番外編 最終話:退職前夜と家族との別れ
王都魔導省の地下倉庫。
そこは世界中から集められた「手に負えない呪物」が廃棄される墓場であり、太陽の光も届かぬ奈落の底である。
サトシがこの場所に配属されてから、1094日目の夜が更けようとしていた。
薄暗い松明の灯りの下、サトシは淡々とペンを走らせている。
羊皮紙の上で書き連ねられる文字は、どれほど過酷な労働環境にあっても乱れることのない、精密な機械のような筆致だった。
彼が作成しているのは、『遺物整理課・業務引き継ぎ書』の最終版である。
「A-14エリアの棚の『嘆きの銀杯』は、三日に一度、聖水で洗浄しないと深夜に泣き叫びます。近隣の呪物への騒音被害が出るため定期的なメンテナンスを推奨。また、B-18エリアの棚の『虚無の砂時計』は、砂が落ちきると周囲の寿命を10年縮めるバグ…いや、仕様があるため、逆さに置く際は注意が必要…と」
サトシは独り言を呟きながら、自分の記憶にある膨大な呪物の癖、性格、対処法を、すべて「業務知識」として言語化していた。
前世のブラック企業では、引き継ぎ資料など作る余裕もなく、ただ「逃げるように辞める」同僚を何人も見てきた。
だからこそ、サトシは最後くらい完璧な形で仕事を終えたかったのだ。
「さて、これで引き継ぎ書は完了かな」
サトシがペンを置き、凝り固まった肩を回した。
その時、地下倉庫の空気が、重くしっとりとした魔力に満たされた。
「本当に行ってしまうのね。サトシ…」
奥に鎮座していた『嘆きの鏡』から、霧のような思念体が漏れ出し、ミラが姿を現す。
ミラは悲しげな瞳でサトシを見つめていた。
「ええ、明日で契約満了ですから。明日を迎えた瞬間に、僕はここを去ります」
「そう…明日で終わりなのね。あなたがいなくなれば、ここはまた以前のように只のゴミ捨て場に戻るでしょうね…あなた、最後に私に何か頼み事はないの?この姿も、私ができること全て、今ならあなたに捧げられるわ」
ミラはサトシの背後に立ち、透き通るような手で彼の肩を抱きしめる。
サトシは拒むこともなく、ただ鏡のメンテナンス用クロスを取り出した。
「ミラさん、あなたの誘惑は確かに特級品でした。おかげで前世での取引先から突きつけられた無理難題の数々が、いかに矮小なものだったか再認識できました。僕の精神耐性がここまで上がったのも、あなたの存在があったからだと思います」
サトシは丁寧にミラの本体である鏡を拭き上げる。
これが最後の清掃だ。
「サトシ…あなたは自分を『社畜』だと思っているかもしれないけれど…」
ミラは実体化した姿で、唇をサトシの耳元に寄せた。
「私にとっては、この真っ暗な倉庫に光を灯した、唯一の誇り高き主だったわ」
サトシは相変わらず微動だにしないが、クロスを動かす手には、いつになく繊細な優しさが宿っていた。
そしてミラも、サトシの優しさを感じながら、静かに鏡の中へと消えていった。
ミラの鏡を拭き終わったサトシは、次に奥の棚の整理に向かった。
棚の整理を始めた瞬間、サトシの足元の影が大きく揺れ、底知れぬ漆黒の圧力が室内に広がった。
「フン…つまらぬな。貴様がいなくなれば、この我を「魔王の抜け殻」として扱う無能共の巣窟に戻るというわけか」
ユリウスは影の中から姿を現すと、腕を組みながらサトシを睨みつけた。
「サトシよ。最後に貴様には、我の『真の名』を授けてやろうと言ったはずだ。それを口にすれば、貴様はこの世界の理を書き換え、神すらも跪かせる力を得るのだぞ。それなのになぜ、それを拒む?」
『魔王の真の名』という、この世界における究極のギフトを受け取ろうとしないサトシにユリウスが問いかける。
サトシは棚の整理を続けながら短く答えた。
「僕の中では、あなたの名前は『ユリウス』さんで十分です。それ以上の権力は、僕のキャパシティを超えますから…それよりもあなたには感謝しているんです。あなたが重い遺物を軽々と運んでくれたおかげで、僕の腰痛は劇的に改善しました。あなたは僕にとって最高の『ビジネスパートナー』でしたよ」
「ビジネス…パートナーか」
ユリウスは呆れたように…しかし愉快そうに喉を鳴らした。
「まったく貴様という男は…よかろう。貴様がどこへ行き何を成そうと、この我が認めた男であることは変わりない。さらばだ、我が友よ。貴様が歩く道こそが、この世界の正解だ」
ユリウスは豪快に笑い、最後にサトシと友情の証として拳を突き合わせると、影の中へと消えていった。
そしてサトシは、最後にいつもの事務机に腰を下ろすと、明日ゼノス課長に提出する退職届の作成に取り掛かる。
その時、サトシの左手の指輪が赤く発光した。
「サトシ…本当に…本当に行っちゃうの?」
メルが実体化し、サトシの首に後ろから抱きついた。
彼女の体は、かつてのようにサトシを絞め殺そうとする力強さはなく、ただ震えていた。
「メルさん。指輪の登録も解除しておきました。明日からは自由です」
「自由なんていらない! 私はサトシを束縛していたかっただけ…でも、やっと分かったの…サトシを一番強く縛っていたのは、私じゃなくて、サトシ自身の『責任感』っていう鎖だったんだね」
メルはサトシの背中に顔を埋めた。
「メルさん。あなたが僕を必要としてくれていたように、僕もあなたの『束縛』を必要としたおかげで、ここまで業務を完遂することができたんですよ。あなたの『束縛』が無ければ、僕のメンタルもここまで強固なものにはならなかったです。ありがとうございました」
「…バカ。最後まで思考が社畜なんだから」
背後から強く抱きついていたメルが、サトシからスッと離れた。
その後、彼女の存在が指輪に戻った瞬間、サトシの指から束縛の重みが消えた。
「これは解放じゃないからね。次に会うときは、お仕事としてじゃない私を、あなたに必要だと言わせてあげる。それまで、呪いの果てで待ってるんだからね」
メルの気配が消え、地下倉庫に静寂が訪れた。
サトシは書き終えた退職願を見つめながら、今日まで自分と共に仕事をこなしてくれた呪物、魔王、悪魔の存在を振り返る。
最初は業務の対象である他の呪物と何も変わらない存在と認識していたが、彼らの出会いが、ここでの環境に大きな変化を与えてくれたことは、サトシ自身も実感していた。
世間から見れば、それは忌むべき存在であり、遺物整理課に足を踏み入れる者を害する「敵」だった。
しかし、死して異世界へと転生し、異世界転生してもなお、ブラック企業で、ただひたすら働き続けるサトシにとって、彼らだけが「自分を必要としてくれる家族のようなかけがえのない存在」だったのかもしれない。
サトシはカビの生えた硬いベッドに横たわった。
視界の端で、薄暗いシステムメッセージが静かに…しかし力強く明滅している。
『通知:一定期間(3年)の継続的な極限苦行を達成まで…残り3時間』
サトシは深く呼吸を整え、そして深い眠りに落ちた。
彼が「社畜」として過ごす最後の夜である。
そして…。
「1095日目…か」
翌朝、サトシは目覚めると、壁に刻まれた「正」の字に最後の一画を書き加えるのだった。
本編の第3話に繋がる前日談を番外編の最終話として描きました。
番外編で登場したミラ、ユリウス、メルの存在を、ただの仕事仲間ではなく、かけがえのない家族のような存在として、最後はサトシ自身も認識する構成に仕上げました。
本編と番外編含め、ここまでサトシの物語を読者の皆様の視点でも見守って下さり、ありがとうございました。
今回で、サトシの物語は本当に完結となります。
つたない小説だったかもしれませんが、これまで読んで下さった読者の皆様、本当に感謝申し上げます。




