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第20話 心眼の剣姫が、初めて"心"を見失った日

──どうして、こうなったんだろう。


俺──神田ゆういちは、今、剣道着に身を包み、木の床が軋む道場に立っていた。

目の前には、真剣な眼差しの安城恵梨香。

推しとの、ガチの剣道対決。まさかこんな展開が待っているとは。


時はさかのぼり、放課後。

「聖〜、そろそろ帰るぞ〜」


「ごめん、ゆういち。補習に引っかかっちゃって……先に帰ってて」


上目遣いでそう言う聖に、思わず笑ってしまった。あの小動物みたいな表情、ズルい。

「じゃ、がんばれよ」

手を振って別れ、校門に向かった……が、ふと足が止まる。


(ちょっとだけ、覗いてみるか)


吸い寄せられるように剣道場へ向かう。

扉をそっと開けると──


一人、静かに正座している安城の姿があった。


誰もいない静寂の中、差し込む西日の光に照らされた彼女は、まるで風景の一部のようで──思わず息を飲んだ。


「……だれ?」


ビクリとした瞬間、安城がこちらを見た。どうやら気配に気づかれたらしい。


「すまん、邪魔するつもりはなかった」


「いいわ。今は誰もいないし、入ってきなさい」


道場に上がると、彼女は鋭い眼差しで問いかけてきた。


「で、用件は何かしら?」


真っ直ぐに射抜くような視線で、彼女は俺を見据えていた。

怒っているのか、喜んでいるのか――その瞳の奥は読み取れない。

ただひとつわかるのは、俺の心がその視線に捕らわれ、微かにざわめいたことだった。


──推しの剣道姿を拝みたかったなんて、そんな下心の塊のような発言なんか口が裂けても言えるわけがない。


「なんとなく、だよ」


偶然を装って、この剣道場に足を運んだように答えた。だがその足取りに偶然の欠片はなかった。

目的は明白。動機は単純。

――下心。それ以上でも以下でもない。

……これが男の、悲しきさがってやつなのだ。


そんな俺の下心を、既に見抜いているかのように、安城は微笑んで言った。


「ふふ、てっきり入部希望かと思ったのに。……少しやってみる?」


推しにカッコいい姿を見せる、これ以上ないチャンス。

でも同時に――カッコ悪い姿を晒すかもしれない、一世一代の試練。


(落ち着け……俺、落ち着け……!)


脳内で何人もの俺が会議を始め、感情と理性が綱引きを始める。


結局、俺は今日一番の集中力で思考をフル回転させ、言葉を選んだ。

全細胞を総動員して、たった一言を編み出すために。


「マジかよ、やり方なんてわかんねぇぞ」


一見すると、ただの初心者発言。

だけど俺の中では、完全に計算済みの布石だった。


(そう――初心者アピールだ)


万が一、恥をかいても「初心者だから」で済む。

逆にうまく決まれば「初心者にしてはやるな」ってなる。


どっちに転んでも致命傷は避けられる。そう、これは保険。自己保身。そして何より…がっついていない。


まったく、自分で言ってて情けないと思う。でも仕方ない。

“推し”の前では、俺の卑屈センサーはMAXで稼働するのだ。


そんな俺の保険だらけの返答をまるで見抜いてるように安城はスッと目を細めた。


「いいのよ、自由で。それに──ハンデとして、私は片手でしてあげる」


まるで俺の腹の底を見抜いたかのように、彼女の瞳が静かに揺れた。

冷ややかでもなく、優しくもなく。ただ、真っ直ぐで――挑発的だった。


胸の奥に広がる屈辱感。それが、眠っていた闘志に火をつける。


逃げ道なんていらない。保険なんて張らない。

どうせやるなら、真正面からぶつかるしかない。

そう心に決めて、俺はただ、目の前の“推し”に向かって言葉を放った。


「……絶対両手を使わしてやる」


普段なら崇拝対象の推しに対して、燃え上がる闘争心が湧いてきた。

俺は剣道着を手渡され、着替え、構えた。


「始めるわよ。礼──」


竹刀と竹刀がぶつかる。カン、カンと乾いた音。

最初は軽く交わすだけの打ち合いだったはずが、次第に熱を帯びていく。


剣道のセオリーなんて、俺の頭には一片も入っていない。ただ、目の前から襲いかかる竹刀を、反射だけで打ち返す。


考える暇も、技術もない。ただ本能のままに、ひたすら打つ。経験者が見たら、鼻で笑うような、型破りで雑な動きだろう。


けれど、それでも俺は諦めなかった。

体が勝手に動く。理屈じゃない。

完全に――俺という人間のセンスだけで、この場に立っている。


(何これ?……一打一打がなんて重いのよ)


俺は防具を被ってる安城がいまどんな表情をしてるのか気になった。予想通りの初心者だと落胆しているのか、それとも初心者の割には健闘しているのか、彼女が今どんな表情をしているのかは防具によってまるで見えない。


(………この男、本当に初めてなの?)


竹刀と竹刀が激しく火花を散らすようにぶつかり合う。その応酬の最中、安城は一瞬の隙を見つけて距離を取ると、静かに口を開いた。


「ねぇ…あなた何か格闘技でもやってたの?」


その声は、わずかに震えていた。感情を抑えきれなかったのか、それとも不意を突かれたのか――どこか驚きの色が滲んでいるように感じられた。


「いや、何も。でも──(姫花がいじめられたあの時からいつでも守れるように、体は鍛えてる)


そう返答してすぐに俺は彼女に打ち込みにいく。

バシッ、バシッ──音が鋭くなる。

身体が動くほど、俺の中で何かが目覚めていく。


(……これが初めて? 嘘でしょ……)


安城の目が鋭くなる。まるで、心を読んでいるかのようだ。


“心眼の剣姫”──その異名は伊達じゃない。


右面、左胴、右小手。次々と繰り出される竹刀。

けれど俺も、集中が増していく。

意識が研ぎ澄まされ、世界がゆっくりと動き出す。


(……あの時の感覚に似てる)


過去にも何度か味わったことのある、あの感覚が再び訪れる。まるで深い海の底へ、静かに沈んでいくような錯覚。余計な雑念はすべて消え、思考は不思議なほど澄み渡っていく。ただ、目の前の一瞬だけに意識が研ぎ澄まされていた。


気づけば、ギャラリーが増えていた。剣道部員たち、その噂を聞きつけた聖、そして妹の姫花も来ていた。


「にぃに……すごい」

「ゆういち…かっこいい」


誰もが口を開けて驚いていた。

俺が、“心眼の剣姫”を追い詰めている──!


(……こういうタイプは稀にいる。生まれながら才能に恵まれた人間が)


その瞬間、安城の空気が一変した。まるで心の奥で何かのスイッチが入ったかのように、鋭さを増した視線がこちらを射抜く。獲物を逃さぬ獣のような本気の眼差し。その手には、これまでとは明らかに違う強さで竹刀が握られていた。


それは──本気になった証。


竹刀と竹刀が、激しくぶつかる。

だが俺の剣術は型破りだった。重く、鋭く、そして本能的。そしてあまりの集中に余計な雑念が消えていく。


(嘘でしょ…!?こんなの初めて……)


安城が、目を見開いた。


(心の声が聞こえない……?)


そう——それは、彼女にとって明らかな異常だった。

試合の最中、相手の心の声が聞こえる。それは彼女にとって呼吸のように“当たり前”のこと。相手の動きも、次にどこへ打ち込むかも、すべては声として流れ込んでくるはずだった。

だが、その“声”が――突然、途絶えた。


そう、俺の心の感覚が研ぎ澄まされ思考が消えるほど没頭していたのだ。


(心が……読めない?一体どうして?)


信じがたい現象に、心がわずかに揺れた。

その一瞬の動揺が、隙となって現れる。

しかし彼女はすぐにそれを自覚し、迷いを振り払うように意識を切り替えた。

揺れた重心を正し、再び静かに構えを整える。


(私は負けられない…)


その言葉とともに、怒涛の連撃。だが──


「……あの時と同じだ……」


ぽつりと呟いたのは、観客席の端にいた妹・姫花だった。剣道場に漂う張り詰めた空気の中、ふっと何かが“変わった”。


静寂の中心にいる、神田ゆういちの左目の瞳孔が、わずかに開く。その目は獣のようであり、無垢のようでもあった。


「感情」ではなく、「意志」でもない。


ただ、“本能”だけで動くかのような、その目。


──その瞬間だった。


ゆういちの左目の瞳孔が、わずかに開く。

周囲の空気がピンと張り詰める。

まるで時間そのものが、一拍だけ遅れたような錯覚。


床の軋む音、観客の息遣い、安城の汗が落ちる音

それらすべてが、異質な静寂の中に封じ込められていく。そして、彼女の心の奥から――ふと、言葉が漏れた。


「……最後に、フェイントを──」


つぶやいた覚えなんてない。

ただ、頭の中で組み立てていた戦略が、まるで誰かに無理やり引きずり出されたように、空気の中へ放たれていた。

――それは、“心の声”が勝手に漏れたような、そんな感覚だった。


そしてそれを――ゆういちは、確かに“聞いた”。


(…………え?今どうして私…声を…!?)


竹刀が、その“嘘”に合わせるように、加速した。


「終わりだ──」


ゆういちは竹刀を精一杯に振りかぶり、鋭く、深く、竹刀が打ち込まれる。視線の先、安城の髪が揺れ、オッドアイが一瞬、光を反射した。


「…嘘でしょ!?」


──負けた。


そう彼女は思った、その瞬間。


(私より、強い人……)


かつて聖に聞かれた言葉が、胸をよぎる。


「安城さんって、どんな人が好きなんですか?」


「……私より、色んな意味で“強い人”かしら?」


その時──


「そこまで!」


顧問の声が飛び、試合が中断された。

集中の糸がぷつりと切れた瞬間、反動で体がぐらついた。思わず足元がふらつき、視線が泳ぐ。ぼんやりと、周囲の景色が目に入ってくる――まるで夢から醒めたあとのように。


「……あれ? なんでこんなに人が集まってんだ?」


汗を拭きながら、平然と呟く彼はいつもの“ゆういち”に戻っていた。安城は無言で面を外し、背を向けたまま静かに歩き出す。


(……何なのよ、あれは)


──“心が読めない”というのが、こんなにも……不安で、そして愛しいなんて。


安城は無言で礼をして、道場を離れる。マスクを外すと、顔がわずかに紅潮していた。


「引き分け……だな」


汗を拭きながら、俺は笑う。


「最後、なんで手加減したんだ? 自分の手の内を晒すような──」


「……見直したわ」


握手の手が、夕陽の中で重なる。

その影が、道場の床に、静かに揺れていた。


「引き分けじゃないわよ。私の負けよ。……色んな意味で」


安城はゆっくりと手を離すと、わずかに視線をそらしながら言った。


「勘違いしないでよね……変な意味じゃないわよ。負けたって言ったのは、あくまで“今日”だけだから」


「そりゃ……もちろん」


俺は苦笑しながら返す。

でもなぜか、その横顔が少しだけ震えているように見えた。


(……あれ? 推しって、あんな表情するんだな)


そんなことを考えていたら、ふいに安城が俺の顔を見つめ直した。


「でも……少し、楽しかったわ」


そう呟いた声は、剣のような鋭さも、氷のような冷たさもなかった。ただ──少女の、それだった。


安城は視線を逸らし、指先を落ち着きなく動かしていた。

頬にはじんわりと朱が差し、その仕草にはどこか戸惑いが滲んでいる。

やがて、意を決したように、かすかに唇が動いた。


「……明日も同じ時間に……その…道場、空いてるわよ」


突然、安城の口から告げられたのは、次回の剣道部の活動時間だった。

思わず目を見開く。


(そんなこと、なんでわざわざ俺にいうんだろう?)


けれど――

そこに「また来てほしい」という意味が含まれているだなんて、当時の俺には知る由もなかった。


「……ん?どうしたんだよ?いきなり?」


「べ、別に! 続きがしたいとか、そういう意味じゃ──」


「うん、わかった。また行くよ」


その返事を聞いた瞬間、彼女は顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。

──夕日の中で揺れる金と蒼の瞳が、どこか少しだけ柔らかく見えた。


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