東都 中央地区α+ 四月六日 午後一時二十七分
「中央地区ってのは、こんなに平和なモンなのかねェ…」
疾斗から指定されて借りているマンションの一室から、この場所に来て約五時間。
内線での呼び出しで上階の渡り廊下の電球交換には行ったが、それ以外は特に来客もなく、平和な時間が流れ続けている。
元々は週二回から三回ほど派遣を呼ぶ予定を組んでいたそうだが、毎回違う人間が来る上、人によっては最低限の作業すらもせずに帰る者も少なくないという話だった。
疾斗から改めて管理人代理の話を相談された際「無駄な金を使うなら自分を使え」と言ったのは自分であり、毎回説明に時間を取られることに煩わしさを感じていた疾斗からしたら、月原の申し出は願ってもないことだったらしい。
(此処に座って応対するだけで賃金貰えるンじゃあ、仕事したくなくなるのも分からなくないけどな…)
管理室の受付窓から外を覗いても、人の往来は疎らでマンションに入ってくる気配はない。
疾風が居ない間の学童保育指導員として動く分、それなりにやることはあるが、思いのほか有り余る時間に、思わず愚痴を口から落としてしまい、気を入れ直そうと椅子を座り直す。
携帯端末の画面に立ち上げたSNSを適当に読み流し、興味を引いた短文にチェックマークを入れながら、小学生対象の参考書を開いて問題用紙に使えそうな例題へマーカーを入れて、手元の印刷用紙に問題文配置を書きつける。
(今日のカメラマン、疾斗ちゃん大好き過ぎちゃってわざと撮影長引かせっからなぁ……早けりゃ昼前に終わるとは言ってたが…)
実の兄と共に東都内請負人の最上位に立つ彼は、周囲へは本来の身分を隠して副業として一般請負人をやっていると告げて、被写体業の世界に身を置いている。
今の地位に立ってからというもの、どんなに短時間であろうとも仕事を入れ、丸一日休みという日は月に三回有れば良い方だ、といつだったかに疾風から聞いた。
一番の理由は、右目の能力による代償睡眠で急遽キャンセルを出してしまう可能性を抱えていることだ。
互いの信用が鍵となる業界で、臨時休暇を取るというのはあまりにもデメリットが大きく、場合によっては同事務所に入っている人間達の仕事も奪いかねない。
最悪の事態を免れるようにするため、疾斗は自身を売り込むだけでなく、時間が空いていれば後輩達への指導や各所へのマネージメントも行っているのだ。
本業である請負業務だけでなく、副業である被写体業でも細やかな作業に取り組み、多少なり表情や感情の起伏に疲労が現れてもおかしくはないが、移動中の車内転寝以外はそんな状態になっているのを見せたことがない。
指名を受けた当時、程々に仕事が出来ればいいと思っていた月原は衝撃を受けて考え方を改め、今は後輩達のサポーター役として現場へ赴くマネージャー業も兼務している。
夕方にやってくる子ども達に配るプリント用紙を清書するため、据置型端末に届けられた定期連絡を印刷に掛け、文書ソフトを立ち上げると、名簿に書かれた名前と学年の確認を取りながら、難易度を調整する。
数ページに及ぶ報告書の出力終了を告げる信号音と同時にペンを置き首を上げれば、玄関ホールの自動扉が開いて見慣れた紫髪が視界へと映った。
「戻った。飯と頼まれた物だ」
「お疲れさん。お、岐津禰屋のカツ煮弁当とはまた豪勢だねェ。電球換えてきて、あとは座ってるだけだってのにありがたいこって…」
「管理人としていうなら、何事もない方が良いんだ。こっちは危うく捕まるところだったから、次の仕事があるって言って逃げた」
間違ってはいないんだがな、と毒を吐き出した疾斗に肩を竦めて、受付窓口の記名台に載せられた買物袋と交換に報告書をバインダーに挟んで渡す。
月原が見た限りでは事務的な文面が連ねられていただけだったが、小首を傾げながら眉を顰める疾斗の様子からして、何事かの内容を隠してあるらしく、それなりの厚みがある書類達を手にカードキーを滑らせる。
「月原、明後日の予定はどうなってる」
「打ち合わせが午前中に。午後前には戻れると思いますよ」
「兄貴からの呼び出しだ。悪いが戻り次第、また管理室を頼む」
「仰せのままに、副官殿」
顔から一切の感情を消した、先程までの柔和な気配さえも消して真っ直ぐエレベーターへと向かう。
一瞬で表情が変わったということは、彼の持つ能力を必要とされる内容が文面に記載されていたのだろう。
(兄さんが潜入先から直々に呼ぶってことは、何かお手上げなことでも起きたかね…)
自身の左目に能力を宿している彼の片割れは、疾斗の持つ能力の強さと危険性を誰よりも一番に知っている。本人が力を行使する場合は別だが、よほどの事でもなければ呼び出しを掛けることはまず無い。
珍しい事もあるものだと思う反面、髪を逆撫でされるような気色悪さがあるのは何故だろう。
脳内に掛かる靄を振り払うように頭を降り、幅広のヘアバンドで前髪をあげた月原は、気を取り直してキーボードを叩き始めた。




