第5話 王立薬草園の鍵
月のない夜を選んだ。
二日間、わたしはレオンハルトと準備を重ねた。
管理棟の間取り。出入り口の位置。警備の交代時間。
レオンハルトは近衛の立場を使い、二番隊の巡回表まで手に入れてくれた。
夜間の薬草園は、日中とは別の場所のようだった。
王城の東にある薬草園は高い石壁に囲まれている。
夜間警備は二番隊から二人一組が選ばれ、二刻ごとに正門から時計回りに園内を巡回する——レオンハルトから得た情報の通りだ。
その巡回の間隙を突いて、裏口から管理棟に入る。
持ち時間は最長で半刻。
「行くぞ」
レオンハルトが低く囁いた。
近衛の制服ではなく、濃い灰色の外套を被っている。わたしも同じだ。
裏口は薬草園の北東にある。
小さな木戸で、錠は古い型だった。
レオンハルトが懐から取り出した細い金具を差し込み、数秒で開けた。
「……騎士がそういう技術を持っているんですか」
「近衛は城の全ての錠前の型を把握している。非常時の対応だ」
嘘か本当か判断がつかなかったが、今は追及している場合ではない。
木戸をくぐると、薬草の匂いが鼻を突いた。
暗闇の中にうっすらと畝が見える。
低い柵で区切られた薬草畑が整然と並び、その奥に四角い石造りの建物がある。
管理棟だ。
足音を殺して畝の間を進む。
土が柔らかく、靴底が沈む。
レオンハルトが先を歩き、わたしがその後を追った。
管理棟の扉も錠がかかっていた。
こちらはレオンハルトでも少し手間取ったが、やがて鈍い音とともに開いた。
中は暗い。
当然だ。蝋燭を灯せば外から見える。
わたしは右手を軽くかざした。
掌に淡い光を灯す——浄化の応用だ。
ごく微弱な魔力で光を生み出す技術は、聖女候補の基礎訓練で習った。
覚醒後の今なら、ほとんど力を使わずにできる。
薄い光が管理棟の内部を照らした。
木の棚が壁一面に並んでいる。
棚には革綴じの帳簿がびっしりと詰まっていた。
背表紙に年号と分類名が金文字で記されている。
「禁制毒の管理簿……ここか」
レオンハルトが棚の一画を指さした。
赤い革の帳簿が五冊、他の帳簿とは別に金具で棚に留められている。
金具を外し、一番新しい年号の帳簿を取り出した。
ページを繰る。
品目ごとに分類されている。
蒼鉛花。
その項はすぐに見つかった。
——だが。
「ページが、ない」
わたしの声が掠れた。
蒼鉛花の項の直後、二ページ分が綺麗に破り取られていた。
残されているのは綴じ糸に沿ったわずかな紙片だけ。
「記録を消した——いや、持ち去ったのか」
レオンハルトが帳簿を覗き込む。
その声には怒りが滲んでいた。
わたしは息を吸って、帳簿を光に近づけた。
破られたページの次のページ。
白紙のはずのその紙面に、わたしの目は微かな凹みを見つけた。
「待って」
「何だ」
「光の角度を変えます——」
掌の光を帳簿の紙面に対してほぼ水平にかざした。
浮かび上がった。
前のページに書かれた文字の圧着痕。
筆圧の強い署名の凹みが、次のページにくっきりと残っている。
「……読めるか」
レオンハルトが息を詰めた。
わたしは目を凝らした。
品目——蒼鉛花・乾燥根。
数量——五グラム。
日付——祝宴の十日前。
持ち出し許可者——
署名の筆跡は複雑で、光の角度を何度変えても最初の一文字しか読み取れなかった。
「一文字目は……『ド』に見えます」
「ド——」
レオンハルトの目がわずかに見開かれた。
けれどそれ以上は言わなかった。
わたしも言わなかった。
「ド」で始まる宰相府の人間が誰か、推測はできる。
けれど一文字では証拠にならない。
「この圧着痕を写し取れないか」
「薄い紙と炭があれば拓本が取れますが……今は持っていません」
「次に来るときは用意する。今夜は——」
レオンハルトが言葉を切った。
足音。
遠くから、規則正しい二人分の足音が近づいている。
巡回だ。
「——まずい。予定より早い」
レオンハルトが帳簿をわたしの手から取り、元の棚に戻した。
金具を留め直し、わたしの掌の光を手で覆う。
「消せ」
光を消した。
管理棟が暗闇に沈む。
足音が近づく。
管理棟の外壁沿いを通過している。
息を殺した。
レオンハルトの手がわたしの腕を掴み、壁際に引き寄せた。
足音が——通り過ぎた。
遠ざかっていく。
二人分の靴底の音が薬草園の向こうに消えるまで、長い時間がかかった。
「……行くぞ。今夜はここまでだ」
レオンハルトの声は低いが、冷静だった。
裏口から出て、木戸の錠を戻す。
薬草園の石壁に沿って城下町の路地に抜けた。
夜風が汗ばんだ首筋を冷やした。
「成果はある」
レオンハルトが前を向いたまま言った。
「圧着痕。日付は祝宴の十日前。署名者の頭文字は『ド』。——次は拓本を取る」
「はい」
「だがそれだけでは足りない。圧着痕は法的な証拠としては弱い。原本か、許可状そのものを手に入れる必要がある」
「……許可状の原本は宰相府にあるんですよね」
「ああ。許可状は二通作成される。一通は薬草園、もう一通は宰相府。薬草園の分は帳簿ごと破られた。残るは宰相府の保管分だが——」
「宰相府への潜入は、さすがに」
「無理だ。あそこは近衛でも自由に入れない」
路地の暗がりで、二人とも黙った。
圧着痕では不十分。
原本は宰相府。
管理簿は破られている。
——手詰まりか。
いや。
まだ道はあるはずだ。
「宰相府の内部に、こちら側の人間がいれば——」
わたしの呟きに、レオンハルトは答えなかった。
そんな都合のいい人間がいるかどうか、今の段階ではわからない。
けれど圧着痕という手がかりは確かに存在する。
「ド」で始まる署名。祝宴の十日前。蒼鉛花五グラム。
わたしは外套の中で拳を握った。
——もう少し。あと少しで、真実に届く。
神殿への帰り道。
レオンハルトが不意に言った。
「明日、一人の神官に会え」
「神官?」
「リーシャ・オルヴェーヌ。大神官の孫だ。——最近、神殿内の不審な金の流れを調べているらしい」
その名前を、わたしは初めて聞いた。
大神官の孫で、神殿の腐敗を調べている神官。
「なぜわたしに会わせるんですか」
「お前に会いたがっている。大聖堂の件を見ていたそうだ」
——味方が増えるのか。それとも新たな罠か。
判断するには、会ってみるしかない。
「……わかりました。会います」
夜の王都を、わたしたちは足早に歩いた。
掌にはまだ、帳簿の革の感触が残っていた。




