呪いの絵画事件 ~絵の中の女性~
指一本すら動くことがままならない状態で、アルテイシアは目線だけを頼りにゼヴィレンの動きを追っていた。彼はじっくりとこちらを見つめながら、遠慮もなくペタペタと触れてくる。
(ぐっ! やめてちょうだい! くすぐったいじゃない!!)
口を開けて抗議したいのはやまやまなのだが、まるで縫い付けられたように唇が動かない。
喉を鳴らすように努力してみたのだが、やはり音を発生することはできなかった。
間近にあるゼヴィレンの顔は、真剣そのものの表情だ。普段の気だるげで陰鬱な態度は微塵も感じられず、まるで何かの謎を解き明かそうとしている学者のようでもある。
緋色の瞳は、まるで焔が燃え盛るように熱を帯びて見え、視線を向けられるだけで焼かれるような錯覚さえ覚える。
「これは……、どうなってるんだ」
ゼヴィレンはアルテイシアの頬に指先をそっと当て、はて、と小首を傾げる。
(それを聞きたいのは私の方よ!)
声に出せないもどかしさに、せめてもの意思表示とばかりに目線だけで問いかける。ゼヴィレンはそんな彼女の視線を受け止めると、僅かに眉を寄せ、ややあってゆっくりと息を吐いた。
「シア。君はどうやら、絵画になってしまったようだ」
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絵画の中に閉じ込められたアルテイシアは、髪の毛の一本一本に至るまで完璧に彼女そのものだった。横顔だけの平面図ではあるが、精緻に描かれた彼女は凛としていて、まるで命を封じ込められたかのような美しさをたたえている。
正面ではなく、やや斜め方向をまっすぐ向いているため、反対側がどうなっているのかは不明だ。しかし、静かにそこに佇む彼女の姿は、ただの絵とは思えないほどの存在感を放っていた。
ゼヴィレンは額縁をしげしげと眺めながら、低く呟く。
「……呪いか? それにしては」
どうやら体は動かせないようだが、目だけは動かせるらしく、アルテイシアの美しい瞳がぎゅんっと大きく見開かれる。ある意味ホラーである。
彼女が箒の柄を引っかけて棚を倒したとき、どうやら命を閉じ込める呪いの絵画的な何かがそこにあったのかもしれない。現に、彼女を棚の崩壊から守ったのはいいものの、落ちてきた一枚の絵画が彼女に直撃するのをゼヴィレンは目撃していた。
白い煙がもうもうと立ち昇る中、ゲホゲホと咳き込む彼女の声を頼りに手を伸ばした彼が掴んだのは、温かみの感じられない、非常にのっぺりとしたまな板のような何かだった。
アルテイシアの柔らかくて良い香りのする器はどこにもなく、代わりにゼヴィレンが手元に引き寄せたのは、一枚のやや大きめの額縁。
「んー。実寸より少し小さいのかな」
両手で額縁を持ち、とっくりと観察する。すると、絵の中のアルテイシアが慌てたようにこちらを見つめてきた。
桜色に染まった白い肌はきめ細やかで、血色を帯びている。瞬きまでしているのだから、生きているのだろうとは思うのだが――いかんせん、状況が不穏すぎて対処のしようがない。
表情や面差しはいつも通りのアルテイシアなのに、肝心の、あの脳髄の底にガツンと響くような凛々しい声は一向に発せられないのだ。
「口は動かないのか。もったいない」
しゃがみ込み、絵画を棚に立てかけながらゼヴィレンはうーんと唸る。
ぎょろん、とこちらに視線を移動させるアルテイシアの形相は鬼気迫るもので、まさに「呪いの絵画」と呼ぶにふさわしいレベルである。
「好事家が欲しがるだろうなぁ」
生きた人間が閉じ込められた動く絵画なんて、魔道具でもなかなか再現できるものではない。そう呟いた途端、明らかに怒りを込めた相貌でアルテイシアがこちらを睨みつけてくる。
「ハハハ。大丈夫だよ。僕の大切な君を売ったり、渡したりなんてしないよ」
その一言に、明らかにホッとした様子のアルテイシアが、どことなく可愛らしい。ゼヴィレンはほんの出来心で、もう少しだけ意地悪をしてみたくなった。
少しずつ絵画ににじり寄り、指先をそっと頬のあたりにペタリと触れさせてみる。
こちらからすると、油彩画ならではのねっとりとした質感や、凹凸を感じる程度で、やはり「絵はどこまでいっても絵」でしかない。
けれど先ほど、アルテイシアの頬に手を触れた瞬間、彼女の瞼が僅かに震えた。ということは――向こう側からは感触を感じ取れるのだろう。
政略的な婚約者、という煩わしいことこの上ない邪魔な存在がいるため、衆目の中で彼女に触れることはできなかった。
――だが、絵画ならば問題ない。
幸いなことに、ここには誰もいないのだから、とゼヴィレンはうっとりと昏く笑った。




