第9話 裏切りの署名
四日後の昼下がり。
神殿の中庭を歩いていたとき、声をかけられた。
「フィオナ・クレティア様——少しよろしいでしょうか」
振り向くと、見覚えのない男が立っていた。
三十歳前後。整った身なり。
宰相府の文官服を着ている。灰色の布地に銀の縁取り。
わたしの後ろで、レオンハルトの気配が鋭くなった。
「どちら様ですか」
「セドリック・ルーヴェン。宰相府秘書官です」
——セドリック・ルーヴェン。
アルヴィンが教えてくれた名前だ。
心臓が跳ねたが、顔には出さなかった。
「秘書官様が、聖女補佐に何のご用でしょう」
「……人目のないところで話せませんか。お願いです」
セドリックの顔は蒼白だった。
額にうっすらと汗が浮いている。
目の下には隈があり、何日もまともに眠っていないように見えた。
レオンハルトがわたしの横に並んだ。
「護衛の俺も同席する。それが条件だ」
セドリックは一瞬ためらったが、頷いた。
「構いません。——むしろ、騎士殿がいてくださった方がいい」
*
中庭の奥にある物置小屋。
掃除道具と予備の燭台が積まれた狭い空間に、三人で入った。
レオンハルトが扉の前に立ち、外を警戒している。
セドリックは深く息を吸い、懐から一通の紙を取り出した。
折り畳まれた羊皮紙。
丁寧に写し取られた文字が並んでいる。
「これは——蒼鉛花の持ち出し許可状の写しです」
わたしの手が止まった。
「……写し?」
「許可状は二通作成されます。一通は薬草園、一通は宰相府。それとは別に、私が個人的に内容を書き写したものです。日付、品目、数量、そして——署名者の名前」
わたしは羊皮紙を受け取った。
開く。
品目:蒼鉛花・乾燥根
数量:五グラム
日付:星降りの月・第三週(祝宴の十日前)
持ち出し許可者署名:ドルクス・ヴェインハルト
——ドルクス。
圧着痕で見た頭文字「ド」。
その続きが、ここにある。
「なぜ、これをわたしに」
声が震えそうになるのを堪えた。
セドリックの目が伏せられた。
「私は宰相閣下に十年仕えてきました。閣下は優れた政治家です。この国のために多くのことを成し遂げてきた。……けれど」
声が途切れた。
セドリックが唇を噛んだ。
「蒼鉛花の許可状を書いた日の閣下の顔を、私は忘れられません。あれは政治家の顔ではなかった。——復讐者の顔でした」
——復讐者。
アルヴィンが語った「個人的な動機」と、今の言葉が重なった。
「私は許可状の写しを取りました。いつか必要になるかもしれないと思って。……けれど自分では使えなかった。閣下を裏切る覚悟が、なかった」
「今は?」
わたしの問いに、セドリックが顔を上げた。
「あなたが毒を盛られて、それでも生き延びて、大聖堂で浄化を見せた。その話を聞いたとき——」
セドリックの目に、光が揺れていた。
「このまま黙っていたら、私は人殺しの片棒を担いだまま生きることになる。それが、耐えられなくなりました」
物置小屋の中に沈黙が落ちた。
レオンハルトが扉越しに口を開いた。
「その写しは法的にどこまで有効だ」
「……正直に申し上げると、写しだけでは弱い。宰相が『偽造だ』と言えば、筆跡鑑定が必要になる。確実なのは原本です」
「原本はどこにある」
「宰相府の書庫です。ただし——」
セドリックの声が沈んだ。
「閣下は最近、書庫の整理を命じました。古い文書を処分すると。私は……原本が処分されるかもしれないと、危惧しています」
——処分。
証拠の隠滅だ。
「いつ?」
「わかりません。ただ、そう遠くない。閣下はフィオナ様の動きに気づき始めている」
わたしは写しを見つめた。
ドルクス・ヴェインハルトの名前。
蒼鉛花・乾燥根・五グラム。
この紙だけでは足りない。
けれどこの紙がなければ、何も始まらない。
「セドリックさん。ありがとうございます」
「……礼には及びません。これは、私がすべきことを十年遅れでしているだけです」
セドリックが物置小屋を出て行った。
その背中が中庭の角を曲がって消えるまで、わたしは見送った。
レオンハルトが腕を組んで言った。
「信じるか」
「全面的には、まだ。けれど——」
わたしは写しを外套の内側にしまった。
「この写しの内容は、薬草園の圧着痕と一致しています。日付も、数量も、頭文字も。二つの証拠が同じ方向を指している。それは重い」
「ああ。だが原本が消される前に手を打たなければ、写しと圧着痕だけでは宰相を追い詰められない」
「わかっています」
中庭の花壇に、午後の陽射しが降り注いでいた。
白い花が風に揺れている。
原本が処分される前に。
その期限が、いつ来るかわからない。
「レオンハルト」
「何だ」
「急ぎましょう」
彼は一つ頷いた。
わたしたちは中庭を後にした。
外套の内側で、羊皮紙の写しがかすかに肌に触れていた。
薄い紙一枚。
けれどその重さは、金貨八百枚よりもずっと重い。




