第三幕「虚像の楽園」
今、以前なら夜に当たる時刻なのか、それとも、昼に当たる時刻なのか。いや実際にはあれはこの世界からの精神的逃避の中に産まれた幻想の楽園、私の、天国であったかもしれない。今となっては、いや何にせよ、私の知り得る範疇ではない。思うことは、いずれが現実と名のつく物であろうと、いずれが夢と呼ばれる物であろうと、そこに明白な相違が存在するべくはなく、ただ、我の中にあるのかそれとも、神の手の内にあるのか、それだけの認識を持つことすら危うい、ということだ。我々に取ってはその事象について、どちらも等価値であるはずなのだから。
心の光を失う時が訪れるとするならばそれは恐らく、この虚像の、作り事の夢の世界を、すなわち自らの心の支えを、失ってしまう時なのだろう。 肉体はその意味に於いて、自らであるとはいえない。ただ、付属しているに過ぎない代物だ。肉体を支えるのは、肉、水、空気、太陽光、そうした物理的な物だ。精神を支えるのは、夢。他人の、声の中に、他人の、温もりの中に、生まれてくる小さな、夢。たとえ他者とは数あれど、彼らがもたらす物とは、結局自分の中で一つの夢へと昇華されていく。それを貪り、事実上は孤独と対面して、神の手中を放浪せねばならぬ脆弱な生き物、それが人間というものだろう。
事ここに至って人間が避けて通れない物、それは、夢の喪失への漫然とした不安にほかなるまい。喪失への恐怖があるからこそ人はまた、喪失その物を望むこともあろう。最初から、望まずに生きる場合もあろう。だがそれでは、きっと辛い。私が今ここでアイカを手放そうものなら、私の生存自体、危うい物となるだろう。人が生きる上で重要なことは、ヒトを好きになる、ということ。それが自分のためであったとしても構わない。完全に他人のために、などというのは不可能だ。ヒトを好きになったら、とことん尽くすべきだ。大切にするべきだ。結果はどうあれ、そうした行為は、そうした気持ちは、絶対に、自分の宝物になっていくはずだから。
私とアイカとで、手を携えて、希望の光を心に守って、危ういこの世界を綱渡りして行こう。その先に、明るい未来が待っていようものなら、それは、言葉では言いようもないほどに、とても嬉しいことだと思うから。




