自宅 十一月一日 午前零時十三分
これまでにも人物警護や保護の仕事は数えきれない程に引き受けてきた。
それが能力者による家庭内暴力が原因であることも少なくない上、中には最悪の事態になる直前で持ち込まれる事もある。
その大半は些細な拗れが積み重なりストレスを感じた結果、自身よりも弱い者へぶつける事で発散させているケースで、今回もその線が強いだろうと考えていた為、これまでの経験を踏まえて対応するつもりだった。
─アスカのイトコとかいうねーちゃんから言われた
情報を集めている最中の真鶴の一言は、二人を混乱させるのには十分すぎる物だった。
「ゲームだったら[振り出しに戻れ]は仕方ねェが」
ここに来て依頼内容が振り出しに戻された気分だ。
そう零してシガレットケースを指で叩き、取り出し咥えたフィルターに歯を立てる。
「了平君だったか。その子が咄嗟に吐いた嘘の可能性は」
「その可能性はほぼ無えだろうな…。引っ越してきて三ヶ月、それで飛鳥の親戚関係まで知ってるなら、既に仲良くなってる筈だろ。少なくとも今日みてーな事にならねェ筈だ」
革張りのソファへ座り、ガラステーブルに置かれた遊び掛けのバックギャモンを覗く。
「だが、兄貴が聞いた事を信じるなら、依頼主自身が対象者の殺害を企てた事になる」
「あぁ。他の身内が言ったってんなら、まだ守りようもあるし解決策は幾つでも出せるんだけど、な」
手中で遊んでいたダイスを投げ込み、盤上を気ままに転がるのを見守るも出目は悪く。
中央のバーに戻された自駒は盤面に戻ることが出来ず、そのまま疾斗へ順を回せば、彼もまた煙草を咥えたままダイスを摘む。
「……パス」
「おい待て、俺らパスで何順した?」
「今ので四回だ」
「出目悪過ぎねえか」
「あぁ、今日は特にな」
吸いきった煙草を灰皿に押しつけ、疾風の掌へと返されたダイスを盤面に振り戻すが、振り出しの駒はまたも動かせない。
─思考の堂々巡りが続く現状を具現化したかのように。
間を空けずに幾度も回ってくる手番に、疾斗は眉を寄せたまま盤から賽を拾いあげ、手中で転がし遊ぶ。
「そもそも、姫築飛鳥がアレルギー持ちだと言うのを高遠はどこで知ったんだ」
「そりゃあ家族からじゃねェの?飛鳥のアレルギーが判ってからは、元々α地区で暮らしてた高遠の家族から良品を送ってもらっていたらしい。Φ地区じゃナッツミルク自体はあっても、大体は脱脂粉乳とかでカサ増しした物が多いから」
学童申込の時に飛鳥の母親である姫築渚から聞いている、と疾風は苦々しく呟き紫煙を吐く。
─各都地区は細分化されており、エリア毎に等級が付けられている。
α+からβ-は治安や供給が比較的安定しているエリアだが、γ+からφ-にかけては粗悪な品質の物が多く流れ込み、スラム街と化している所も幾つか点在。暴力沙汰の事件が警察だけでは収められずに呼び出される事もしょっちゅうだ。
彼らが元々暮らしていたのはΦ地区。最低限の治安・住居・設備だけで構築されているような、一般的に【無法地帯】と呼ばれる場所。
父親の仕事の都合でこの中央地区に来たと聞いているが、住人の情報までわざわざ聞いて回る訳ではないため、仔細まではよく判らない。
「此処に越してくるのも知っていた訳か。記憶している限りでは高遠が来た覚えは無いが」
「お前の場合は表側の仕事も有るんだし、たまたま見てねえんじゃねえの」
「姫築一家が越してきて三ヶ月過ぎているんだぞ。俺や住人が高遠を見たことないと言うならまだしも、管理人の兄貴が一度も見たことが無いのは変じゃないか?」
静かに疑問を口にした疾斗の指がダイスを摘み、一拍もなくボード内へ放り込む。
「やれやれ、ようやく動かせる」
ようやく動いた戦局に息をつき、振り出しに留まり続けていた白手駒を五つ分進め、疾斗の手が泡の消えたビールへと伸びる。
居住者ではない外部の人間がこのマンションに入るには、管理窓口で記名後に身分証の確認、それらを全て行ってから管理員が開錠を行う。
引越などが入っている日は玄関もエレベーターも開放にしているが、例外がある場合は請負業を全て止めて、疾風自身が立ち会って見届ける様にしている。
日中の仕事が入らない限りその場所にいる筈の自分が、馬奈木の店で会うまで顔すら知らなかったのだ。
戦を翻弄する二つの六面体を拾い、弟からの質問を反芻しながら、疾風は酒が切れたグラスの中の氷球へ視線を落とす。
普通なら起こりうる筈のない事象が、一般的日常で発生している。
壁を突き崩さんと賽子を盤上へ振り落とせば、二面が最大値を揃わせる、足止め状態だった黒駒を盤上へ戻し、遮られ続けていた動線を進める。
「お前の言う通り、一回二回は見かけてもおかしかねェな」
「ああ。仕送りするほど仲が良い関係なら尚更だ」
「だが、お前だけじゃなく俺も見憶えがない」
「それどころか、同一人物の考えが噛み合ってすらいない、ときている」
ずれた歯車が噛み合った様に互いの駒は自分の陣地へと動き、振るう目に導かれるままにゴールへ駒を嵌めてゆく。
「…能力者は、居ると思うか?」
「ああ。しかも、とびっきり面倒くせェタイプが絡んでっかもな」
疾風が吸い終えた煙草を灰皿へ落とすと同時、最後の手駒をゴールへ戻せば、疾斗も最後の駒を嵌め込む。
一人に対して、生と死の二つを同時に望むというのは、有り得ない。
「出来る時で構わねえ、依頼人の監視はこのまま続けてくれ」
「兄貴は?」
「アイツに連絡して飛鳥と身内について洗ってみる、それと─」
実弟の質問に答えを返し、次の言葉を紡ごうとした瞬間。
─ ピーッ ピーッ ピーッ ピーッ
(管理室前緊急…?)
突然内線が鳴り響き、送話先を確認しつつ受話器を取り上げる。
「はい、どうしまし…」
『かん、り、にん、さん…』
「っ、飛鳥か?!どうした!」
『さ、むい……、たす、けて…!』
弱々しい幼子の声に疾風は受話器を放り投げると、一目散に管理室へと向かった。




