乞食の大将
ぼんやりしているシャルルを、父王がちらりと見た。
「わが息子シャルルは聖ヨハネのお告げを聞いているそうだ。それによると、デジレ姫こそが息子の伴侶にふさわしいと……」
「本当ですか、シャルル王子?」
シャルルは問いかけられて、少し答えに窮した。
もしも、あの灰が、聖ヨハネのものでないとしたら。
シャルルに、『西方世界の皇帝となれ』と、いかにも神託めかして告げたのは、いったい誰だったのだろう?
デジレを大事にしろと言ったのは――
シャルルは急に、何か恐ろしいものが潜んでいる沼を覗き込んだような心地がした。
「……シャルル王子?」
発言をうながされ、シャルルは今度こそ、よそゆきの笑顔でにっこりした。内心で恐ろしい闇と対峙しているなどとは、おくびにも出さない。
「ええ、父上の言う通りです。俺は、デジレとの結婚は神の祝福を受けたものだと思っています。離縁すれば、フランクに恐ろしい罰が下るかもしれません」
シャルルの発言が決め手となり、デジレの離縁は見送られた。
議題はローマ教皇とロンバルディア王の和睦案に移り、いかにして両者の仲を取り持つかが取りざたされた。
しかし、大事な会議も、今のシャルルにとってはどうでもよかった。
デジレに会いたい。
会って、確かめてみたいことが無数にある。
もしかしたら――と、シャルルは逸る気持ちを抑えて思案する。
デジレをシャルルの思い通りにできるかもしれない。
あの、いつも冷たくて意地悪なデジレを、シャルルの好きなように。
それは、ぞくぞくするような想像だった。
***
デジレはせっせと手紙を書いていた。
リナルドを待たせているのだ。
彼はデジレのところにいるとろくなことを言わない。
「お妃さまの髪の色は素敵ですね。僕は暗いブルネットの女性が一番好きなんです」
「そう? じゃあ染めて金髪にしようかしら」
「金髪のお妃さまも素敵だと思います」
どっちなのよ、とデジレは思ったが、会話をするのが面倒なので放っておいた。
「お妃様、シャルルは今大事な会議をしていて戻れないそうですね」
「だから何なのよ」
「やはり騎士の出番は主君の留守中と決まっていますので」
「だからあなたは騎士じゃなくて奴隷なの。出番なんて何もないわよ」
「俺はシャルルのことを大事な友達だと思っていますが、お妃様は俺の女神なので、泣く泣く裏切ることもあると思います」
「もうその話は忘れてちょうだい……」
リナルドがくだらないことをまだ喚いていたが、デジレはさらっと無視をした。
デジレにはやらなければならないことが山ほどある。
ひとまず父王デシデリウスの悲願、ラヴェンナ奪還は達成された。
この功績のおかげで、父王も、デジレの手紙をきちんと重要視するようになってきている。最初はなかなか言うことを信じてもらえず苦労したが、今後はもっとやりやすくなるだろう。
デジレは次の計画に着手することにした。
「あなたにとても大事なお願いがあるの」
デジレは手紙を書き終えると、リナルドに向き合った。
「ロンバルディアの南に、ストリという町があるわ。その洞窟に、ある人が、乞食をしながら暮らしているの。その人をどうか救い出して、わたくしのお父さまのお城に連れていってもらえないかしら」
「大切な人とは?」
「ぺパン王の妹御……つまりリナルド、あなたの叔母さんのベルタと、そのご子息、ローランよ」
話を聞いていたマーリンが、はしゃいだ声をあげる。
(ローランですか! なるほど、今のうちに味方に引き入れようというのですね?)
シャルルマーニュ十二勇士のローラン。
彼は十二勇士最強の騎士だ。彼は数えきれないほど多くのサラセン人を倒し、シャルルマーニュに貢献した。
ローランがいたから勝てたという戦いもいくつもあったと聞く。
しかしこのローランは、シャルルマーニュに忠実というわけでもない。たびたび軍役を無視し、ときには世話になった敵将のもとで戦うなど、主君よりも自分のポリシーを重んじる厄介な性格をしていた。
そこでデジレは思ったのだ。
もしもこのローランを、幼少期からロンバルディアに引き入れて手厚く育てたなら、ロンバルディア王の戦力となるのではないか、と。
デジレは法廷で火刑に賛成票を投じた十二勇士全員を深く憎んでいたが、ローランだけは別だった。
ローランは、真っ向からシャルルマーニュの不倫に批判を浴びせたのだ。
「大帝、御身のなさろうとしていることは間違っている! かくも多くの美姫をはべらせ、なおアンジェリカを手折ろうとするとは何事か! 御身の激情は騎士の愛などではない、絆や信頼でもない、我欲と冷たい情欲、バビロンの罪、ソドムとゴモラの落とし子だ! 正式に婚姻をあげた妃を一方的に離婚しようなど、全世界に恥じ入るがいい!」
デジレは内心、よくぞ言った、と思っていた。
頼もしいローランも、アンジェリカに振られたあとはみじめなものだった。彼は失意のあまり、宮廷から姿を消した。それ以降の消息は不明で、先にデジレが処刑された。
彼だけはデジレに酷いことをしなかったので、少しだけ親近感を持っていた。
その出来事を差し引いても、シャルルマーニュの手勢はできるだけ削いでおくに越したことはない。友情を断ち切り、互いに疑心暗鬼にさせ、いずれは同士討ちをさせるのだ。
シャルルマーニュは騎士としても最高峰の強さだったが、ローランとぶつかり合えば、さすがに無傷では済まないだろう。
リナルドはデジレが後ろ暗い計画を立てていることなど露知らず、深く感動したようにうなずいた。
「僕の叔母さんが……乞食だなんて、可哀想です。ぜひ保護してあげなければ……」
「そうよ。お願いね」
リナルドはうれしそうに、にこりとした。
「人助けだなんて、さすが、デジレ様はお優しい」
「やめてちょうだい」
打算あってのことだ。リナルドなどに褒めそやされても嬉しくない。デジレは迷惑だったが、リナルドにはあまり通用しなかった。
リナルドはくすくすと笑った。
「お妃さまはほんとうに謙虚であらせられますね。ロンバルディア王家とは直接縁もゆかりもないのに、シャルルの叔母というだけで助けてさしあげるだなんて、なんと慈悲深いのでしょうか」
「やめろと言っているのが聞こえないの」
「ほらまたそうやって怒っているふりをする」
リナルドはわけの分からないことを言って、また笑った。
「お妃様はどんなにすばらしいことをしても、ちっともそれを宣伝しないばかりか、まるで嫌な人みたいにふるまって、周囲の目をくらませてしまう……」
「わたくしが嫌な女なのは事実よ。いいからその口を閉じなさい」
リナルドは言われたとおりにしたが、横柄なにやにや笑いはやめなかった。まるで、自分はデジレのよき理解者だとでもいうように、肩をすくめてみせさえする。
「とにかく、その親子をロンバルディアに連れていってちょうだい。お願いね」
リナルドはまたすぐに出発することになったが、不平は言わなかった。
「旅先でお妃さまに似合いそうな髪飾りを見つけました。よかったら使ってください」
リナルドが差し出してきたのは、青銅に小さなガラス玉が埋め込まれたヘアピンだった。