東都 東地区α 同日 午後十二時
「どうした、の?息が…上がってるじゃない?」
「そういう女医さんも随分キメてますねぇ?お医者さんがクスリのヤリすぎっていかがなんです?」
月原からすれば防戦一方になっているが、観察していくうちに解った事もあり、身体と能力が使える限りは勝機がある。
疾斗からの無言報告で得た情報通り、渡辺の能力代償は頭痛らしく、能力代償を強制的に抑えるためなのか、先ほどから鎮痛剤らしき薬物を接種している。
体力の限界を嘲笑おうとする渡辺の揚げ足を取り、逆上している合間を縫い、最後の薬液溜まりへ触れて、芳香を和らげる。
既に頭が回っていないのか、時折繰り出される形振り構わない攻撃を何度となく弾き飛ばして余裕ぶってみせる。しかし、長時間にわたって能力を発症しているせいで既に指先の感覚は鈍くなってきており、月原自身も限界が近い。
片腕に嵌めた木製の時計へ目をやれば、予告した時間までは残り五分を切っているが、管理長もその副官も目を覚ます様子はまだ無い。
過負荷状態に陥る前に起こす事も考えたが、目を醒ます直前だった場合、疾風の記憶どころか二人の命をも危険に晒すことになってしまう。
(クッソ、あと五分……!)
注射直後には毒香が勢力を増すのだが、薬効が切れてくると香りが薄れるらしく、疾斗を行かせたばかりの時に比べれば、香りを発する時間が明らかに短くなってきた。
しかも、回数を増すごとに薬効が切れてくる時間が徐々に短くなっているらしく、此処数分だけで既に数本以上を接種している。おそらく、本人は既に限界を超えて行使しているはずだ。
何本目か判らない注射を自らに打ち込む女医を見やり、重く痺れる手を動かしながら神経を集中する。
通常の病室であれば花瓶の一つでも叩き割れば、残香一掃くらいは出来るだろう。だが、旧病棟内である此処にそんなものはない。
足元に転がしている銀製のペンダントトップへ帯電させて投げ当てることも考えたが、反撃を狙われているとしたら、勝てる見込みが薄くなってしまう。
そうなると直接本人に電流を打ち込む他にないが、彼等から離れなければならない事を考えるとリスクが高い。
「さっきよりもおしゃべりが減ったわねぇ、もう打ち止めかしら?」
「そういうオネーサンは何本目のドーピングです?そんなに精力つけたトコロでお相手さんがおねんねしたまンまじゃあ、どうしようもないっしょ?」
「なっ…!」
オブラートに包んだ口撃に逆上と恥辱で紅潮した女医が、顔を歪ませてこちらを睨める。
感情を乱した事で集中力が途切れたのか、蔓延っていた花石鹸の残香は薄まり、軽く呼吸を戻せば重かった体が僅かに軽くなった。
いつ反撃に出るか判らぬ医師へ、一か八かの勝負を賭けるため手中に神経を澄ませる。
─── カチン
金属同士が噛み合う音を耳が僅かに聞く。
眠り続ける二人を一瞥し、音の発生源を見つけ自らの身を屈める。
地を離れ、足元へ放電音と共に眩く白む強発光を食らわせれば渡辺は怯み、その直後、発砲音が響いた。
「っぁぁあああぁ?!」
「致命傷でないだけありがたく思え」
利き手ではない左に握る小型銃を下ろし、ゆるりと立ち上がった副官は、憤りを色濃く帯びた低音で甲高い悲鳴を貫く。
二の腕が撃ち抜かれ、溢れる液体は女の白衣と止血の手を紅色に染め垂れ滲む。
貫通した痛みと発熱に唇を噛む渡辺へ足払いを入れ、疾斗の隣へ戻れば、目を見開いたままこちらを見据えて獣の様な呼吸を繰り返す。
その顔は、さながら旧国を伝える歴史書に載る鬼にも似て、彼女の内なる狂気を現すかのようだった。
「なんで?!なんであんなに嗅がせたのに無事なのよ!?」
「複数人を苦しませる事は出来ても、記憶改竄は単体対象。例え改竄対象者の意識の中に二人居ようとも、本領を発揮することが出来るのはお前が対象として決めている一人だけだっただけのこと」
「……その対象が疾風だったおかげで……疾斗は、記憶が書き換えられずに済んだ…ってワケ、か」
背後の寝台が軋む音と投げられた掠れ声に振り向けば、緑と黒の混じる髪を乱した男がその上半身を両腕で支え起こし、荒く浅い呼吸を繰り返している。
定まらぬ焦点に困惑した様子で、頭を振り目を擦る姿には生気はあまり感じられないが、覚醒したことへの安堵から思わず口が緩み、月原は重くなった手の甲で隠す。
「有り得ない……有り得ないあり得ないあり得ないありえないありエない!なんでなのよ、どうして何とも無いの?!今までこんなコトなかったのに!」
起きる筈がないと確信を持っていたのか、その瞳に驚愕を宿した女医はその唇を戦慄かせる。
「煩ェ……黙らせろ」
─ パンッ
喚き続ける渡辺への抗議が疾風の唇から落ちれば、乾いた破裂音が耳を抜ける。
「ひィ、い!?」
鼻腔にこびり付いていた花石鹸の香が硝煙に掻き消え、見れば目前の女の片耳は紅滝と化しており、吹き飛んだ肉片は焼け切って塵すら見当たらない。
「悪いな。そのピアス穴を拡げてやるつもりだったが、吹き飛んだ」
先程までとは打って変わり、淡々とした声で言い放った男が僅かに嗤う。
幾度か請負業の仕事も共にしているが、これほどまでに憤怒している姿を月原は知らない。
被写体時にみせる甘い微笑みや普段の呆れ笑いとは違い、背筋が凍りつく様な寒気を感じる。
「っ死んで当然なのよ……私から、伊純を奪ったんだから…」
空いた弾倉へ銃弾を装填する音の影、女が恨めしげに絞り出した妙な文言に眉を寄せる。
言葉の意をそのまま汲むのであれば、彼女は伊純という女性と心を寄せ合っていたが、それを疾風が割り込んだというのだろうか。
言葉のままに信じるとなると、疾風が悪いという事になる。
どういう事だと問いかけようとした傍ら、紫髪の請負人は迷う事なく銃を構え、躊躇いの欠片も見せずに急所へ銃口を向ける。
その目に同情の色など有らず、親指を撃鉄へ掛けた瞬間、緑髪の請負人がその肩を掴み止めた。
「…顔見て思い出した時には遅かった。病院の携帯じゃ名字しか見れねえし、その名字も変わってたら、さすがに気付けねえわ…」
銃をおろせと黙して命ずる管理長に負けたのか、疾斗が眉を寄せたまま銃を脇へと戻す。
ゆるりと頭を上げて此方を向いた疾風は、珍しく眉を下げて「こいつを頼む」と口を薄く動かし、寝台から床へと足を下ろすと、女医へと真っ直ぐ目を向ける。
「渡辺優…旧姓名は渡里優 。流動的性自認者で…今は女性側って訳だな…」
流動的性自認者とは、肉体的性別の自認はあるが、好意を抱いた相手によって精神的性別が変わる者を表す。
自身の性認識自体は持っているため、自身の肉体的性別側として生きている者もいれば、互いの違いを受け入れて生きている者もいる。
つまり目前の憤慨している人物は、本来は男性だという事だろう。
覚束ぬ足取りで疾風がゆっくりと歩みを進めれば、渡辺は流血したままその身体へと飛びかかる。
「管理長!」
「月原、疾斗、手を出すな」
事務的にコードネームが落とされ、月原は澱みを抱いたまま足を引いて僅かに頷く。
業務代行請負業の東都内最高責任者である二人。
そのどちらかにそれを呼ばれることは、絶対的な命令の意味を持つ。
公認代理であるだけでそれ以上の何者でもない自分では逆らうことなど出来ない。
疾斗の方へと視線を移せば、下知の意を汲みつつも納得はしていないのか、その表情は苦く曇っていた。
疾風の身体は渡辺の体重を受けて容易く背から床へと落ちる。
呻くこともなくただ静かにその行動を見つめ、首へと伸びた両手を止めることなく受け入れた。
「能力なんかっ、もう、どうでもいいっ……殺してやる…!」
「力も入らない手で何が出来る」
「うるさいウルサイうるさいウルさイ!伊純をどこにやった、体も骨もない葬式なんてバカげたもので、私を騙せると思ってルのか!」
異様な一言に疾斗へ視線を向けるものの、副官はそれに答える事なく、二人を見つめる。
彼との交流は学生時代からあるが、彼の双子の兄と付き合いを持ったのは自分が請負業に就いてからのこと。
その時には疾風に妻がいた事とすでに鬼籍に入っているのは聞いているが、死因までは聞いていない。
「私は小学生の頃からずっと一緒だった……医者になるって夢を聞いて、必死で同じ学校に入ってっ…ずっと、ずっと見てきたんだ!」
大量の鎮痛剤を投与しているせいか痛覚と共に筋力も衰えているのか、その身体は細かく震えている。
渡辺の耳から流れ出る赤い体液が疾風の頬を滑り、首脇へ溜まっては羽織る白衣の襟へと滲んでゆく。
「なのにお前はなんだっ…医学校から知り合ったくせに、私から奪った!私のっ、大事なモノを!」
管理長の首に掛けられた手が動いたのを確認し手中へ意識を傾けるが、下された命が頭を過り拳を握り電流をとめ、奥歯を噛む事しか出来ない。
「……だから、俺に昔の記憶を見せて、それから記憶を消そうとしたのか」
「そうさ、アンタから全部奪った私を伊純と思いこませて、信じ込んだ所を絶望させてから殺してやろうと─」
「渡里。お前は最低だ」
疾風が短く吐き捨てた言葉に、諾々と暴論を吐き続けていた狂医師は口を止めてその顔を睨める。
「自分が好きだった女を、道具として使ったんだぞ、お前」
「っ…うるさい!伊純をひとりじめしたお前に言われたくない!殺したお前に言われたくない!!」
重く冷たく突き付けた疾風の言葉は、見境がつかない子供のような言い訳に寄って掻き消される。
事実を受け入れたくないのか、自身の正義に呑まれているが故に聞き分けが出来ないのか、ただただ喚く渡辺の言葉に頭が惑わされてゆく。
「お前は葬式で涙の一滴も流さなかった!すきだったんじゃないのか?!独り占めするほど好きだったのに、泣かないことなんてあるのか!」
「…俺があの場で泣いたら、本当に泣きたい奴の感情はどこに行けばいいんだよ」
悲鳴にも似た渡辺の声が病室に響く中、憐憫を含んだ低い音が射抜く。
「俺やお前以上に一緒に過ごしていた、アイツの身内が泣けなくなるだろう。感情を受け止められる人間が居なくなっちまうだろう?」
予想をしていなかった返答に、延々泣きじゃくっていた渡辺がたじろぎ、止血し始めていた耳の液体が男の目元へと撥ねる。
「…怨み言なら幾らでも言えばいい。幾らでも聞いてやる、背負ってやる。それは俺が受けるべき業だ。ただな、何も知らねえ…なにも知ろうとしねェ人間が、これ以上伊純を呼ぶんじゃねェ」
身体を起こした疾風の頬から紅色が頬から襟へと伝う。
その顔には悲哀が帯び、双眸に生を誓う強い光を宿らせて、体上の凶人を見つめる。
「っ…何、だよそれ…!私は、た、ダ…、を……ぁ、っう…ぐ」
一喝へ小言を返そうとした医師が頭を押さえ、乗っていた体躯から転げ落ちる。
長い髪を振り乱し、目を見開いたまま人とは思えぬ呻きを喉から迸らせる。
あまりにも唐突な現象に反射的に動いた身体は、疾斗の手によって制止され、「どうにも出来ない」と首を横に振る。
悶え苦しむ渡辺は泡を噴きながら何事かを呟き頭を掻き続け、その喉から吐き散らした吐瀉物に朱が差す。
呼吸を荒げ、断末魔のような叫びを上げると、その顔のまま横たわり動かなくなった。
「…今の、は……」
「代償症状最末期だ。渡里のは記憶容量超過による発狂死…ってトコだろう。薬に頼りすぎて自分の最末期に気づいてなかったのかも知れねェな」
犯人の血液に服を染め、罵倒され続けていた男が淡々とした言葉で冷静に状況を話す疾風に、先程まで差していた翳りは見えない。
立ち上がろうとしているようだが栄養の足りない身体は云う事を効かないらしく、両腕で支えているのがやっとなのが見て取れ、何処かへ連絡をとっていた疾斗が端末をしまい、手を差し出す。
「今日は兄さんに随分優しいンじゃないの、疾斗ちゃん」
「明日槍でも降ってくるんじゃねえか?」
敢えての普段調子でつつく自分の言葉に、疾風も薄く笑って冗談を乗せる。
「……唯一の血縁者にくらい、優しくしても良いだろう」
低く呟き苦笑した副官が管理長へ肩を貸し、病室を先に出ていくのを見届け、月原は足元の遺体へ目を向ける。
苦悶と絶望の表情のまま絶命した医師は、眼孔から赤い涙を垂れ流していた。




