Ⅲ・夢の罪5
『――…なかなか面白い大天使だ』
ため息をついていると、愉しげな低音の声が虚空から聞こえてきた。
疲労感を更に足された心境で、出やがったな…、と舌打ちする。
「いつからそこにいた?」
さぁ? と含みのある笑い。
『あの娘をわざと此処へ誘導したのは、お前だろう?』
「小娘を森から出すな。貴様なら容易かろう?」
『私に子守をさせるのか?』
不服そうだが、不満でもなさそうだ。ため息をつき、ジロリと虚空を一瞥する。
「私の頼みならば大抵聞くのだろう?」
返ってきたのは、やれやれ…、という慈愛の苦笑。
『構わないが…、友人の大天使にも頼んではいなかったか?』
「そのお節介な大天使の監視もやれ。あの馬鹿が、絶対に何かやらかすに決まっておる」
『それは無理な相談だ。あの子ならすでに森を出た』
「…。駄天使が…」
やはり、無理矢理にでもイシュヴァに留めるべきだったか…。
暗く複雑な心境で爪を噛むと、いたわるように優しく笑む気配がした。
『そう落ち込むな。あの子はお前を案じていただけだ』
「…随分と嬉しそうだが、そんな貴様に殺意を抱くな。私は脅迫されたのだが?」
『さぞ気心の知れた友人なのだろうな…。喜ばしい限りだ』
「脅迫された、と言ったろうが。大天使が放つ破邪の矢だぞ? もう少しで射抜かれるところであったわ」
クツクツと愉しげな笑い声。
『ああ、あれはかなり痛い。その上に惨い。非情かつ残虐。我ら黒き翼の民に、想像を絶する苦痛という苦痛の全てを一挙にもたらす。当たり所が悪ければ死ぬか、永久に封印される』
「経験した口ぶりだな…」
『聞きたいか?』
「貴様のノロケに付き合う暇はない」
ピシャリと言い放ち、さっさと虚空に背を向けた。蓄積した疲労を吐き出すように深く呼吸し、一気に魔力を高めていく。
さて…、あの大天使はどうするつもりだろう? 自分の話の全てをそのままに信じたとは思わないし、だからこそ羽根の所望などしたのだろう。実際には嘘などついてはいない。ただ全てを話していないだけ。親友をあの場所に連れていくわけにはいかない。
だが――…。
『――それで』
本来の長髪の姿に戻った自分に、男が真摯な眼差しを向けたのを感じた。
『決めたのか?』
「…。知れた事を」
漆黒の魔族は掠れた声音で呟き、静かに目を閉じる。
「殺すに決まっておる」
よく言う…、と。喉の奥で優しく笑う気配。
『躊躇っているな。気遣いは無用だぞ?』
「…めでたい奴よ。躊躇いなどない」
『ほう? 手こずっているようだがな』
「そう一筋縄にはいかぬ」
『だから、助力は惜しまぬ、と。死者より生者だ、お前を死なすわけには――』
「貴様の助力など、いらぬ」
『私の魔力と霊力を乳代わりに育ったお前が、よく言う』
「頼んだ覚えはない」
男は、やれやれ…、と苦笑混じりのため息をついている。それを冷ややかに一瞥し――…、だが自分もまた自然とため息をついた。
「…このまま放置したとして、どうなる?」
『かの封印が完全に滅するまで、十年とかからないだろう。お前は嫌でも対峙するわけだ』
「厄介だな…。
――…何故に笑う」
忌々しい思いで髪を掻いていると、何やらニヤニヤとした気配を感じた。
男が向ける眼差しは紛れもなく、親が我が子を見守るそれ。
『お前は変わった。私は心の底から喜んでいる』
「貴様はほんに、めでたい奴よ」
『お前は私の血をより濃く引いている。お前は私によく似ている』
「父親面でもする気か? それとも、懺悔のつもりか?」
『懺悔。――…そうかもしれんな…』
その呟きに込められた想いは、とても重く、聞く者全ての心に痛みをもたらす。
それを、馬鹿馬鹿しい、と短く吐き捨て、尊大な睨みを虚空に向けた。
「不愉快極まりないな…、懺悔する相手をはき違えておるぞ。そもそも私には、貴様の傷心に付き合う暇など微塵もない。
――貴様の独りよがりの後始末を、命懸けでせねばならんのだからな」




