第1話 黒崎君の恋
高校の頃、声を聞くたび姿を見るたび、なぜだか心が騒ぐ人がいた。
一つ年上の花子さんだ。
花子さんは放課後になると、決まってグラウンドのフェンスの前に現れる。そして練習する先輩をじっと見つめていた。
見つめていると言っても、バスの時間もあるらしく、数分程度だが‥。
先輩は遠くで練習していたから気づいていなかったかもしれない。
だが、フェンスの近くで練習していた俺は知っていた。
花子さんが毎日のようにやって来ることを。
そして、先輩を見つめる花子さんを、俺が目で追っていたことを。
その様子に気づいた監督は、花子さんを見つけるたび、
「うちの大事な選手を見るな! 早く帰れ!」
と手を振って追い払った。
今なら問題になりそうな言葉だが、当時の監督はそんな人だった。
けれど花子さんは少しも気にしない。
ケラケラと笑いながら、
「はーい!」
と返事をして、帰り際には俺たち後輩に向かって大きく手を振る。
「頑張ってねー!」
そう言い残して去っていくのがいつもの光景だった。
監督に怒鳴られてもへこたれない。
周りの目なんて気にしない。
好きな人を真っすぐ追いかける。
そんな人を、俺はそれまで見たことがなかった。
気づけば俺は、花子さんが来る時間を覚えていた。
花子さんを気にするようになったのがいつからだったのかは、よく覚えていない。
フェンス越しに見かけるようになってからか。
監督に怒鳴られても笑っている姿を見てからか。
それとも、俺の名前を覚えてくれた時だったのか。
今となっては分からない。
ただ、一つだけ覚えていることがある。
花子さんと二人きりで帰った日のことだ。
その日は珍しく帰る方向が一緒だった。
気づけば他のみんなとは別れ、俺と花子さんだけが並んで歩いていた。
花子さんは黙ることがなかった。
「ねえシロクマって左利きらしいよ」
「そうなんですか?」
「知らんけど」
そう言って笑う。
数秒後には「結婚するするなら、自分の名字より、前の行の名字の人と結婚した方がいいんだって」
と真面目な顔をして話し始める。
根拠は最後までわからなかった。
今思えば、どうでもいい話ばかりだ。
けれど花子さんは楽しそうだった。
次から次へと話題を見つけては、俺に話しかけてくる。
身長差がかなりあったから、花子さんは話すたびに一生懸命顔を上げていた。
首が疲れないのだろうか。
そんなことを思った。
けれど花子さんは気にもしていないようだった。
不思議だった。
話の内容なんてほとんど覚えていないのに、その時間だけは今でもはっきり覚えている。
気づけばバス停に着いていた。
花子さんは相変わらず楽しそうに話していた。
話題は何だっただろう。
好きな芸能人だったか。
テレビで見た話だったか。
今となっては思い出せない。
ただ、花子さんが笑っていたことだけは覚えている。
しばらくして、先に俺の乗るバスがやって来た。
「ほら、黒崎君の来たよ」
花子さんがそう言った。
俺は思わず空を見上げた。
まだ来なくてもいいのに。
そんなことを考えた自分に驚いた。
「花子さんのは?」
「私のも、もうすぐ来るから」
そう言って笑う。
「だから先に帰りなよ」
いつもなら何も思わなかったはずだ。
家に帰るだけなのだから。
けれど、その日は違った。
帰りたくなかった。
もう少しだけ話していたかった。
もう少しだけ、この時間が続けばいいと思った。
バスのドアが開く。
乗らなければいけない。
それなのに足が動かない。
花子さんは不思議そうな顔をした後、
「どうしたの?」
と首を傾げた。
俺は慌てて首を振り、バスへ乗り込んだ。
窓際の席に座り、発車するまで外を見る。
花子さんは手を振りながら、次の話題を探しているような顔をしていた。
その姿を見た時だった。
ああ。
俺、この人が好きなんだ。
そんなことに、ようやく気づいた。
けれど花子さんの視線の先には、いつだってあの人がいた。




