第21話 試着室から出てきた推しが、最強すぎた件
(うわっ……人、多すぎだろ……)
休日のショッピングモールは、俺の想像を軽く三段跳びで超えてきた。
視界の八割が人。前も横も後ろも人、人、人。
――圧倒的インドア派の俺にとって、この状況はもはや外出という名の罰ゲームである。
「お兄ちゃん、こっちこっち〜!」
人混みの向こうから、やたら元気な声が飛んできた。
妹の姫花だ。今日は彼女の服を買いに来ている。
……なぜ、休日のピークタイムを選んだ。
「お兄ちゃん、もっとテンション上げて! 買い物は楽しまなきゃ!」
「いや、流石にこの人の多さは……」
言い終わる前に、波のような人流に押されて一歩ずれる。
もうやだ。
俺は正直、人混みが大嫌いだ。
意味がわからない。なぜ人は、疲れると分かっている場所に自ら集結するのか。
すれ違う肩。ぶつかる肘。耳に流れ込んでくる無数の会話とBGM。
五感すべてが休む暇を与えられない。
(……帰りたい)
心の声が、即座に結論を出す。
けれど、世の中にはいるらしい。
この雑踏を「活気」と呼び、
この混沌を「楽しい」と感じられる――特殊な人種が。
まるで理解できない。
いや、正確に言えば――理解する気もない。
そんな俺の隣で、姫花はキラキラした目で人混みを見渡しながら言った。
「人いっぱいだね! ワクワクする〜!」
……この子、俺と本当に同じ遺伝子から生まれたのか?
(落ち着け……神田ゆういち……
我が最愛の妹の笑顔のためだ……ここは我慢だ)
そう心の中で唱えながら、俺はそっとため息を吐いた。
深呼吸。人混み耐性スキル、レベル1、発動。
そんな俺に、姫花は満面の笑みでぐいっと距離を詰め、ひそひそ声でささやいてくる。
「姫花ね、可愛い服ほしいから、一緒に選んでよ!」
「いや、もうすでに可愛さ100点満点でカンストしてるだろ。
これ以上点が上がらないって……100点より上を目指すとか、どんだけ向上心高いんだよ……」
わりと真面目なトーンで言いながら、軽く茶化す。
本心だ。誇張ゼロ。
すると姫花は、ぱっと顔を赤くして、慌てたように手を振った。
「は、は!? ……もう、にぃにったら!
そんなに褒めても、なにも出ないよ!」
「いやいや。ただでさえ可愛いのに、これ以上可愛くなったら他の子と差が開きすぎて可哀想だろ?
これは警告なんだよ、妹よ。だからさ……もう家に帰らないか?」
「にぃに、早く行くぞ」
……早い。
切り替えが、早すぎる。
どうやら俺の「帰りたいオーラ」は完全に見抜かれていたらしい。
さっきまでの照れはどこへやら。姫花は俺の肩をがっしり組み、そのまま引きずるように歩き出す。
そして、半ば強制的に連行された先は――
レディース専門店だった。
完全に場違い。
だが、姫花は楽しそうで、俺は何も言えず、ただ後ろをついていく。
……そのときだった。
店の奥。
マネキンの隣に飾られた、一着の白いワンピースに、ふと目が留まる。
(……これ、安城が着たら絶対かわいいよな?)
一瞬で、脳内に映像が再生される。
金髪。オッドアイ。
ふわりと揺れる白いスカート。
柔らかな光の中で、静かに微笑む――俺の推し。
(……いや待て待て。てか、俺、休日まで推しのこと考えてんの?
バカじゃん、俺……)
(でも……安城の白いワンピース姿を100点満点で採点すると、10万点だな)
評価基準が完全に壊れている。
自覚はある。だが止まらない。
俺はそっと値札を裏返して確認した。
(なるほど……1万円か……買えないことはないな?)
(……いや、待て。
安城の白いワンピース姿が10万点で、このワンピースが1万円……)
(……ってことは、9万円得してるんじゃないか?
実質、俺、儲けてないか?)
(……大丈夫なのか? この店)
頭の悪い俺が、この店の経営状態にまで思考を巡らせ始めた――
その瞬間だった。
「……えっ?」
姫花の、驚いた声が聞こえた。
「――あれ? 安城さんだ!!」
突如、隣を歩いていた姫花がぴょん、と跳ねるように声を上げた。
次の瞬間には、手を大きく振りながら人波をかき分けて走り出している。
「あ、姫花……おい、ちょっ、急に走るなって!」
制止する暇もなく、姫花は一直線。
向かう先は――俺の“推し”。
そして、当然のように、それを追いかける俺。
「待って! 安城さーん!」
その声に気づいたのか、前方で足を止め、振り返ったのは――
安城恵梨香だった。
靡く金髪。
幻想的な、瑠璃と琥珀のオッドアイ。
……この瞬間だけは断言できる。
俺は人生で初めて、人混みの多いショッピングモールを「好き」だと思った。
「……姫花ちゃん、こんにちは」
黒のトラックジャケットに、スリムなデニムパンツ。
制服とはまるで違う、動きやすくて洗練されたスポーティーな私服。
派手なはずなのに、主張しすぎない。
街の喧騒に自然と溶け込みながら、それでも確実に視線を奪う――そんな存在感。
(……あれ?)
胸の奥に、ちくりとした違和感が走る。
(この服装……昔、どこかで見たような……?)
記憶の扉を、誰かにノックされた気がした。
でも鍵が見つからない。
思い出せそうで、思い出せない。
そのもどかしさだけが、生々しく残る。
(……気のせい、か)
そう自分に言い聞かせながらも、
俺の視線は、無意識のうちに彼女から離れなくなっていた。
――完全に、正気を失っていたんだと思う。
「うわぁ……安城さんの私服、初めて見た!!」
姫花が目を輝かせて、安城に近づいていく。
「かっこいい系なんだね!?
でも安城さんなら、もっと女の子っぽい服も絶対似合うと思うんだけどな〜!」
その言葉に、安城はほんの一瞬だけ目を伏せてから、ぽつりと答えた。
「……私、そういうの……似合わないの」
声は静かで、少しだけ寂しげで。
けれど、どこか吹っ切れた響きもあった。
「剣道、ずっとやってきたから。
可愛い服とか……縁がなくて」
「そんなことないよ〜!」と明るく返す姫花。
その隣で――
なぜか俺も、気づけば口を開いていた。
「いや、絶対似合うだろ?」
――言った瞬間、内心で凍りつく。
(…………俺、今、口に出してた!?)
いつもなら、こういうのは心の中で完結する。
“推し活”は、あくまで内心限定のはずだった。
なのに。
言葉が、止まらなかった。
「むしろ、安城が似合わなかったら、誰が似合うんだよ」
「顔も可愛いし、スタイルもいいし……
何着ても、絶対似合うと思うぞ」
――その瞬間。
安城は、はっきりと目を見開いた。
「……なっ、なに言ってんのよ、急に!?」
頬が、みるみる赤く染まっていく。
視線は宙を泳ぎ、口元は抑えきれない感情を堪えるように、かすかに震えていた。
(……あ)
――やった。
完全に、やらかした。
(あ、やばい。完全にやっちまった……怒らせたか?)
――でも、俺は止まらない。
自分の専門分野に立ったオタクを、舐められちゃ困る。
俺は、さっき見かけた白いワンピースのことを思い出し、勢いのまま口を開いた。
「そういえばさ。
安城が着たら、すっげー似合いそうな白いワンピースがあったんだよ」
気づけば、言葉は妙に流暢だった。
まるで店員のセールストーク。
――いや、違う。
アパレル店員《神田ゆういち》、臨時降臨。
「よかったら……試着してみないか?」
普段なら、店員に話しかけられるだけで逃げ出す俺が、
自分から勧めているという異常事態。
言い終えた瞬間、顔が熱くなる。
心臓もうるさい。
でも――
彼女は、それを断らなかった。
それどころか。
ほんの一瞬だけ目を泳がせて、
驚くほど“まんざらでもなさそう”な表情を浮かべた。
(……あれ?)
もしかして。
いや、実は。
可愛い服にも、少しは――興味があるんじゃないか?
安城は視線を伏せ、頬をわずかに赤らめながら、ぽつりと呟いた。
「……わかったわよ。
でも……似合ってなくても、笑わないでね」
その声には、はっきりとした恥じらいが滲んでいた。
俺は、神に誓うみたいな気持ちで、全力で頷く。
(笑うわけないだろ。
――似合うんだから)
……いや、問題はそこじゃない。
(似合いすぎて……
俺の顔が、スケベな顔にならないかだけが心配なんだよ……!!)
内心で絶叫しながら、自分を叱責する。
推しがワンピースを着る。
――そんな尊すぎるイベントが、今、目の前に迫っていた。
安城は試着室へ向かい、
カーテンが、静かに閉まる。
その瞬間、世界の音が一段階下がった。
(……俺は今から、伝説を目の当たりにするのだろうな……)
――そして。
カーテンが、ゆっくりと開く。
「……ど、どうかしら……?」
「はっ……!?」
恥じらいを含んだその声と同時に、視界に飛び込んできたのは――
白いワンピースに身を包んだ、俺の“推し”。
いや。
もうはっきり言おう。
純白の女神だった。
金髪にオッドアイ。
普段はクールな《剣姫》。
そんな彼女が――
いまはまるで、童話から抜け出してきたお姫様みたいに、そこに立っていた。
「……安城……
めっちゃ、可愛い……」
完全に、口が先に動いていた。
(俺、たぶん……
とんでもなく、だらしない顔してる)
いつもなら心の中に留める言葉が、
今日はことごとく外に漏れる。
「やばい……想像を、遥かに超えてる……」
「10万点どころじゃない……
これは100万点だ……実質99万円得してる。
本当に大丈夫なのか? この店は」
「……なに言ってるのよ、アンタ」
安城の冷静なツッコミにも、俺は止まらない。
今日の俺には、最初からブレーキなんて付いてなかったらしい。
――やがて、試着は終わり。
安城は、名残惜しそうにワンピースをラックへ戻した。
「……やっぱり、私には似合わないわ。
ごめんなさい」
その言葉に、俺は思わず息を呑む。
(いやいやいやいや、何言ってんの!?)
どう見ても、似合っていた。
いや、“似合っていた”なんて生易しい言葉じゃ足りない。
伝説級。
マネキンより、安城が着て歩いたほうが
十倍は売れる。断言できる。
「……そんなこと、ないって……」
もっと、見ていたかった。
もっと、笑ってほしかった。
……でも、“純白の女神”は、もう見納めらしい。
それでも、安城は静かに言った。
「いいの。今日は……
着れただけで、充分だから……」
照れくさそうで。
それでいて、どこか満足そうな声。
(……やっぱり、興味はあるんだ)
可愛い服。
女の子らしい服。
それを“見せる勇気”が、ほんの少し芽生えただけ。
その勇気を、俺に見せてくれたことが――たまらなく嬉しかった。
そして。
「お兄ちゃ〜ん!
これ買うのに決めた〜!」
姫花が、満面の笑みで戻ってくる。
買い物を終え、帰ろうとした――
その時だった。
我が最愛の妹が、とんでもない爆弾を投下したのは。
「ねぇ、安城さん。
今日って暇?
よかったら、このまま――うち、遊びに来ない?」
「……えっ?」
安城が、ぱちっと目を丸くする。
……俺は、内心で叫んだ。
(でかした、妹……!!)
人生で初めて、
妹に全力のガッツポーズを捧げた日だった。




