【第百七十二話】騒擾編:メイレイ
寮棟を囲む結界を解除しようとしていたミラーカ=カルンスタインとジェイク=ハウスラーは、突如目の前に姿を現した女の『巨人』に驚愕していた。その風貌が放つ威圧感もそうだが、この何が起こっているのかすら判らないような状況で、敵が出現したという事実に焦っていたのだ。
だが、同時にミラーカの方は幾分か安堵していた。
彼女はさっきまで勝手に学校を出て行こうとして、結局英語教師に諭されるような形で戻り、まるで何も理解していないままこの騒ぎに巻き込まれていた。だからこそ、この『巨人』の出現はある意味、彼女にとって救いでもあったのだ。
――ああ、やっと状況を説明してくれそうな奴が来た――と。
「……唐突ね。名でも名乗ったらどう?」
思わず口の端が緩みそうになるのを抑えながら、ミラーカは『巨人』に問う。
「うぬ、隠す必要も無かろう。妾は『大魔王』が側近、アングルボダ。我が主の命に従い、『狭間』に影響を及ぼす行為を許す訳にはいかぬ」
「『大魔王』……ッ!?」
ジェイクの表情が青ざめたのが判った。『悪』のシステムに疎いミラーカには、いまいちピンと来ない内容だったが、何となくその『大魔王』が今回の騒ぎの首謀者なのだと推測した。
無論、彼女は『大魔王』が『神』の一柱である事を知らない。寧ろ、『神』というのがどれほどの力を持った『存在』かすらも知りはしない。
あるいは、それを知っていたら何か行動が変わったという事もあるかも知れないが、とにかく今の彼女が抱いた感情は――――怒りだった。
「さあ、始めようぞ。妾の子達よ」
アングルボダが手を翳すと共に、地面に出現する魔術陣。それも二つ。それは、召喚術によるものだった。
「Shit! 魔獣遣いか……ッ! ミラーカ、キミは結界解除の方を続けろ! コイツはワタシが――」
「あー……別にいい」
素っ気無く返事するミラーカ。ジェイクは思わず面食らった。
「ど、どういうことだ!?」
「『巨人』は確か人間と同じで、個人の能力があるはず。コイツの場合は多分、空間操作系の能力なんでしょうね。私の運命干渉より早い。結界解除したとこで、さっきみたいにまた張り直されるのがオチね。でも、別に結界の方も緊急性を要するってわけじゃ無いし、先にコイツを片付ければいいってこと」
あ、そうそう、とミラーカは更に付け加える。
「あんたは手を出さなくていいから。っていうか邪魔」
「な……ッ!? 待て、まさか一人で挑むつもりかッ!? それは――」
「実は結構疲れてんでしょ、あんた?」
「ヌ……ッ」
ジェイクは急に図星を指されて唸った。
「半不死の『吸血鬼』をコストも無しに素手で殺せるわけ無いものね。術の一つも使えない『ダンピール』が居ても足手まといなのよ。どっかそこら辺で見てなさい」
「だ、だが、相手は『大魔王』の側近だぞ! キミでも敵うかどうか――」
「結局、『彼女達』とかいうのについては、あんたに助けてもらったわけだし……憂さ晴らしが出来る機会だわ。負けっぱなしは性に合わないのよ」
「But……!」
「いいから退きなさい」
面倒臭くなったのか、ミラーカは片手でジェイクの鳩尾を殴って意識を奪い、そこら辺の茂みの中へ投げ飛ばした。
そして、ミラーカはアングルボダの前へ一歩踏み出る。
「其方一人か。舐められたものじゃな」
アングルボダの傍らには巨大な魔獣が二匹。一方は、古の神話の終焉にて最高神を喰らった者の名を継ぎし狼。もう一方は、世界蛇とも謳われ雷神と相討った者の名を継ぎし蛇。
それはかつて『魔界』と学校の争いにも遣わされた最強レベルの魔獣達。ヴァナルガンドとヨルムンガンド。
「『巨人』風情が……亜人最強の種族はどちらか教えてやるわ」
刹那、ミラーカが跳躍した。
赤い魔力で爪と翼を形成し、アングルボダ目掛けて加速する。狙いは、その頸。
それに反応したヴァナルガンドとヨルムンガンドは、アングルボダを庇うように素早く動く。
ヨルムンガンドがその長い体躯でアングルボダへの攻撃の道を塞ぎ、そのまま尾を鞭のようにしならせて攻撃を仕掛ける。尾による攻撃を避けたミラーカへ、すかさずヴァナルガンドが追撃に入り、口を大きく開きミラーカの右肩へ喰らい付いた。
勝負は決まったと思ったアングルボダだったが、すぐに様子がおかしい事に気付いた。ヴァナルガンドがその場から動かない。ミラーカへ喰らい付いたまでは良かったが、喰い千切れずにいたのだ。それどころか、牙が皮膚で止まっており、肉の一つも噛み砕けていない。
「非力な犬っコロ」
言い捨てると、ミラーカは噛み付かれている状態からヴァナルガンドの下顎に膝蹴りを喰らわした。明らかな体格差があるにも関わらず、ヴァナルガンドの牙がミラーカの肩から離れ、その巨体が宙に浮く。
「な……ッ!?」
アングルボダの表情が驚愕へと変わる。
ミラーカは再びアングルボダの方へ体を向け、跳躍の構えを取る。それを見て、そうはさせまいと地面に着地したヴァナルガンドが口から火炎を放ち、ミラーカへと浴びせる。
しかし、ミラーカには全く効いていない。
「ぬるい火ね」
方向転換。ミラーカはヴァナルガンドの方へ跳び、赤い魔力を右脚へ集約させる。
「“大虐殺”」
巨大化した右脚による回し蹴りがヴァナルガンドの左顎に炸裂した。ミシミシ、とおぞましい音を立てながらヴァナルガンドが体ごと寮棟の校舎の方へ吹っ飛ぶ。そして、校舎の結界に弾かれ叩き落とされるように地面へ墜落した。ヴァナルガンドはもうピクリとも動く気配がしない。
休む間も無く、ミラーカの攻撃後の隙を狙ったのか、ヨルムンガンドが口から毒霧を吐き散らし、ミラーカの周りへ漂わせる。
しかし、ミラーカはこれを無視し、無理矢理猛スピードでヨルムンガンドとの距離を詰める。拳を固め、一気に鱗の覆われていない腹部へ潜り込んで一撃を叩き込んだ。
苦しんでいるのか、ヨルムンガンドは低く唸るが、致命的なダメージでは無いようだ。長い胴体を駆使し、懐へ潜り込んだミラーカの逃げ道を塞ぐと、丸呑みにしようと顎を大きく開けて迫る。
「“襤褸眼”」
ミラーカの眼から液状の赤い魔力が放たれ、ヨルムンガンドの頭に命中するが、目眩ましにはならない。ヨルムンガンドはそのまま突進し、バクンッ! と勢い良く口を閉じる。
だが、ミラーカを捕らえてはいなかった。
「あんたの方は割とタフね。神話でミョルニルを二発も耐えただけあるわ」
寸でのところでヨルムンガンドの攻撃を回避していたミラーカは、ヨルムンガンドの背後――正確には頭上を取っていた。
そして、右腕へ赤い魔力を蓄積していく。
「――“大殺戮”」
ヨルムンガンドもミラーカの攻撃に対処しようとするが、もう遅い。命中した対象を脆くする術を避けられなかった時点で、ヨルムンガンドの運命は既に決まっていた。
まるで杭が打ち込まれたかのように、ミラーカの強烈な一撃でヨルムンガンドの頭部が地面にめり込んだ。
「敗因を教えてやるわ、デカブツ」
戦闘不能の二匹の魔獣が倒れる傍らに、無傷で悠然と立つ『吸血鬼』の姿に、アングルボダは絶句していた。
「この私に弱点を突かないで、正面からぶつかったことよ」
――化け物だ。
アングルボダの背後の空間に亀裂が現れた。アングルボダが空間操作で逃げようとしているのだ。
「“大蚯蚓”」
だが、それをミラーカは許さない。足元から赤い魔力の触手を出現させ、アングルボダの体を拘束する。
「や、やめろッ! 妾に手を出すでない! 大閣下が其方を殺しにくるぞ!?」
「醜いわね。現実の厳しさから目を背けるんじゃないわよ。この世で生き残りたかったら、卑怯だろうが何だろうがどんな手を使ってでも敵に勝つことよ。プライドなんて捨てて当然。私に勝てなかった時点で、あんたが私に命乞いしても無駄だってことに気付きなさい」
足掻くアングルボダに、ミラーカは冷たく言い放つ。
彼女は弱点を突かれて、別に相手の事を卑怯だと思った事は無い。それが勝負の世界では当たり前で、それが原因で負けるような事があれば、それは自分の落ち度でしかない。
だから、相手の場合も同じ。こちらの弱点を突かなかったのならば、それは相手のミス。情けをかける謂れは無い。
「ま、私に復讐がしたかったら、来世で頑張りなさい」
「待っ――――!」
一際大きい爆砕音が辺りに木霊した。
ここにも、事態が把握出来ないまま戦っている人物が二人居た。
「さっきまた大きな衝撃がありましたけど、大丈夫ですかねえ?」
「‥‥‥判らん」
特別教室棟の教員達。一人は保健室の主。もう一人は図書館の主。石上と大城だった。
二人は四方から放たれる攻撃を避けながら、会話を続ける。
「それにしても、この紺色の集団は何なんですかあ? 魔力の質からして、『悪魔』のようですけど」
「‥‥‥本で読んだ事がある。‥‥‥『悪』において、紺の服装は『番外悪魔』の証だと。‥‥‥通常、集団で動く連中では無いはずだがな」
敵各々の実力が高い上に、数が多すぎる。何か策が無ければ、間違い無くやられる。
「逆に言えば、『番外悪魔』が集団で動く理由の何かが起こっていると……?」
「‥‥‥可能性は高い。さっきの衝撃もそれに関係あるのかも知れん」
「御名答」
一旦、攻撃が止まり、紺色の集団から一人の若い男が前へ出る。
「『番外悪魔』は元来『悪』とは無関係。併しながら、其の内の我々バアルの名を持つ王族は、我等が主ロキ大閣下の御膝下に有り。故に、其の仰せを賜った以上、従うが世の道理」
集団の中でも飛び抜けて異質――そして、最も強力な重圧を放つ『番外悪魔』だった。
「戦渦の中、真実を見極めんとした其の慧眼に敬意を表す。拙者は此度の乱にて『番外悪魔』を率いし者。名をバアル=シャミンと申す」
「‥‥‥何故、今更名乗る? ‥‥‥情でも湧いたかのように見えるぞ」
「情、と申すなら其れも又近し。此の状況下、貴公等が生きる術を、拙者が教えんとする故」
「それは随分と親切ですねえ?」
バアル=シャミンと名乗った『番外悪魔』は手を翳し、虚空から『ソレ』を顕現させる。
魔剣『パズズ』。風の魔神の名を冠する『魔装』を。
「単純。大閣下が仰せしは、貴公等の抹殺で無く、飽迄、大閣下の目的に障りとなる者を排除せよとの事」
「……耐えろ、という事ですかあ? この騒動が終わるまで、あなた達の攻撃に」
「左様。然れど、加減する暇は無き故」
「‥‥‥難題だな」
話は終わり、石上と大城は再び構え、バアル=シャミンは二人へ魔剣の剣先を向ける。
「参る」
そして、教師二人の持久戦は始まった。
「いやー、行っちまったか。今頃どうなってんだろなー。あるいは大閣下に抗うだけの力があるなら、そりゃもう『魔界』どころの騒ぎじゃなく、この世界自体がひっくり返るくらいの衝撃的事実なんだが」
『番外悪魔』であるバアル=モートは、麻央がロキの元へ向かった後も特別教室棟の廊下で一人立っていた。それは明らかにロキの目的に影響を及ぼす行為であり、決して許されるものでは無かった。
本来なら、こんな所でいつまでも留まっている訳にはいかない。彼を粛清しに、すぐにでも誰か他の『番外悪魔』が――――
「ほら来た」
ゴウッ! と、魔力同士が衝突し、周囲に衝撃の余波を生み出す。
飛んで来たのは、蹴り。バアル=モートはそれを片腕で受け止めていた。
「モート……貴様には失望したぞ」
「この裏切り者が、ってか、ハンモン?」
ハンモンと呼ばれた男はバアル=モートに接触した状態から飛び退き、彼との距離を取る。
バアル=モートより一回り大きな体をした『番外悪魔』だった。紺色のローブを纏った上からでも、その筋骨隆々とした様子が判る。
「大閣下に背くとは何たる愚行だ、この王族の面汚しめ」
「大した口の利き方だな。まるで、王族全体を代表してるみてーな。全く、昔っから大閣下の狗だよなー、お前は」
「黙れッ! その減らず口、今すぐ叩けなくしてやるッ!」
ドンッ! と物凄い力で床が蹴り上げられ、ハンモンは凄まじい速度でバアル=モートへ迫る。
「いやー、哀しいなー……」
だが、バアル=モートはそのハンモンが繰り出した高速の拳の一撃を、軽々と掌で受け止める。
「敵との実力差も判らねー馬鹿が『悪魔』の王族を名乗るとはな」
「……ッ! 具現化させない闇魔法……威力を吸収したかッ!」
すぐさま体を反転させ、頭を狙って回し蹴りの体勢に入るが、バアル=モートの挙動はそれより遥かに速い。
回し蹴りの範囲から逃れると、両の手から闇を発生させ、一瞬でハンモンの周囲へ取り巻かせていく。
すぐに反応したハンモンは炎魔法で闇を払おうとするが、闇は瞬く間に彼の体へ纏わり付き、体の自由を奪う。
「お前の炎なんかで、俺の闇が照らせるかよ」
「ぐ……ッ! くそ……ッ! 良いのか、このままタダで済むと思っているのかッ!」
「後々大閣下が裏切り者として俺を殺しに来ると? そりゃ有り得ねーな。俺が裏切ったと証言する奴がどこに居るってんだ?」
バアル=モートが手を動かすと、連動するように徐々に闇はハンモンを侵食し、首へと絡み付き、ぎりぎりと絞め上げていく。
「が……ッ! き、貴様ぁッ! 何故だッ! 何故、ここまでの力を持ちながら、大閣下を裏切ったッ! 貴様のその力を以ってすれば、こんな学校など――――」
闇魔法第二番の三『テラ・クランチ』。バアル=モートが拳を握ると共に、闇はハンモンの体を完全に潰した。
「何で裏切ったかって……?」
グチャリ、と赤黒い血が辺りに飛び散り、その光景を笑う事も無く眺めるバアル=モートは、静かに呟く。
「……可愛い弟の頼みだったから、かな?」
そして、闇は飛び散った血すらも呑み込んで消えた。