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第6話 レティアの鬼ごっこ

 学園生活が始まって一週間が経過した。

 クラスメイトとの交流も、授業も、先生方との対話も、寮生活にも少しずつ慣れ始めてきた。


『あ、朝…ん、んん~~~。』


 窓から射し込む朝陽で目を覚ます。

 まだ、メルティが起こしに来るより前みたい。

 ベッドから上半身を起して伸びをする。

 時計を見ると、6時を過ぎたところ。

 いつもは6時30分にメルティが起こしてくれるんだけど、今日の私は随分と早起きね。

 目も冴えて頭もすっきり。時間的にも気分的にも二度寝できる時間じゃないし。


『起きちゃおうかな。』


 ベッドから離れ、窓を開ける。

 春の香りと共に朝陽が部屋全体に行き渡る。

 軽く深呼吸すると、新鮮な空気が肺に送られ残っていた眠気を吹き飛ばしてくれる。


『よしっ!。今日も頑張ろ~。』


 早速、制服に着替え始める。

 いつもなら、メルティが着替えを手伝ってくれるけど…一人でだって出来るもん。

 むぅ…何というか、15歳にもなって一人で着替えさせて貰えないなんて…王族って凄いのか良く分からないね。


 コンコン。

 ドアをノックする音に自然と視線が動く。

 時刻は6時30分。メルティが起こしに来る時間。

 着替えを済ませた私は『どうぞ~。』と声を掛けると流れるような動作でメルティが入室して来た。


『レティア様。おはようございます。既に起床されていたと、は……………。』


 言葉の途中で私を見て固まるメルティ。

 その瞳は、普段よりも大きく見開いていて、頭を下げた状態のまま目だけを動かし頭から爪先、足から頭へと視線が移動していく。

 そして…じわっ…と、大きな目からキラキラと輝く滴が頬を伝って床へと落ちた。


『え?。え?。メルティ?。何で泣いてるの?。』

『レティア様。』

『あ、うん?。何?。』

『私の毎朝の楽しみをご存知でしょうか?。』

『え?。ああ…ごめんね。分からないや。』


 毎朝、同じリズムで生活してるから別に楽しいことなんてやってないよね?。

 

『では、僭越ながら語らせて頂きます。私は毎朝、レティア様の寝顔を堪能するのが日課なのです。普段は美しくも凛々しいお姿のレティア様も寝顔はまだまだ幼く、無防備なそのお顔を眺めているだけでご飯三杯はおかわりできることでしょう。特にその柔らかくお餅のような頬をぷにぷにする行為など天にも昇る心地好さを味わえるくらいです。吸い付きたい。ペロペロしたいと何度自制心を働かせたことか分かりません。そして、目が覚め、寝ぼけ眼を擦りながら起き上がり、崩れた表情で私に「おはよう。メルティ~。」と言ってくれるレティア様を心のフィルターに焼き付けることに至高の喜びを見出だしているのです。』

『……………。』

『更に、レティア様のお着替えを手伝えること。美しくも艶かしい下着姿を視界に納め、着衣の際に僅かに触れてしまう柔らかくスベスベでモチモチのお肌に触れた瞬間、私の一日の活力が補充されるのです。』

『……………。』


 めちゃくちゃ喋るね!?。

 ゲームの時でも、こんなに長いメルティの台詞なんて聞いたことなかったよ!?。


『レティア様…。』

『え?。な、何かな?。』


 メルティが怖い…。


『せ、せめて…その輝かしくも滑らかで美しい髪を結わせて頂けないでしょうか?。少しでも、レティア様から得られるレティニウムを補充しなければ私は十全なパフォーマンスを行えません!。』


 レティニウムって何!?。

 聞いたことないよ!?。


『う、うん。それは最初からメルティにお願いしようと思ってたの。私の髪、長いから自分じゃ難しくて。それにメルティにやって貰った方が気持ちいいから。』


 出来映えも綺麗に整えられてるし、流石メイドさんのメルティだよね。


『はい!。この命に替えましても、その任、遂行致します!。いえ!。例えこの命が尽きても誰にも譲りはしません!。』

『重いよ。そんな簡単に命を差し出さないでよ!。』


 ゲームの時のメルティは如何にもな完璧メイドさんだった。

 レティアの命令には絶対。他人には厳しく自分にも厳しい。

 まるで、機械のように淡々と自分に課せられた役目と仕事をこなしていく。

 そんなキャラクターだった。

 そんなメルティが主人公との交流を経て徐々に恋心に目覚めて年相応の少女らしく変化していく。

 はぁ。ゲームのメルティは可愛かったな~。

 まぁ。今も十分可愛いけど。こんな変態さんじゃなかったけど…。




『お父様。お母様。おはようございます。』

『ああ。おはよう。レティア。』

『おはよう。レティアちゃん。』


 準備が整い、朝食を食べに食堂へと向かう。

 煌びやかな装飾が施された長いテーブルと椅子が扉を開けた直ぐに視界に入る。

 30人以上は余裕で入りそうな空間は、とてもじゃないけど、私一人が暮らす筈だった寮とは思えない豪華さだった。

 最初から家族皆で引っ越すつもりだったのね。

 テーブルの一番奥には、既にお父様とお母様が朝食を食べている最中だった。

 メルティに椅子を引かれたところに自然と座る。

 すると、待っていましたと言わんばかりにアリシアが次々と朝食を運んできた。


『アリシア。おはよう。』

『おはようございます。レティア様。今日もお美しいですね。(あ~。可愛すぎます。大人に成長していく過程の、そのお姿の中に未だに残る子供らしさ。絶妙なバランスの上に成り立つ至高の芸術。お部屋に連れて行きたい。甘やかしたい。)』

『アリシア?。』

『はい?。何でしょうか?。』

『え?。ああ、具合悪いの?。ぼぉーっとしてるみたいだから珍しくて。』

『いいえ。快調です。申し訳ありません。ご心配お掛けしてしまい。ですが、安心して下さい。このメイド長!。命に替えましてもレティアが、ご満足頂けるように全身全霊を持って尽くさせて頂きます!。』

『アリシアも!?。命を大事にしようよ!?。』


 アリシアもゲームの時とは随分と雰囲気が違う気がする。


『レティア。学園が始まって一週間が経つが問題はないかい?。』


 朝食を頂いていると不意にお父様が質問してくる。


『はい。クラスメートとも適度な関係を構築できていますし、勉強も今のところ問題ありません。』

『そうか。』

『ふふ。レティアちゃん。お勉強も、作法も、運動も沢山努力してきたものね。』

『はい!。お母様。もっともっと頑張ります。』

『あまり根を詰め過ぎちゃ駄目よ。レティアちゃんが倒れたら心配する人が多いの。このことは覚えておいてね。』

『はい!。何事も健康から始まります。努力をするのも、魔法も、勉強も万全の状態でないと吸収率が落ちてしまいますから!。』

『あらあら。』

『そ、それで…聞きたいのだが、良いかい?。』

『はい?。何ですか?。お父様?。』

『レティアの…その…想い人には…出会えたのかい?。』

『はい。出会う…とは違い、遠くから見つけたという方が正しいですが。残念ですが、まだ接触するまでには至っていません。クラスも違いますし…未だに知り合いにすらなっていない感じです。』

『そ、そうか…。』

『けど。必ず御近づきになって紹介しますね!。お父様!。お母様!。』

『ええ。楽しみにしてるわね。』

『い、いや。むしろ、そのままで…『あなた?。』…はい。すみません。こほん。私も楽しみにしているよ。』

『はい!。ありがとうございます!。お父様!。お母様!。』


 この一週間何度か探したが彼に会うことは出来なかった。

 無理もない。クラスは10もあり、私は魔法科一組。彼は魔法科十組。

 物理的な教室の距離でも100メートル以上あるんだもん。気軽に行ける距離じゃないわ。




『おはようございます。レティア様。』

『おはよう。ゼルド。』


 朝食を済ませ登校の時間になる。

 寮から学園までは徒歩で約15分。私は歩きでも良いと言ったのでけど登校時だけでもとゼルドにねだられてしまい渋々了承。

 校門まで車で向かうことになった。

 メルティと共に車に乗り込む。

 これからが私の一日で一番辛い試練の始まり。


『いってらっしゃいませ。レティア様。』

『うん。いつもありがとう。ゼルド。』


 車から降りると登校中の生徒達の視線が一気に集まる。

 無理もない。徒歩で来れる距離なのにも関わらず車で登校するなんて、注目の的になって当然だ。それに、その車から降りて来るのが学園一とまで言われる美少女のレティアなのだから。

 はぁ…お腹痛いな…視線が辛い…。


『ごきげんよう。レティア様。』

『おはようございます。レティア様。』

『今日もお美しい…。』

『何て可憐な…。』


 レティア様。レティア様。レティア様。レティア様。レティア様。レティア様。レティア様。レティア様。レティア様。レティア様。


 私は一応一般生徒の筈なのに。

 皆が向けるのは憧れや羨望の眼差し。

 元々普通の高校生だった私には耐え難い試練だ。


『ごきげんよう。皆さん。』


 長年かけて修得した微笑みと絶妙な角度の首傾げ。

 そして、ゆっくりとした口調からの挨拶。

 その瞬間、その場は黄色い声や歓声が沸き上がる。

 ええ…。

 もう、生徒達の反応がアイドルのコンサートレベルなんですけど?。

 駄目ね。お父様達には隠していたけど、こればっかりは一週間あっても慣れないよぉ。


 そう言えば。ゲームでレティアが初登場した時のスチルも登校最中の車から降りてきたシーンだったよね。

 つまり、これゲームが始まる二年生までは確実に続くってことだよね…。




『レティア様。本日は午前授業のみの実施ですが、昼食は如何致しますか?。』

『ん~。どうしようかな…。』


 授業が終わり帰る準備をしていたところメルティが近付いてきた。

 今日の授業は午前中のみ。この後は、特に用事もないわけだけど。

 チラリと外の様子。正確には天気の確認。

 雲一つないポカポカ陽気。春だからか空気は少し冷たいけどお昼を食べるくらいなら平気かな?。


『中庭でお弁当にしない?。確か、作って持ってきてたよね?。』

『はい。アリシア様が用意して下さいました。』

『なら、また中庭で食べようよ。』

『畏まりました。』


 普段の昼食時も使う中庭。

 学園の裏にある庭園。そこには大木が高々と聳え立っている。

 何でも、この大木は学園を包み込むように魔力を放出してるらしくて外部からの干渉を防いでくれているんだって。

 この大木があるから学園がこの場所に建設されたって聞いたことがある。

 学園を守ってくれている凄い木なの。

 その幹の木陰にシートを敷いてピクニック気分でお昼を食べるのが私のお気に入りなのだ。

 結構人気の昼食ポイントなのに私が使うようになってから、ここを利用する人がめっきり少なくなっちゃったんだよね。

 皆が遠慮しているのは空気で分かるんでけど。

 迷惑かと思って、この場から去ろうとすると止めてくる生徒もいるのは未だに謎なんだよね…。


『わぁ。今日はサンドイッチだ。美味しそう。』


 アリシアがメルティに持たせてくれたバスケットから取り出された包み。

 そこには、様々な具材が挟まれたサンドイッチがズラリと並んでいた。


『レティア様。紅茶をどうぞ。』

『うん。ありがとう。』


 メルティが水筒から注いでくれたカップには紅茶の入った。

 仄かに香る甘い匂いが周囲に広がった。


『いただきま~す。』


 サンドイッチを食べ始める。

 冷えていても味の染み込んだお肉の味が口いっぱいに広がる。

 私に合わせて作られた味と量。好物ばかりが並んでいるし、殆どが一口サイズに切り揃えられていて、色々な味が楽しめるように作られていた。

 元々、少食な私のことを考えて用意されている。

 んん~。美味しい~。ありがとうアリシア。

 帰ったらお礼を言わないと。


『御馳走様でした。』


 手を合わせる。

 この世界には、あまり浸透のない文化だけど私が毎回やるものだから今では家族全員が『いただきます。』と『御馳走様でした。』を言うようになったのでした。


『レティア様。紅茶のおかわりです。』

『ありがと。』


 昼食を食べ終えて一息つく。

 メルティからカップを受け取った。

 その時だった。


 にゃ~~~。という鳴き声と共に黒い影が私の前を通り過ぎていった。


『きゃっ!?。』


 驚いた私は拍子に手に持っていたカップを落としてしまう。

 注いで貰ったばかりのカップの中身が私の身体に掛かってしまい制服が濡れてしまう。


『レティア様!。』


 驚いたメルティがハンカチを取り出し私の手や顔や手をを拭いてくれた。

 常に発動している光の魔法のお陰で火傷はしなかったけど制服がびしょ濡れになっちゃった。

 黒い影の正体を確認すると可愛らしい黒い子猫だった。

 少し離れた場所で此方の様子を窺っている。


『レティア様。少々お待ち下さい。今、タオルをお持ちしますので!。』


 そう言い残して、メルティは凄いスピードで走っていった。

 一人残された私は、仕方がないので今尚警戒をしている黒い子猫に向かい合う。


『おいで~。怖くないよ~。おいで~。撫でさせて~。』


 何を隠そう私は無類の小動物好きなのだ。

 ああ。あの子猫をヨシヨシしたいよぉ~。

 抱きしめたいよ~。可愛いよ~。


『にゃ~。敵じゃないよ~。にゃ~。おいで~。抱っこさせて~。にゃ~。』 

『シャーーーーーッ!!!。』


 うぅ…手強い。

 警戒されちゃってるなぁ…。


『ああっと。そうだ。これは無事だよね。』


 私は制服の裏に作って貰ったポケットの中から小さなポーチを取り出した。

 中には宝物のハンカチが入っている。

 一応、私の魔力で守られているから紅茶は掛かっていないね。よかったぁ~。

 私以外には開けられないように魔法を掛けているし、私自身がいつも肌身離さず身に付けているから安心だしね。

 濡れていないことに安堵し、再びポケットに仕舞おうとしたその瞬間。


『にゃ~~~!。』

『きゃうっ!?。』


 距離を取って警戒していた子猫がいきなり飛び掛かって来た。

 驚いた私はその場に尻餅をついてしまう。

 しかも、シートの上には先程溢した紅茶がまだ残っていて、その上に転んじゃったせいでジワりとお尻に冷たい感覚が広がっていった。

 もしかして…いや、もしかしなくても下着まで染み込んでしまったわ。それも、かなりの広範囲を…。


『にゃ!。』


 と、そんな私の元から離れる子猫。

 その口には………えっ!?。

 驚いた私は、猫を見つめながら手で其処等中を探る。

 無い?。無い!?。無い!?!?。

 え!?。あれって…私の…。

 子猫の口には宝物のハンカチが入っているポーチが咥えられていた。


『か、返して!。』

『…………。』

『お願い。それは…凄く大切なモノなの。』


 私の…初めてのお友達から貰った大切な宝物。

 私の心の支えになっている、どんな秘宝にも勝る大事なモノ。

 それを…咥えた子猫は…。


『あっ…だめ!?。』


「にゃっ!」と元気な鳴き声を上げて、ポーチを咥えたまま走り去ってしまった。


『駄目!。待って!。返して!。』


 私は無意識の内に子猫を追うために走り出していた。

 そして、望まぬ子猫との鬼ごっこが始まってしまった。


 全身が溢した紅茶でずぶ濡れなのも忘れて子猫を追う。


 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 

 宝物が…私の大切な…。


 ポーチを咥えた子猫は学園を出て林の中へと入っていく。

 私もそれを追い草木を掻き分けながら子猫との距離を縮めて行く。


『はぁ…はぁ…ま、待って…。』


 枝や葉で身体の所々に切り傷を作りながらも必死に追いかける。

 小さな身体の子猫を見失わないように…視界から離さないように…。

 そのまま、住宅地の方へと入っていく子猫。


 家と家の隙間へと入ったり、塀や屋根の上に登ったり、子猫の運動能力に振り回されながらも無我夢中で追い掛けた。

 そして、丁度住宅地の中心に差し掛かった所でやってしまった…。


『あ、何処に?。子猫は?。』


 子猫を見失ってしまったの。

 

『どうしよう…。私…。』


 周囲を見渡すも子猫の姿はない。

 右も左も。上も下にも。動く気配がない。


『私………やっちゃった…。』


 涙で滲む視界。

 駄目。まだ陽は高い。泣くのは本当に諦めた時だけだよ!。レティア!。

 自分自身に激励。そう。まだ諦めるには早すぎる。

 自身を奮い立たせて周囲を観察する。どんな小さな手掛かりでもいい。子猫の居そうな場所を探すんだ。

 そうして視界を広く。そして、見つけた。


『あ、あれはっ!。』


 見覚えのある落とし物。

 落ちていた物へと走り出す。

 私の宝物を入れていたポーチ。色々と汚れて破れてしまっているけど間違いない。私のポーチだ。

 ポーチを拾い上げた私は絶望する。

 中身がなかったからだ。


『そ。そんな…。どうして…。』


 中身は私の魔力で守られていた筈なのに…。

 いえ、私から離れたせいで魔力が弱まった?。それで、開けられるようになったのかも。

 ポーチに宿っていた魔力も消失していることを考えると間違いなさそう。


『子猫は!?。』


 辺りを見渡す。

 子猫は...何処に…。あっ…いた。

 あの屋根の上に…ハンカチにくるまってる。

 ペロペロと舐めたり、身体を擦り付けたりしてる。


『返して。』


 私は子猫に気が付かれないように静かに屋根の上に登る。

 清楚なイメージを持たれてるレティアとは思えない行動だけど今の私には恥も外聞もない。

 宝物を取り戻すためならなんだってするもん!。


『ゆっくり…ゆっくり…。』


 不法侵入した上に民家の屋根に勝手に登るお嬢様。端から見たらシュールすぎるし、犯罪だし…後で家の人にお詫びしないと。

 恐る恐る子猫に近づいて………も、もう…少しで…。


『にゃっ!?。』

『っ!?。』


 手を伸ばした私と子猫の視線が交錯する。

 動くに動けなくなった私の背中に冷たい汗が流れた。


『にゃっ!。』

『あっ!。待っ………あっ!?。きゃあああああぁぁぁぁぁ!?。あうっ!?。』


 突然、屋根からハンカチを咥えて飛び降りた子猫を追うように手を伸ばした瞬間、バランスを崩して落ちてしまった。

 運良く、庭にあった小さな木の上に落ち怪我はないけど、服はボロボロに…って、そんなこと気にしてる場合じゃない!。子猫を追わないと。


『はぁ…はぁ…はぁ…。』


 家と家の隙間から始まり、草木の生い茂る庭を通過、商店街を抜けて、自然公園の木の上を渡り歩き、噴水の水の中を駆け抜けて、仕舞いには下水道まで通った。


『はぁ…はぁ…はぁ…。駄目…また、見失っちゃった…。』


 空が朱色に染まる。

 気付けば18時を過ぎようとしていた。

 必死に追い掛けたけど体力も限界。


『どうしよう…私…本当に…宝物…失くしちゃった…。』


 とても大切な思い出が沢山詰まった宝物。

 ずっと大切にしてた。肌身離さず持っていたし…怖い人達に襲われた時だって握り締めてたのに…。こんなことで…失くしちゃうなんて…。


『ぐずっ…。』


 悲しい気持ち。悔しい気持ち。やるせない気持ち。自分自身に対する怒り。絶望感と虚無感。

 様々な思いと感情が心の中で渦巻いて、溢れ出る涙となって現れる。

 

『………。』


 唇を噛みしめて、拳を強く握って。

 ゆっくりと立ち上がった。

 あっ…。気が付かなかったけど。私。本当にボロボロだ。

 制服は所々破けて、裂けて。見えてる皮膚は擦り傷だらけ。スカートも腰のベルト部分まで裂けてスリットみたいになっちゃってる。横から見たら下着が見えてるね…これ。

 さっき、四つん這いで地面を這ったせいで爪もボロボロ。爪の間に土が入ってる。

 ストッキングなんか虫食いみたい穴だらけだし。

 折角、朝にメルティに結って貰った髪もボサボサ。

 涙で顔はグショグショだし。


『はは…私…何してるのかな…。』


 帰ろう。

 帰って…お風呂に入って………そして、泣こう。


『にゃっ。』

『え?。』


 今日、何度も聞いた子猫の声。

 僅かにだけど見えた。ハンカチを咥えた子猫が路地裏に入っていくのが…。


『待って!。』


 今度こそ。見失わない!。

 何度か突き当たりを曲がり、大きく開いた広場に出る。

 噴水を中心に円形にベンチや植物が配置された休憩場。


『きゃっ!?。』


 子猫を追うのに夢中になって転んでしまった。

 手を擦りむいたけど、視線は子猫から離さない。

 そして、私の視線は…一番近くにあったベンチの一つに………。


『にゃぁぁぁぁぁ。ぐるぐる。』


 ベンチに座っていた男性の足に喉を鳴らして甘えている子猫。

 

『何だい?。君は?。野良かな?。』


 子猫を抱き上げる男性。

 

『あれ?。これって…。ハンカチ?。このハンカチって…。何で君が?。』


 何で…彼がここに?。


『あ、あのっ!。』

『え?。って!?。レティアさ………ん!?。何でここに…って、どうしたの?。傷だらけで!?。』


 彼が…仁さんが私に気が付いて驚きの声を上げて近付いてくる。

 レティアは有名人だから、彼が知っていて当然だけど名前を呼ばれて心臓が高鳴った。

 転んでいる私は上半身を上げて彼を見つめることしか出来なくて…。


『大丈夫?。何があったの?。』


 仁さんの…私の想い人がこんなに近くに。

 この方の隣に立てるように今まで頑張ってきた。色んなことに挑戦して、努力して、身に付けてきた。

 私は、立派な女性になって彼を支えるんだ。

 そう思って頑張った。

 今の私の姿は…そんな理想像からはかけ離れていて、絶対に見られたくない姿だった。

 服も肌も髪も全部がボロボロ。顔も涙を流したからグチャグチャだ。

 こんな私を見たら彼は幻滅しちゃう。嫌われちゃう。

 そんなの嫌だよぉ。


『じ………ん…さん。見…ないで…ください…。』

『……………。え?。俺の名前…何で知って…いや、今はそれどころじゃないな。はい。これ、レティアさんのだよね。』


 仁さんが手に持っていたのは、さっきの子猫が咥えていた私の宝物。

 私の…。大切な…。思い出…。


『大切な物なんでしょ?。こんなボロボロになってまで…。子猫を追ってここまで来たのかな?。』

『…うん………わた………しの…はじめて…の…お………とも…だち………から…もらったの…。』


 彼から手渡されたハンカチを胸に抱きしめる。

 彼に見られたくない姿なのに、私の感情はハンカチが戻ってきたことに安堵と喜びが上回り、止めどなく流れ落ちる涙に変わる。


『とても…たいせつな…もの…なの………。』


 絞り出すように出た言葉。

 もう離さない。絶対に。

 そう誓ってハンカチを握り締める。

 彼には関係ない筈なのに私は宝物のことを彼に話していた。

 そんな私を彼は優しい瞳で見守ってくれた。


『………そうか。うん。レティアさん。』

『はい。』

『泣かないで。俺はレティアさんの友達のことは知らない。だけど、俺がその友達ならレティアさんには笑っていて欲しいと思うよ。君の笑顔は皆を幸せにするからね。君が悲しい顔だと俺も悲しいよ?。』

『っ!?。ぅん…。』


 そうかな?。ううん。きっとそうだよね。

 仁さんは指先で涙を掬ってくれた。そして、自分の着ていた制服の上着を脱ぎ、私の肩に掛けてくれた。

 フワッと香る、仁さんの匂い。

 落ち着く、優しい匂い。仁さんに包まれてるみたい。


『立てるかい?。』

『は、はい。』


 身体を支え、立たせてくれる仁さん。

 

『あ、あの…仁さん…。わ、私…。』

『レティアさん。いつも一緒にいるメイドさんとは連絡出来るかい?。』

『あ…その、私…何も持たずに飛び出して来ちゃったから…。』

『そうか。少し待っててくれるかな?。』

『はい…。』


 仁さんは携帯端末を取り出し何処かに電話をかける。

 数分後。一台の黒い車が休憩場の横に止まる。

 そして、中からメルティが大慌てで私の元に駆け寄ってきた。

 その後を追うようにゼルドも走って来る。


『レティア様!。突然居なくなってしまって驚きました!。今まで何処に居たんですか!。それに、全身傷だらけで!。こんなボロボロになって!。髪も…。うぅ…無事で良かったぁ…。』

『詳しい話は後かな?。メルティ。レティア様が風邪をひかないよう、急いで寮に戻る方が優先じゃないかな?。』

『はい!。そうですね!。レティア様!。早く車にお乗り下さい!。』

『あ、うん。あの…仁さん。』

『何かな?。』

『色々とありがとう。』

『俺は何もしてないよ。それよりも、ありがとうは此方の台詞だから。…御大事にね。レティアさん。』

『はい。また、今度。ちゃんとお礼をしますので。』

『気にしないで。ほら、早く行って。』

『はい。では、また。』


 私は小さく手を振って車の中に。

 車の中で宝物を子猫に取られて、予期せぬ鬼ごっこが始まってしまったことをメルティとゼルドに説明し、彼が…仁さんが助けてくれたことを伝えた。


『レティアあああああぁぁぁぁぁ!?。何だ!。その傷は!?。あうっ!?。』


 寮に帰ると皆が心配してくれた。

 ボロボロの私を見て、バタッ!。と、大きな音を立てて頭から倒れたお父様。

 ファルナに傷を治して貰って、アリシアに彼の制服を預ける。

 メルティと一緒に入浴して。

 ガドウさんに身体の温まる夕食を用意して貰った。

 今日、あったことはゼルドが皆に説明してくれて、私は今自室のベッドの上にいる。

 今日は疲れたから早めに休みなさいとお父様が気を利かせてくれたの。


『んん~~~。』


 枕元には新しいポーチに入れた宝物を置いた。

 自分の手で洗って汚れを綺麗にして、傷まないように優しく乾かして、丁寧に折り畳んで。


 そして、冷静になった私は枕を抱きしめ顔を埋める。


 私。今日。運命の人とお話ししちゃったよ。

 シチュエーション的には最悪だったけど…。

 「レティアさんには笑っていて欲しい。」

 

『んん~~~。えへへ…。笑っていて欲しいかぁ~。』


 ってことは、私の笑顔が好きってことだよね!。

 仁さんが…運命の人が…私の笑顔を…。


『にへぇぇぇ…。彼が私(笑顔)を好きだって…。きゃあああああぁぁぁぁぁ。最高かもぉ~。あうっ!?。』


 ベッドの上でゴロゴロと転がっていると勢い余って落ちてしまった。

 そのまま床に頭を打っちゃった。痛い、けど…。


『えへ。えへへへへ。』


 嬉しさの方が痛みよりも強い。

 思わず笑みが漏れちゃうよぉ。


『はっ!。でも、私の恥ずかしい姿も見せちゃったんだよね…。』


 彼の前で思いっきり泣いちゃったし。

 私の完璧な女性像が…うぅ…頑張ったのに、崩れ去ってしまった…。


『ううん!。駄目だよ!。レティア!。もっといっぱい頑張って彼に想いを伝えるんだから!。悲しんでなんていられないよ!。』


 ベッドに這い上がり天井に拳を掲げる。


『うん!。頑張るっ!。』


 色んなことがあった一日だったけど、結果的に彼と接触出来たんだから、結果オーライだよね!。何よりも私と彼の物語はこれからスタートするんだから!。


『でへぇ…仁さん…好きぃ~。』


 その後、眠りにつくまで…ずっと彼の顔を思い出しながら表情が緩みきっていた。

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