第三話「暗赤色」
十一月の十五日。
宇野の妻・静江が亡くなって、ちょうど二年目の秋だった。
私はその日の朝、商店街を歩きながら宇野時計店の前を通った。表のショーウィンドウに変化はなかった。アーニングが風に揺れている。前回来たときから時計が一本増えている、という細かいことに気づいたが、メモはしなかった。
先週からそういうことを決めていた。
商店街の表通りを歩くだけでは、メモを取らない。見ることと書くことを、分けるようにした。見ることは止められない。でも書くことは選べる。
その区別が意味を持つかどうかは、分からなかった。
でも区別しようとすることが、今の私にできることだった。
喫茶ハコニワに入ると、カウンターに先客が一人いた。
宇野誠だった。
私は一瞬、入口で止まった。
宇野はカウンターの端の席に座って、コーヒーを飲んでいた。前を向いたまま、私が入ってきたことに気づいていないようだった。
リカさんが奥から出てきて、「いらっしゃいませ」と言った。
私はいつもの席、カウンターの逆の端に座った。
宇野との距離は、カウンターの長さ分あった。三メートルほど。
リカさんがコーヒーを持ってきた。いつものように、注文していないのに。私が毎朝来ることを知っているから。
「今日は寒いですね」とリカさんは小声で言った。
「そうですね」と私は同じ声量で答えた。
宇野はコーヒーカップを両手で包むように持って、窓の外を見ていた。
商店街の表通りが見える窓だ。
私は宇野の横顔を、さりげなく見た。
五十五歳の男の横顔。
何かを考えているのか、何も考えていないのか、表情からは読み取れなかった。ただ、窓の外を見ていた。どこか遠い場所を見ているような、焦点の定まらない目だった。
今日は何の日か、を私は知っていた。
妻の命日から二年。
宇野はそれを知りながら、ここでコーヒーを飲んでいる。
それが何を意味するのか。
分からなかった。分からないまま、私もコーヒーを飲んだ。
十分ほどして、宇野が立ち上がった。
財布を出した。カウンターに置いた。
「ありがとう」と宇野は言った。
声は低く、短かった。リカさんへの言葉だったが、リカさんのほうを向いていなかった。おつりを受け取って、コートを着た。
出口に向かう途中で、宇野は私のほうを見た。
私も目が合った。
「どうも」と宇野は言った。
先週、時計を取りに行ったときに顔を覚えられていた。
「どうも」と私は言った。
宇野は出ていった。
引き戸が閉まる音がした。
リカさんが小さく息をついた。
「毎年この時期に来られるんですよ」とリカさんは言った。声が少し低かった。「奥さんの命日、って聞いてたから」
「そうですか」
「いつもこんな感じで。コーヒーを飲んで、ありがとうって言って帰られる。それだけで」
リカさんが少し間を置いた。
「毎年、ちょっと長く飲んでいかれるんです。普段は十分もしないで帰るのに。今日は三十分くらい」
「窓の外を見てましたね」と私は言った。
「うん」とリカさんは言った。「うん、そう。ずっと」
それきり、二人とも黙った。
私はコーヒーを飲んだ。
宇野が見ていた窓の外を、私も見た。
曇天の商店街。シャッターが半分。人の往来が疎ら。
静江さんが生きていた頃、この通りで宇野は「今日は静江が」と嬉しそうに話していた。
その通りが、今は同じ場所にある。
宇野が毎日、この通りを通って店を開けている。
午後、私はアパートで仕事の原稿を書いていた。
三時間、集中して書いた。
締め切りまで二日あったが、今日中に仕上げてしまいたかった。仕上げてしまえば、残りの時間を別のことに使える。
「別のこと」が何を指しているかは、考えないようにした。
原稿を送信して、コーヒーを入れた。
立ったまま飲んだ。
窓の外は曇っていた。十五時過ぎで、もう空が重くなり始めていた。北陸の十一月は、十六時には暗くなる。
コートを着た。
外に出た。
目的地は決めていなかった。というより、目的地を意識しないようにして歩いた。
商店街の表通りを歩いた。
八木花店の前を通った。今日は八木さんが店先にいた。
「あら、桐島さん。お散歩?」
「仕事が終わったので、少し」
「いいわねえ。私も今日は早じまいにしようかしら。なんか、気が重くて」
「どうかしましたか」
「いや、なんとなくね」と八木さんは言った。「なんとなく、今日は気が重い日ってあるでしょ。こういうときは無理しないに限るの。帰ってお風呂に入って、早く寝る。それが一番」
「そうですね」
「桐島さんはよく眠れてる?」
「まあ、それなりに」
「若いんだからちゃんと眠らないとよ。睡眠は大事よ、ほんとに」
八木さんはそう言いながら、店のシャッターを半分下ろし始めた。今日は早じまいにする、と決断したらしかった。
私は「また」と言って、歩き続けた。
時計店の裏口に向かう路地に入ったのは、意識してのことだったか、そうでなかったか、自分でも判断できなかった。
ただ、足がそちらに向いた。
昼間の路地は、夜とは違って見えた。壁の色が見える。ブロックの隙間に生えた草が見える。誰かが置いた植木鉢が見える。
宇野時計店の裏口の前を通った。
歩きながら、裏口を見た。
足が止まった。
裏口の脇、壁との隙間のアスファルトに、何かがあった。
赤いものだった。
暗い赤。赤黒いといった方が正確かもしれない。染みのような広がり方をしていた。直径で言えば十五センチほど。周囲から滲み出たような形だった。
私はしゃがんだ。
近づいて見た。
濡れていない。乾いている。いつできたものか分からない。でも雨が降れば流れるはずで、昨日は雨が降っていた。ということは、昨日以降にできたものか、あるいは庇の下で雨が当たらなかったのか。
壁との隙間は狭く、庇の端が少し出ている。雨が当たりにくい場所ではあった。
私はスマートフォンを取り出した。
写真を撮った。
数枚撮った。角度を変えて。近くから、少し引いて。
撮りながら、自分が写真を撮っていることを、奇妙に遠い感覚で認識していた。記者だった頃は、現場で写真を撮ることは反射的な行動だった。今もその反射が生きている。
写真を撮り終えて、立ち上がった。
路地を出た。
表通りに戻った。
歩きながら、撮った写真を確認した。
画面の中の暗赤色の染みは、目で見たものより暗く写っていた。スマートフォンのカメラは暗いところを補正するが、この路地の日陰では補正が追いつかなかった可能性があった。
でも、あの色は本物だった。
私は写真をノートのアプリに保存した。
歩きながら、頭の中でリストを作った。
赤黒い染みの可能性。血液。錆。塗料。赤ワインやジュースなどの食品。
排除できるものから考える。
錆は、アスファルトの上に生じにくい。金属の錆が流れ落ちた可能性はゼロではないが、近くに金属の露出した設備は見当たらなかった。
塗料。今の時期に外壁を塗装している様子はなかった。
食品。あり得る。赤ワイン。ケチャップ。ジュース。
血液。あり得る。
どれが正しいかは、今の段階では分からない。
私はそれを「未確認」と頭の中で分類して、アパートに戻った。
部屋に戻って、ノートを開いた。
写真を確認した。
改めて見ると、光量の問題で実際より暗く写っていた。路地は日陰で、スマートフォンのカメラが露出を上げようとした結果、色が濃く、暗く記録されていた。
私は画面の明るさを最大にして、写真を拡大した。
染みの質感が、液体が乾いたもの、という感じに見えた。固体が砕けた粉、という感じではない。
書いた。
11/15(木)15:30ごろ 宇野時計店裏口脇にて赤黒い染みを発見。直径約15cm。乾燥状態。場所は庇の下で雨が当たりにくい。液体が乾燥したものと思われる。写真あり(3枚)。種類:未確認(血液・食品・その他の可能性)
書き終えて、画面の写真をもう一度見た。
暗い。実際より暗い。
でも色は、赤黒かった。
私はスマートフォンを置いた。
この染みが何かを証明するものではない。でも、あそこに「それ」があったことは事実だ。
明日、また確認しに行こう。
そう思った。
翌朝、確認しに行った。
染みは、なかった。
裏口の脇を見た。昨日しゃがんだ場所を確認した。
アスファルトが、濡れていた。
夜中に雨が降ったのかもしれない。
でも昨日、染みは庇の下にあって、雨が当たりにくい場所だと確認していた。
私はしゃがんで、アスファルトの表面を確認した。
何もなかった。
湿っているが、染みの痕跡もなかった。
拭いた。
誰かが拭いた、という可能性が頭に浮かんだ。
「雨が流した」可能性と、「誰かが拭いた」可能性が、私の頭の中に並んだ。
どちらが正しいかを、今の段階で判断することはできなかった。
でも私は、立ち上がりながら、すでにどちらかに傾いていた。
その傾きに気づいて、少し立ち止まった。
確認する前に確信していた。
三年前の自分の言葉が、頭の中で動いた。
私はもう一度、アスファルトを見た。
湿ったアスファルト。染みの痕跡なし。
雨が流したのかもしれない。その可能性は十分にある。
私はそれを「雨が流した可能性あり」と書いた。
「誰かが拭いた可能性あり」とも書いた。
両方を書いた。どちらかに絞らなかった。
その日の夕方、私は中田透にメッセージを送った。
中田は北陸日報の社会部の記者で、私の元同僚だった。誤報事件で民事訴訟の証人になった人間だ。
三年間、一度も連絡していなかった。
メッセージはSNSのダイレクトメッセージで送った。
突然連絡してごめんなさい。桐島です。少し話せる時間はありますか。取材的なことで相談したいことがあって。
送信してから、後悔した。
「取材的なこと」という言葉が、正確かどうか分からなかった。取材、と呼べるほど整理されていない。でも「相談」だけでは、何を相談するのかが伝わらない。
三十分後、既読がついた。
返信は来なかった。
一時間後も来なかった。
三時間後、返信が来た。
久しぶり。何の話か教えてもらえる?
短い文章だった。
私は返信を書いた。
商店街の件で、少し調べていることがある。詳しくは会って話したい。
また三十分ほど経ってから、返信が来た。
商店街の件、というのは何? もう少し教えてほしい。
慎重な返し方だった。
私は書いた。
宇野時計店のことを調べている。深夜の行動に気になることがあって、記者の視点から意見を聞けたらと思って。
今度は返信が来るまでに一時間かかった。
ごめん、今ちょっと余裕がなくて。別の案件で動いてて。少し時間をくれる?
私は「わかった」と送った。
返信は来なかった。
中田の反応を、私はノートに書いた。
中田透(北陸日報)にDM。返信あり(慎重)。「時間をくれ」という返答。接触を避けているのか、本当に忙しいのか——現時点では判断できない。
書いて、少し考えた。
中田は三年前の誤報事件で傷ついた人間だ。私から連絡が来たとき、最初に何を思ったか。
怖いと思ったはずだ。
また何かに巻き込まれるのでは、と。
私は中田の立場から考えようとした。
でも考えるほど、中田が「何かを知っているから慎重なのだ」という解釈と、「ただ怖いだけだ」という解釈の間で揺れた。
どちらが正しいかは、まだ分からなかった。
夜、村瀬の部屋から声が聞こえた。
今夜は少し早い時間だった。二十時を過ぎたあたり。
笑い声ではなかった。
少し感情的な声だった。
「……だから、そういうことじゃないって言ってるじゃん」
「……分かってるよ、分かってるけど」
「……来週、来れないの? そっちの都合でしょ」
来週、来れない。
前回の断片——「また来るの」「困る」——と逆の状況だ。前回は誰かが「来る」ことを困っていた。今夜は「来れない」ことに、村瀬が不満を持っている。
私はメモ帳を手に取った。
11/15(木)20:20ごろ 村瀬(204号)、電話。「そういうことじゃない」「来週来れないの」「そっちの都合でしょ」。前回(「また来る」「困る」)と状況が逆転している。
書いてから、「状況が逆転している」という言葉を確認した。
逆転、というのは正確か。
前回は「来ることを困っていた」。今回は「来れないことに不満を持っている」。
同じ相手に対して、逆の感情を見せている。
これは複雑な関係の証拠か。それとも、状況が変わっただけか。
私には判断できなかった。
でも「複雑な関係」という言葉が、頭に残った。
夜遅く、スマートフォンで昨日撮った写真を改めて見た。
暗い。
実際に見たものより、ずっと暗かった。
カメラの設定を確認した。露出の設定が「オート」になっていた。日陰で撮ったため、カメラが自動で露出を上げようとした。その結果、色が変化した可能性がある。
具体的に言うと、日陰で赤みのある液体を撮った場合、露出補正によって色が暗赤色に偏って記録されることがある。
実際の色は、もっと明るかったかもしれない。
赤ワインをこぼした染み、という可能性が、そこで少し大きくなった。
私はその可能性を、ノートに書き加えた。
写真の色は実際より暗い可能性あり(露出オート・日陰)。実物の色は不明。食品(赤ワイン等)の可能性を排除できない。
書いた。
書いたことで、少し楽になった気がした。
客観的に考えている、という感触があった。
血液かもしれない。でも赤ワインかもしれない。食品かもしれない。どれも「かもしれない」だ。確定はしていない。
私は写真をスマートフォンに保存したまま、電気を消した。
薬を飲んだ。
眠れた。
夢は見なかった。




