第169話 安城恵梨香――壊れゆく正義
私は、後ろの席から静かに神田君を見つめていた。
教室の窓から差し込む光が、
彼の横顔を淡く照らしている。
その周りには――自然と人が集まっていた。
氷室さん。
加賀さん。
黒羽さん。
クラスでも目立つ、可愛くて明るい女の子達。
「ぶはっ――あははははは!!」
「神田マジ最高!!」
「私アンタツボだわ!」
きゃはは、と弾ける笑い声。
その中心で、神田君もいつもの調子で笑っている。
私は、その光景をただ黙って見ていた。
胸の奥が、
じわりと熱くなる。
――苦しい。
私はそっと、
スカートをぎゅっと握りしめた。
(……取られちゃう)
そんな言葉が、
不意に頭をよぎる。
(このまま……)
(このまま神田君が、あの子達の魅力に気づいて……)
喉が、ひどく苦しかった。
(私のことなんて……どうでもよくなったら……)
考えた瞬間、
胸の奥がずきりと痛む。
自分でも驚くくらい、
怖くなっていた。
私は、彼の“心の声”が聞こえる。
でも――今は遠い。
教室のざわめきと笑い声にかき消されて、
肝心な彼の本音なんて当然届かない。
(……この距離じゃ聞こえない)
その事実が、
どうしようもなく不安だった。
もし今、
彼が誰かに心を奪われていたら?
もし今、
黒羽さん達にドキドキしていたら?
もう既に、
私じゃない誰かを――。
「――っ」
そこまで考えて、
私は小さく首を振った。
嫌だった。
想像するだけで、
胸が締め付けられる。
私は、静かに席を立った。
椅子が小さく音を鳴らし、
その瞬間――前の席に座っていた聖が振り返る。
「恵梨香ちゃん どうしたの? もう授業始まるよ?」
心配そうな声。
私はいつものように、
平静を装って小さく微笑んだ。
「……ええ。少し、お手洗いに行きたくて」
もちろん、
本当に行きたいわけじゃない。
ただ――。
彼の近くを通りたかった。
神田君の声を、
心を、
確かめたかった。
あの声を聞いて安心したい。
(いつものように私だけを求めてくれる声)
私はゆっくりと歩き出す。
教室の空気。
誰かの笑い声。
ページをめくる音。
その全部が遠く感じるほど、
今の私の意識は一人に向いていた。
――神田ゆういち。
私はわざと、
彼の席のすぐ近くを通る。
そしてその瞬間スピードを落とす。
彼はまだ加賀さん達と話していた。
けれど。
私が横を通りかけた、
その瞬間だった。
神田君の肩がぴくりと揺れる。
そして、
はっとしたように顔を上げた。
視線が合う。
その瞬間――。
(あっ……安城)
(うん。今日も俺の推し、本当に可愛い……)
「――っ」
張り詰めていた胸の奥が、
ふっと軽くなる。
まるで、
冷たい水の中で息を止めていた人間が、
ようやく呼吸できたみたいに。
(……ふふ)
唇が、
ほんの少しだけ緩む。
(……よかった)
(まだ、私だけを見てくれてる)
その事実だけで、
胸の中の黒い不安が、
少しずつ溶けていく。
単純だと、
自分でも思う。
たった一言。
たった一つの心の声。
それだけで、
こんなにも救われるなんて。
でも――。
今の私を支えているのは、
間違いなくその言葉だった。
私は彼に気づかれないよう、
少しだけ表情を隠して前を向く。
けれど。
胸の奥では、
小さな独占欲が静かに囁いていた。
(……もっと)
(もっと、私だけを見て)
(早く……私の隣の席に戻ってきてよ……)
そんな、
あまりにも身勝手な願い。
――けれど。
その時。
教室のざわめきの中から、ひときわ鋭い声が胸に刺さった。
黒羽冬花。
(……ごめんね、安城さん)
(でも私も、引く気ないから)
(安城さんから、神田っちを――略奪する)
「――え?」
思考が止まる。
今、
なんて……?
心臓が、
どくん、と嫌な音を立てた。
(略奪……?)
(神田君を……私から……?)
その瞬間。
全身の血が一気に冷えていく感覚に襲われる。
呼吸が、
急速に浅くなる。
「はぁ……っ……は……」
喉がうまく動かない。
胸が苦しい。
頭の中が、
ぐちゃぐちゃにかき乱されていく。
(やめて……)
(取らないで……)
(だめ)
(だめ、だめ、だめ……!)
(絶対、取っちゃだめ……!!)
私は逃げるように教室を出た。
本当は、
お手洗いなんて行きたくない。
でも、
今の顔を誰にも見られたくなかった。
廊下を早足で進み、
そのまま女子トイレへ駆け込む。
鏡の前に立った瞬間。
そこに映っていたのは――。
息を乱し、
怯えた顔をした自分だった。
「……っ」
情けない。
こんなの、
私らしくない。
私は無言で蛇口をひねる。
冷たい水が勢いよく流れ落ち、
静かな空間に音だけが響く。
その音に紛れるように、
私は小さく呟いた。
(どうしたら……)
(どうしたら、彼を失わずに済むの……?)
視界が、
ゆらゆらと揺れる。
正常な判断ができない。
今までの私は、
こんな感情に支配されたことなんてなかった。
人の心を読むたび、
醜さも、
欲望も、
執着も見てきた。
だからこそ、
私はずっと“冷静”でいられたはずなのに。
なのに今は。
神田ゆういちを失うかもしれない。
その想像だけで、
心が壊れそうだった。
そして不意に――。
脳裏に、
あの日の光景が蘇った。
張り詰めた空気。
竹刀がぶつかり合う音。
鋭く睨み合う、
私と本郷愛理さん。
あの剣道対決の最中。
私は確かに、
彼女へ向けてそう言った。
『失うからこそ、それは美しくて尊いのよ』
『永遠じゃないから』
『終わりがあるから』
『人は、今を――』
『こんなにも必死に、愛せるのよ』
「――っ」
胸が痛む。
まるで、
過去の自分に胸を刺されたみたいに。
私は鏡へ手をついた。
その言葉は、
今でも間違っていないと思う。
理屈では、
ちゃんと理解している。
けれど。
「……これが、美しくて尊い……?」
鏡の中の私は、
泣きそうな顔で笑っていた。
「……嫌だよ」
かすれた声が漏れる。
「永遠であってほしいよ……」
ぽたり、と水滴が落ちる。
蛇口の水か、
それとも別の何かなのか、
もう自分でもわからなかった。
「どうしたら……」
「どうしたら、いいの……」
その時だった。
耳の奥で。
まるで幻聴みたいに、
甘く濁った“声”が響く。
『……愛は、支配すること』
びくり、と肩が震える。
私は勢いよく後ろを振り返った。
けれど。
そこには誰もいない。
静まり返った女子トイレ。
流れ続ける水の音だけが、
やけに大きく響いていた。
『彼がもっと私を見てくれるように』
『もっと、心酔させないと……』
「――違う」
鏡に映る自分へ言い聞かせるように、
私は小さく首を振る。
「私が、あの時……否定したじゃない」
「愛は支配することだって言った、本郷愛理さんを……」
震える唇で、
私は自分自身の言葉をなぞる。
「愛は――」
「理解すること」
その言葉を口にした瞬間。
心の奥底へ沈みかけていた、
“安城恵梨香”という輪郭が、
かすかに浮かび上がる。
(相手を知り)
(それでも信じて)
(そばにいること)
(それが、私にとっての愛だって――)
(そう言ったじゃない)
「……っ」
胸が強く締め付けられる。
私は鏡の中の自分を睨みつけた。
長い金髪。
不安げに揺れるオッドアイ。
今にも泣きそうな顔。
そこに映っていたのは、
“心眼の剣姫”なんかじゃない。
ただの女の子だった。
「私がブレて……どうするのよ」
ぽつり、と呟く。
弱々しく。
情けないくらい、
震えた声で。
「ブレちゃ……ダメよ……」
「信じるのよ……」
神田君を。
彼の言葉を。
彼が見せてくれた、
あの真っ直ぐすぎるくらい真っ直ぐな心を。
――なのに。
心のどこかで。
もう一人の自分が、
甘く、
優しく、
囁き続ける。
(けど、もし……)
(彼が私しか見えなくなれば……?)
(ずっと、隣にいてくれるのかな……)
「――っ!」
私は思わず、
両手で自分の肩を抱いた。
怖い。
その考えが、
怖かった。
好きだからこそ、
閉じ込めたくなる。
失いたくないから、
独占したくなる。
そんな醜い感情が、
確かに自分の中に存在している。
それが、
どうしようもなく恐ろしかった。
カチ。
カチ。
カチ。
時計なんて、
どこにもない。
それなのに。
頭の奥で、
何かが壊れていく音だけが鳴り続ける。
理性が削れていく音。
信念が軋む音。
“安城恵梨香”という人間が、
少しずつ崩れていく音。
「……やだ」
かすれた声が、
静かな空間に溶けた。
「こんなの……私じゃない……」
鏡の中に映る私は、
あまりにも弱々しかった。
誰より冷静で。
誰より人を見透かして。
感情に呑まれないよう、
ずっと“強い私”を演じてきた。
そのはずなのに。
たった一人の男を失うかもしれないというだけで、
こんなにも簡単に壊れそうになっている。
「……神田君」
名前を呼んだ瞬間、
胸が痛んだ。
まるで、
心臓を優しく握られたみたいに。
私はぎゅっと胸元を掴む。
好きだから、
失いたくない。
好きだから、
独り占めしたくなる。
そんな感情が、
怖かった。
でも同時に。
その感情こそが、
私を少しずつ変えていく。
“心眼の剣姫”でも。
完璧な安城恵梨香でもない。
ただ――。
好きな人にずっと自分だけを見ていて欲しいと願う、普通の女の子へ。
鏡の中の私は、
泣きそうな顔でこちらを見返していた。
そして、
ふと思う。
もし。
こんな弱い私を、
神田君が知ったら――。
「……どう、思うのかな」
「きっと……嫌われちゃう」
ぽつり、と漏れた声は。
流れ続ける水音にかき消されて、
誰にも届かないまま静かに消えていった。




