私とヒガンの間に沈黙が流れた。私にとっては居心地の悪い空気だった。どうしようと私は思った。取り敢えず、謝った方が良いのだろうか。私がそう思った時に、ようやくヒガンが沈黙を破った。
「ところで、あの裂け目の底の光はいつも見える訳ではないと言いましたが、私はあの光に向かって意識を飛ばしてみたことがあります。すると、答えが返ってきたのですよ」
「えっ!」
私は目を見開いた。答えが返ってくる? つまりあの裂け目の底には、誰かがいるということなのだろうか?
「何と答えたんですか?」
「それが、"祭り"とだけ返ってきたのです」
「マツリ? どういうことですか? それに答えたのは何だったんですか? 人の声ですか? 男でしたか? 女でしたか?」
私は噴き出した疑問をまくし立てた。ヒガンはやや驚いた顔をした。そしていたずらっ子のような顔をした。
「すべての疑問に一言で答えて差し上げましょう」
ヒガンの言葉は自信に満ちていた。ヒガンはすぅっと息を吸った。私は固唾を飲んだ。
「わかりません」
私はガクッと肩を落とした。
「そう、ですよね」
ヒガンはクスクスと肩を小刻みに震わせていた。
「意識を飛ばす、というのは、通常の会話と異なりますからね。音を耳で聞くのとは訳が違うのです。概念のようなものが、私の意識に伝わった、というような状態です。……いざ言葉で説明しようとすると難しいですね」
期待をさせておいて、ヒガンは涼しい顔をしていた。何だかしてやられた気分だった。
「さて、今日は何をして過ごしますか?」
ヒガンが私に尋ねた。この2日間は研究書を読むだけだったので、魔法の訓練もしてみたいところだが、明日からの仕事のことを思うと、あまり疲れが残ることは避けたかった。
「今日も読書にします」
私が答えると、ヒガンはうなずいた。
「では、私はここで作業をしています。用があれば遠慮なく来て下さい」
私は早速書庫へ向かった。今日は何を読もうか。私が本棚を眺めていると何かの気配が近づいてきた。
「本をお探しなら本日は、この本はいかがでしょう?」
白く薄ぼんやりした人影が私の目の前に現れた。人影は、一冊の本を指差していた。もしや、と私は思った。
「その本はワタシからもお勧めします。また、同じ趣向の本ならば隣もお勧めです」
新な人影が現れてその隣の本を指差した。
「それでしたら」
「それならば」
「それよりも」
「これこそが」
私は薄ぼんやりした人影たちに囲まれていた。これが、図書霊か! 一つの本に複数の図書霊が憑くと図書霊同士でその本の感想会が始まることがあると言うが、生きた人間にお気に入りの本を推薦してくることもあるのか。図書霊たちが勧めてきたのは、どれも小説のようだった。題名からして読みやすそうな本だ。図書霊のお勧めを無下にするのは、この書庫の利用者としてふさわしくはないだろう。幸い私は、小説の類いは研究書とは違って速読が出来る。彼らの推薦図書を午前中で読みきるのは可能だろう。私は図書霊が指した本を全て手に取ると、机へ向かった。私の後を音もなく図書霊たちがついて来た。
本を読み終えると、図書霊たちは私の感想を聞きたがった。私は面白かった点、腑に落ちなかった点、つまらなかった点、気に入った登場人物など、図書霊に問われるままに答えた。私の感想が良い内容でも悪い内容でも、図書霊たちは、うんうんと耳を傾けて聴いてくれた。私が感想を言い終えると、図書霊たちは、満足そうにうなずいて私から離れていった。
「またお勧めがあれば、教えて下さい。楽しかったです」
これは、お世辞ではなく、本心だった。本について語り合うのがこんなに楽しいことだなんて忘れていた。
「ワタシたちも楽しかったです。ありがとう」
白い姿は見えなかったが返事があった。私は満ち足りた気持ちだった。気分的にはこのまま書庫を出ても良かったが、昼までにはまだ時間があった。もう少し何か読んでみよう。私は読み終わった本を棚に戻した。私は書庫の中を歩いて回った。図書霊たちの気配はしていたが、近寄ってくる様子はなかった。今日は満足したらしい。ところが、そう思っているとまた図書霊が一人近づいてきた。先程の図書霊達よりも輪郭が濃く、着ている服まで良く見えた。身分の高い魔法使いに見えた。制服を着ているようなので、おそらくは王宮仕えなのだろう。嫌な予感がした。
「君も魔法使いなのだろう? ならば何故我が研究書を読まないのかね?」
著者の図書霊だ。偉そうな態度にむっとしたが、私は黙ってその図書霊が指す研究書を手に取った。それは、永久魔法の研究書だった。まだ読んでいない研究書だ。私はその研究書を手に取り机に向かった。図書霊は監視するように私について来た。そして、私が読み終えるまでずっと傍らに立っていた。
「素晴らしい研究だろう?」
私が本を閉じると、図書霊が言った。
「悪趣味。その一言に尽きるでしょう」
私が答える前に別の図書霊が言った。その図書霊の輪郭には見覚えがあった。ヒガンである。二人の図書霊は睨み合っていた。やがてヒガンの図書霊がため息混じりに肩を落として消えると、著者の図書霊も消えた。私は研究書を棚に戻した。この研究書の内容は胸糞悪いものだった。この研究書は、ほぼヒガンの研究の引用だった。引用であるにも関わらず、参考文献にヒガンの研究書名を入れていなかった。そして、ヒガンの研究に強引に自分の意見をねじ込んでいた。ヒガンの考えた永久魔法の呪文に自身が考えた呪文をつなげていた。何となく不自然な呪文だったが、この呪文をつなげることで永久魔法が、材料となる魂の影響を受けなくなる、というものだった。つまり、永久魔法から自我を抜き取る研究だ。この本によれば、追加の魔法は自我を抜き取っても永久魔法を破損せずに維持できるとしていたが、土台となる魔法式についての記載が一切なかった。本には呪文の構成と解説しか載っていなかった。確かに呪文と解説を読めば、うまくいきそうに見えるが、魔法式がない以上、内容を鵜呑みにすることは出来なかった。あとで検証してみよう。私は書庫を出た。
居間に戻ると、ヒガンは作業台で薬の包みに印をつけていた。薬の包みは山のようにあった。
「すごい量ですね」
私が声をかけると、ヒガンは屈んだ姿勢を戻した。
「明日の納品分です。もう少しで印をつけ終わります。その後、昼食にしましょう。今日はトマトスープの予定ですが、苦手ではありませんか?」
「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
ヒガンは私に座って待つように言ったが、私はヒガンが包みに印をつけていくのを観察していた。印に何の意味があるかはわからなかったが、星や花、何かの図形に見える印が描かれていくところを見るのは楽しかった。ヒガンは私が傍にいても気にした様子もなく、淡々と作業を進めた。
ヒガンの作業が終わるとあっという間に昼食となった。いつの間にか鍋にスープが煮立ち、かと思うと、もうテーブルに器によそわれた状態で置かれていた。私とヒガンは向かい合って座ると手を合わせて食べ始めた。
「今日は何の本を読んだのですか?」
スープを匙でかき混ぜながらヒガンは尋ねた。
「図書霊の推薦図書を」
私は答えた。
「やはり、図書霊たちが動きましたね」
ヒガンは言った。
「あなたが書庫に踏み入れた時から図書霊たちは、あなたに本を紹介したくてうずうずしていましたからね」
「そうだったんですね」
「それで、図書霊たちがあなたにどんな本を勧めたのか聞いてもよろしいですか?」
一瞬あの著者の図書霊のことがよぎった。しかし、私は読者の図書霊たち勧められた本の話をした。
「異世界転生の物語や、逆行による人生やり直しの物語、または、それが合わさった物語ですか。昔から人気がある題材ですね。私も一時期そればかり読んでいたことがありましたね。この手のものは、どん底から立ち上がって幸せをつかむ内容が多いですから、読了後の満足感が大きいですからね」
「若干、主人公に都合が良すぎる気がしますけどね」
私とヒガンは笑った。
「でも、少し疑問です。逆行物の場合、主人公が失敗した未来はなんだったんでしょうか。主人公は未来の夢を見ていたのか、それとも並行世界を垣間見たのか。この点を詳しく説明している物語は少ないように思います」
これは、腑に落ちなかった点として図書霊に話した内容でもあった。一生の夢を見ていたにしては、すべてが生々しく、失敗した人生では、主人公の精神に恐怖と絶望を与えている。その主人公を嘲笑った主人公の元恋人と恋敵は、その後主人公のいない世界で幸せになる筈だが、主人公の逆行に合わせて彼らの時間も巻き戻り、主人公優位の世界で人生をやり直さなければならない。主人公がやり直す度に未来が書き変わるのは、世界の秩序や法則さえも歪めてしまっているのではないだろうか。
「確かにそうですね。物語における予定調和と言ってしまえば、それまでですが、敢えて魔法使いとして解釈をするのであれば、可能性現実と確定現実という表現が出来ます」
「可能性現実と確定現実?」
私はヒガンの言葉を繰り返した。ヒガンは頷いた。
「主人公が逆行する前にいたのは可能性現実の世界です。逆行が起こることで、逆行後の世界が確定現実となるのです。可能性とは、過去のことにも未来のことにも当てはめることができ、可能性現実は、可能性であるが故に存在し続けることができます。主人公が見た世界は、可能性の中の現実であり、それは幻や夢という言葉では表せないぐらいには具現的なのです」
ヒガンは説明したが、私は理解が追い付かなかった。
「難しいですね」
私は眉間にしわを寄せた。
「ええ。とある魔法使いが考えた理論ですが、とてもややこしくて、煩わしい考え方です」
ヒガンはうなずいた。しかし、”煩わしい”と言いつつも、ヒガンの声色には全くそんな様子はなかった。
「この考え方は、転生についても適用できます」
ヒガンの目は楽しげに輝いていた。私ではもうヒガンを止めることはできないだろう。ヒガンは説明を始めた。
「この理論においては、異なる世界、または、異なる時間軸に転生した場合、元の世界の自分と新しい世界の自分は同じ魂の他人と考えることが出来ます。転生物語では、大抵、異世界の姿かたちの全く異なる自分に転生します。しかし、実際の転生魔法は、同じ世界へ生まれ直す可能性も含まれており、同じ世界の少しずれた時間軸に転生することもあります。その場合、姿形は異なれど、同じ世界の同じ時間に同じ魂が二つ存在することさえあり得ます。つまり、元の自分が存命中の世界に転生する可能性すらあるのです。すると、逆行物と同様に未来が書き変わることもあり得ます。つまり、転生前の世界は可能性現実で転生後の世界が確定現実となります。転生が起きなければ確定現実だったものが転生が起きたことによって可能性現実に書き変わってしまうのです」
私はすっかり思考停止していた。なんてややこしい話なんだろう。
「では、この話を実際に転生を経験したあなたに当てはめましょう。あなたは、前世とは全く異なるこの世界に転生しました。そして、転生したこの世界の時間軸において、あなたの世界がまだ滅んでいないとしたら? あなたの世界にあなたが生きている場合、あなたは、この世界と元の世界の両方に同時に存在していることになります。……ちなみに、これは私の好奇心からの質問ですが、元の世界と今の世界で、あなたの外見は大きく変わっていますか?」
ヒガンは尋ねた。
「変わっています。小柄な体形は同じですが、髪の色や目の色、声色、顔の作りは、元の世界の自分とは異なっています」
私は、すぐに答えた。
「全く異なる姿に生まれ変わることは、転生としては大成功と言えましょう」
ヒガンは興味深そうに私を見ていた。元の世界の私がどんな姿だったのか、勝手に想像して楽しんでいるような顔だった。
「ところで、問題です。仮に、この世界の時間軸において、あなたの元の世界が滅んでいないとして、さらにあなたが元の世界に存在しているとします。元の世界のあなたは転生魔法を持っているのでしょうか? いないのでしょうか?」
「え?」
私は戸惑った。”転生前の私”が私であることに変わりがないのなら、当然転生魔法を持っているのではないだろうか。
「では、あなたの経験通りに世界が滅んだとして、元の世界のあなたは転生する道を選びます。あなたは、転生先としてまたこの世界にやってくるのでしょうか?」
私はうなりながら首を傾げた。もし、そうだとしたら、何人もの”私”がこの世界に転生してくることにならないか? 私はすっかり訳が分からなくなった。
「転生前の自分と転生後の自分がまったくの他人である、という説は、実は危うさを孕んでいます。今、あなたが想像した通りですよ。転生し、他人になり、元の世界の自分も存在しているのであれば、あなたのこの世界への転生は永遠に続きます。この世界は、あなたの魂を持つ存在であふれかえるかもしれません」
「それは怖いですね」
正直な感想だった。この世界が私だらけになるなんて薄気味悪すぎる。
「ふふっ、今のは半分冗談です。実際はそんなことは起こらないでしょう。この世界とあなたの元居た世界は、全く異なる時間軸にあり、現時間軸においてあなたの魂は、この世界にしか存在していないと私は考えています。そして、もしも、あなたが元居た世界とこの世界に同時に存在しているならば、あなたが転生したことによって、元の世界のあなたは、転生の魔法を失っていると思います。ただ、可能性としては、前者だろうと私は考えていますけれどね」
ヒガンは言った。
「転生にまつわる理論や考察は、調べればいくつも出てきますが、しかし、証明する方法はありません。すべて想像の話なのです」
「そですね。転生を経験した私でもわかりませんから」
私は言った。転生を自覚した時点で、元の世界と関わることはないだろうとは思っていた。だから、ヒガンの説明を受けるまで、元の世界がまだ滅んでいない可能性があるなんて思いもしなかった。ヒガンの考えでは、この世界と元居た世界は全く異なる時間軸にあるとのことだが、ある可能性について、私はヒガンに聞いてみたくなった。
「ヒガン様。もし、私の元の世界が滅んでいないとして、私が元の世界を救う力を手に入れ、元の世界に戻り、滅亡を止めたのならば、どんなことが起きますか?」
そうですね、とヒガンは口元に手を当てて考えた。ヒガンはそのまましばらく動かず、そして、ゆっくりと口を開いた。
「おそらく、あなたと私との出会いは可能性現実に書き変わることでしょう。転生は、転生者が主観となりますから、あなたの記憶から可能性現実で得た経験は消えずに残ります。しかし、転生者でない私の記憶から可能性現実の記憶は消え、代わりに確定現実の記憶に違和感なく修正されます。……このように考えると先ほどの逆行物語も転生物語も、ある程度説明がつくはずです」
如何ですか? ヒガンは小首を傾げながら、固まって考え込んでいる私をみた。スープが冷めてしまいましたね、とヒガンが言い終わった瞬間に、スープは魔法で温め直され、湯気が出ていた。私は、スープをかき混ぜた。私はヒガンから強力な魔法を学び、元の世界を救う自分を想像した。その後に起こる展開を考えてみたが、胸糞悪くなった。私はスープを混ぜる手を止めた。
「この出会いが可能性現実に書き変わるのは嫌ですね」
「たとえ、もとの世界を救えずとも、ですか?」
ヒガンは尋ねた。
「私が救いたかったのは世界じゃなかったんです」
あの世界は腐っていた。もう取り返しがつかない程に。
「私が救いたかったのは、ほんの一握りの私の大切な人達でした」
身勝手な考えだと思う。滅びの直前に私は泣いている女に出会った。あの女にもきっと家族がいて、その家族と共に生きる未来を祈っていたことだろう。彼女を救いたいかと言われたら、良くわからなかった。つまり、自分にとってはどちらでも良い存在だ。本当に身勝手だ。その身勝手さを自覚してしまうと、自分は悪人なのではないかとさえ思えてくる。私はきっと暗く沈んだ表情をしていただろう。ヒガンはそんな私を、包み込むような優しい眼差しで見つめていた。