王太子ラグナ 後編
自分に『祝福』があるという事に感謝したのは、生まれて初めてかもしれない。
レジーナを王宮に引き込むにあたって、どう話せば、どんな風に喚けば効果的なのか。何度でも試せたからだ。
無論、『祝福』連続使用の負担は恐ろしく大きい。何度となく斃れそうになったが、、この三年間で体力が付いたお蔭か、何とか意識を保つ事が出来た。
父王に哀れな娘を妾として囲うと話し、二つ返事で了解されるまでも簡単なものだった。
「アンタ、顔色悪いわよ!? また『祝福』を使ったんでしょ! あたしにはわかるのよ、馬鹿!」
「ふ、ん……少し酒に酔っただけだ。それより離れるな、水差しにも触れるな。注ぐのは俺がやる。侍女も呼ぶなよ、いいな!」
「どんだけ過保護なのよ……用足しにまで着いて来ようとするし」
レジーナはそうぼやくが、ラグナとしては気が気ではない。この離れの別宮にも刺客がやってこないとは限らないからだ。王宮は決して安全な場所では無い。ここ数年は機会も減ったが、現にラグナ自身幾度も暗殺の危機にあっているのだ。用心に用心を重ねるべきだと熟知していた。
レジーナの背景、母親が死んでから引き取られ、王太子であるラグナを誘惑しようと画策する。
それは、一介の男爵が思い描くには過ぎた図だ。裏で誰かが手を引いているのは明らかだった。
しかし、その黒幕がわからない。だからこうして、あるもの全てに注意を払うしかないのだ。
部屋の四隅にまで意識を飛ばした後、ようやく一息を吐こうとしたその時だった。
外に控えていた兵から、来訪者を告げる声が届く。
「失礼、仲が良さそうで何よりですな、殿下?」
ずかずかと中に入って来た男を見て、ラグナは顔を顰めた。
ブルム・テンダリア。先王の親類であり、公爵家の当主でもある喧しい男だ。
何年か前に若い後妻を迎えたせいか、既に老境に差し掛かっているというのに、その覇気はいささかも衰えを見せない。何かにつけて先王の偉大さを語り、ラグナをその引き合いに出すのには辟易したものだった。
「近頃は真面目になったと思いましたが、そのような娘を引き込むとは嘆かわしい。それも婚約者である、セラスフィア嬢を放ってまでの寵愛。先王が見ればどれ程に嘆かれる事か!」
生涯の愛を妃一人に捧げたという英雄王。確かに、祖父から見れば今のラグナは見るに堪えない事は間違いなかった。
「ふん、既に死んだ祖父様など知った事か。俺はこいつを自分の物にすると決めたのだ。帰れ、帰れ」
レジーナを抱き寄せ、犬を追い払うような仕草で手を振れば、宰相はため息を吐いてうな垂れた。
「殿下、後悔しますぞ。王太子の、国の未来を担うその責務を軽んじるような真似をすれば、それは貴方自身に跳ね返って参りましょう。ゆめゆめ、忘れる事なきように……」
「ねえ、宰相様」
それまで黙っていたレジーナが、急に口を開く。
こちらに背を向けかけていたブルムが、その言葉に振り返り、訝しげな表情でレジーナを見た。
「これ、返します。もう要らないから」
レジーナが懐から取り出したのは、小さな白い包み紙であった。
「ふむ、何の事かな? 私はそのような物を君に渡した覚えはないがね」
「そう言うと思った。いいわよ、別に。ただあたしはもう降りるってこと。それだけ知ってもらいたいだけ」
レジーナは微笑むと、包み紙をしまい込む。
「おい、何を話している! 俺を放ってどういうつもりだ!?」
二人のやり取りにラグナが困惑していると、宰相が疲れたような仕草で首を振った。
「少し話しをしたくらいで、その態度。情けのうございますよ、殿下。よほど、このご令嬢の魅力に参ってしまわれたと見えますが、よもやセラスフィア嬢との婚約を破棄するような真似は――」
「ふん、俺とてそれぐらいの道理は弁えておるさ。この娘は我が愛妾だ、妃などにはせん。生涯傍に置き、贅沢させて慈しむゆえ、お前もそのつもりでいろ」
「……左様ですか」
どこか憐れむような目でこちらを見やったかと思うと、今度こそラグナに背を向け、宰相は部屋を立ち去った。
いつになくあっさりとした引き際に、ラグナが首を傾げていると、その裾をレジーナが引っ張った。
「ちょっと、良いの? あんな事を言って。これじゃあたし、王太子様を誑かす毒婦じゃない」
「いや、誑かそうとしたのは事実であろう?」
図星を突かれたか、プイと横を向いて頬を膨らます様が、妙に可愛らしかった。
何だか楽しくなり、ラグナはレジーナのそれを突く。
「もう、何がおかしいのよ! こっちはずっと気を張りっぱなしだってのに!」
「ははは、何がだろうな。俺にもわからんよ」
それより、と。ラグナはレジーナの胸元へ目線を下げた。
「なに、どうしたの。あたしに欲情した?」
「するかっ!? さっきの包み紙、あれは何だ? それに、宰相との会話も……」
「ああ、あれ? 勘違いよ、あたしの勘違い。気にしなくていいわ」
ラグナの追及をさらりとかわし、レジーナは笑う。
こうした時の彼女は頑固だ。何を言っても話してはくれないと、経験で分かっていた。
結局、こうなのだ。肝心かなめの所で、レジーナはラグナに何も話してはくれない。
それを寂しく感じる自分に気付き、思わず苦笑が漏れた。
「ほらほら、そう落ち込まないの。肩でも揉ませてあげるから、元気出して」
「ああ、すまぬ……って、逆だろうそこは!? なんで俺がお前の肩を揉まなくてはならんのだ!?」
「むしろご褒美だと思うんだけど。王子様の欲求不満を少しでも解消してあげようという気遣い。ついでにあたしの肩こりもほぐれて一挙両得。誰もが喜ぶ冴えたやり方ね!」
「お前は俺を何だと思っとるのだ! ええい、もう我慢ならん!」
小突いてやろうと手をのばせば、笑いながらレジーナが逃げ回る。
それを追いかけているうちに、自然と笑いが込み上げてきて、ラグナはたまらなく愉快な気持ちになった。
何がおかしいのか、何故こんな他愛無いことが楽しいのか、自分でもわからない。
「そら、捕まえたぞ! 観念しろ、この性悪毒婦が!」
「ちょっと、もう少し淑女への言い方ってもんがあるでしょーが! この馬鹿! 馬鹿王子っ!」
そうだ。それでも、こんな馬鹿王子でも理解出来る事は、一つ。
この手の中の温もりを失いたくないと願う、かつて感じたことが無い程の、強い執着だった。
◆ ◆ ◆
ラグナが密かに手配させていた男爵家の調査、それが済まぬまま、メレナリス男爵は死亡扱いとして捜査が打ち切られた。
下級とはいえ、貴族に名を連ねる男の処遇にしては異例の早さ。
やはり、何者かが裏で糸を引いているのは間違いない。
しかし、今のラグナ達に出来る事は何も無かった。事情を話せば、レジーナはその身を拘束される。
自分一人で出来る事の狭さ、無力さに。ラグナは歯噛みする毎日だった。
そうして、卒業パーティーの日がやってくる。
立場上、仮病は使えない。晴れある日に王太子が現れないなど、王家の恥晒し。
今も既に評判は地に落ちているだろうが、これ以上下げてもレジーナを守るのに不利となるだけだ。
そう判断し、ラグナは彼女を連れての参加を決めた。
「フム、まぁ良く似合っているな。俺の隣に立つに相応しい……っと、どうした?」
「ううん、何でも。遂にこの日が来たんだなってさ、何だか感慨深くて」
笑みを貼り付けたまま、気丈に胸を張るレジーナ。
その姿がいじらしく見えて、ラグナは少女の肩を抱いた。
そこら中から囁かれる声にも耳を貸さず、聞かぬふりをして挨拶回りに従事する。
参列客の中に、一学年下の弟、アルフレッドの姿が見えた。その傍らに、銀髪の少女を伴っている。
どうやら、パートナーにはセラスフィアを選んだらしい。順当と言えば順当だが、弟達の心中を知るラグナからすれば、穏やかな気持ちではいられなかった。
向こうもこちらに気付いたか、如何にもな貴公子めいた仕草で一礼してくる。
(……もしや、裏で手を引いているのはアルフレッド? いや、奴ならこんな回りくどい手は使うまい。何より、レジーナが引き取られた際の年齢が合わぬ)
レジーナから聞かされた話では、メレナリス男爵が直接彼女を見付けたわけではないらしい。
知人の伝手で教えてもらった。そう零していたのを耳にした事があったそうだ。
だとすれば、その時から何らかの策謀めいたものが動き出していた可能性はある。
(レジーナが男爵家の娘となったのは六年前。齢十一の子供が、そんな事を企むとは考えたくもない、が――)
先王の再来とも言われている武勇と叡智を修めた第二王子。
勝手に引け目を感じ、言葉を交わす事さえ避けていた自分が情けない。
どうして、もっと会話をしなかったのか。
実の弟に信頼を抱けないどころか、その考えさえ推し量れない己に今更ながら歯噛みする。
時を遡れる異能があっても、取り戻せない物は多い。いつだって、後悔は尽きないのだ。
「ラグナ殿下、ご機嫌麗しく。随分と我が娘を手厚く扱ってくださっているようですな?」
「む……そなたは、レーベンガルド侯爵――」
見事な髭を蓄えた壮年の男性が、ラグナに礼の仕草を取る。
「そのような娘に構い、目を掛けるとは嘆かわしい。それも、こんな晴れの舞台にまで」
蔑むような視線を隠そうともせず、侯爵は鼻を鳴らす。
「一国の王太子として、その態度はどうなのですかな?」
「さてな、務めを果たせば問題なかろう。そなたの娘にはすまぬと思うが――」
レジーナの腰に手を回し、こちらへとしな垂れかからせる。
「俺は、真実の愛に目覚めてしまってな。この詫びは後ほどするから、まぁ許せ」
「やれやれ、私の見込み違いでしたか。後悔しますぞ、殿下」
レジーナを睨み付けると、宰相と同じような言葉を吐き捨て、侯爵が去っていく。
どうにも、ラグナは昔からあの男が苦手であった。女関係の派手さも噂で囁かれた事もあるが、何より己の娘や息子達を人として見ず、傲慢に振る舞うその様が、如何にもな典型の貴族めいていて、話す事さえ苦痛であったのだ。
(あやつが義父になるのかと、父上の選択を恨んだ事もあったが、あれでも大貴族。王家の力が衰え始めたとされる昨今では、国王ですら思うがままにならんと聞く)
長い歴史の中で膿み、汚れ始めた権力構造。
その趨勢さえろくに知らないラグナに、果たして国が治められるのか。我が事ながら不安になる。
(だが、王にはならねばならん。そうしなければ、この娘を守れぬ)
内心の怖れを振り払うように、少女を抱く手を強めると、ふとその身が震え始めている事に気付く。
「どうした、気分でも悪いのか? バルコニーの方へ行って風にでも当たり――」
「――やっぱり、あいつだ」
地の底から響くような低い声に、ラグナはぎょっとする。
レジーナのその顔色は青ざめ、死人のような色合いを見せていた。
「前に、酒に酔った男爵が言ってたの。我が友には世話になっているって。いつも幸運を与えてくれるって。お前もお父様と一緒に感謝しようって。立派な髭を蓄えた、侯爵様に――――」
「なんだと?」
慌てて、侯爵の歩き去った方を振り向く。
だが、その姿は雑多な人に紛れ、既に影さえ見当たらない。
「現侯爵は六人。さっきの挨拶回りの中で、髭が立派なのはあの男しか居なかった。レーベンガルド侯爵しか……」
「ま、待て! 男爵の恩人がレーベンガルドだとしても、そんな与太話だけで黒幕とは限らんだろう! そもそも、何故このような場でいきなりそんな事を――」
心臓が早鐘を打つ。あり得ない、あの男だけはあり得なかった。
いけ好かない侯爵とはいえ、その娘は王太子の婚約者だ。黙っていれば王妃の座が転がって来る。
わざわざ、余所から探した娘をあてがう必要が何処にあるというのだ。
あるとすれば、ラグナ自身の素行に疵を付け、そこから王太子を挿げ替えるという、大それた考え、だが。
(俺の悪評があまりにも目立つからか、だから見限った? 六年も前に!? バカな!)
混乱する頭をどうにか押さえ込もうと四苦八苦していると、目の前に白い紙切れがちらつく。
いつの間にか、レジーナのほっそりとした指先に包み紙が摘ままれていた。
「これ、何だって前に聞いたわよね。教えてあげる。あたしの『祝福』の効果がイマイチだからって、アンタの心を乱して気持ちを惹きつけやすくするお薬……らしいわ」
「なっ!?」
仰天してレジーナを見つめる。
少女の顔からはいつの間にか表情が抜け落ち、その目は何処か遠くを眺めるかのように、宙を彷徨っていた。
「でも、嘘ね。知っているわ、麻薬よこれ。この甘ったるい匂いを忘れるわけがない」
つまらなさそうに包み紙を振りながら、レジーナは呟き続ける。
「お母さんが買い続けたものと同じ――ううん、それより色が濃い。効果も相応に高いのでしょうね。こんなものを飲めば、誰が見ても心が壊れた人間の出来上がり」
はらり、と。包み紙が床に落ちる。それを踏み付け踏み躙り、レジーナは蹴飛ばした。
「渡したのは、誰だと思う?」
「ま、まさか……」
ラグナの脳裏に、少し前の宰相とレジーナのやり取りが浮かぶ。
そう、とレジーナが笑う。
「ねえ、王子様。可哀想な王太子様。貴方をこのまま王さまにした方が得をする人、しない人。当然どちらも居るでしょうね」
「な、何を言い出すのだ……?」
「侯爵が前者で、宰相が後者。結局最後まで確証はなかったんだけど、そういうことだと思う。だって、ね? あたしはあの銀髪美人の婚約者様に言われたの」
ラグナにしなだれかかるようにして、レジーナが頬を寄せる。
「――貴方の弟、アルフレッド王子を魅了しろって」
眼が見開かれたのが、自分でも分かる。
ラグナの体が震えはじめる。何を、この少女は何を言い出そうとしているのか。
「馬鹿馬鹿しいわ、本当にあほらしい。表面では手を結んだように見せかけて、水面下で牽制しあう。結局、権力だなんだを奪い合うばかりで、その割を食う人間が損するのは変わんないじゃない」
「ま、待て。待って、くれ。なんで、セラスフィア、が……」
おかしい、それはおかしいじゃないか。だって、あの二人は想い合っている筈なのに。
「『言付け』、ですって。たぶん、あの生徒会長さんのお父様……侯爵からの、ね。あの人も、当主の言葉には逆らえないんでしょ。内心はどうであれ、余裕ぶった顔であたしに言ってきたわ。ほんと、むかつく女よね」
好きな男を裏切る手伝いをさせられたくせに、と。レジーナが吐き捨てる。
その言葉が、ラグナの耳を素通りしていく。足元がおぼつかなくなり、立っていられない。
「お貴族様達の思惑に振り回されるのがいい加減に嫌になってさ、アンタを売って、それで賢く立ち回るつもりだったけど、駄目ね。アイツ等に『魅了』も使って色々試したのに上手く行かなかったし、やっぱり我慢ならないわ」
「レ、ジーナ……」
「あら?」
レジーナが意外そうな顔で笑う。
「アンタ、あたしの名前を呼んだの、これが初めてじゃない?」
瞬間、場内に轟くようなファンファーレが鳴り響いた。
歓談にざわついていた声が、その音に窘められるように静まり、引いていく。
「だからさぁ、最後に抵抗してやろうかと思うの。それが、アンタへのせめてもの恩返しで、罪滅ぼし、かな」
「お前、何を言って――――」
しかし、その問いが紡がれる事はなかった。
ラグナの声を制するかのように、大きな声が上がったのだ。
「――これより、国王陛下の御言葉を頂戴します」
皆の視線が壇上に集中する。無論、ラグナも同じだ。
反射的に父王が居るであろう方向に視線を向ける。
それが、命取りとなった。
「オォォォォォォ!」
突如として上がった雄叫び。目の端に、給士服に身を包んだ男の姿が映った。
弾かれたようにラグナが振り向くも、既にその眼前へ刃が迫っていた。
(狙われているのは――俺かっ!?)
完全な油断。身動きさえ出来ぬまま、ラグナの胸へとナイフが滑り込み――
「なっ!?」
横合いからの衝撃。それに押し出されるようにして、ラグナは仰向けに倒れ込む。
世界が、目の前の景色が、ひどくゆっくりと動く。
王太子を襲うはずだった刃は、標的を外れて『彼女』の胸に埋まり、血飛沫をあげた。
「あ、あぁぁぁぁぁ――――!!」
声にならない絶叫。それが自分の口から出たものだと、ラグナは信じられなかった。
床に付いた手が痛むのも構わず、駆け出すようにして男へ体当たりをすると、馬乗りになって顔を殴りつけた。
二度、三度、四度。
手が血塗れになるのも構わず拳を振るい、その抵抗が止んだのを見届けると、そこでようやくラグナは振り向く。
「レ、ジーナ……」
床に倒れ伏す、少女の姿。白いドレスを濡して滴り落ちる、夕焼けよりもなお赤い紅。
「レジーナぁッ!」
這うように彼女の元へと駆け寄る。
「早く、早く医者を呼べ! ぐずぐずするな、早くしろぉっ!」
喚き散らしながらも、レジーナを抱き起こし、その頬に手を当てた。
「何故、どうして俺を庇った!? 俺は戻れた、戻れたんだ! これまでと同じように……!」
その言葉に、だが嘘が混じっているのをラグナは悟っていた。
『祝福』は完全なものではない。もし、発動する前に即死させられたらどうにもならなかった。
あの時、防ぎようも無いタイミングで刺客が放った刃を受ければ、もしもの事は十分あり得た。
命を救われた、それは確かな事なのに。
ラグナは自分でも困惑する程の焦燥に、胸を焼かれていた。
見る間に、少女の愛らしい顔が青ざめ、土気色に染まっていく。刃に毒が塗られていたのは明らかだった。
医者に見せても間に合わない。ならば、するべき事は一つしか無かった。
「ま、待っていろ! すぐに戻る! 次はこんな事、防いでやるから、絶対に――」
懐から時計を取り出し、長針と短針に意識を集中。そこに自身の内側から零れ出る『力』を乗せようとした、その瞬間だった。
「なっ!?」
レジーナの手が、懐中時計を払いのける。掌から零れた銀時計は派手に叩きつけられてガラスの破片を巻き散らし、床を滑るように転がりながら、誰かの足元にぶつかり止まった。
白く細い指先がそれを拾い上げ、ラグナに見せつけるように鎖を摘まんで垂らす。
「セ、セラスフィア……!」
「やはり、こうなってしまいましたか。ご忠告は差し上げましたのに」
銀髪の少女は、哀しそうにため息を吐く。
「そ、それは俺の物だ! 早くこちらに渡せ!」
早くしなければ、レジーナが死ぬ前に戻れなくなる。
今までした事も無い『祝福』の連続使用の副作用か、ラグナの体力は日に日に落ちているのを感じていた。
もう、何分遡れるか。確証が持てない。
しかし、ラグナの懇願を聞き入れもせず、侯爵令嬢は憐れむような視線を向けるばかり。
「死なせておあげなさい、殿下。その娘もそれを望んでおりますよ」
馬鹿な事を言うな、と叫ぼうとして。ラグナは服の裾を引かれているのに気付く。
ハッとして振りかえると、レジーナは微かに首を振った。
「い、い……の……も、い――――」
ごぼり。桜色の唇から、血の塊が吐き出される。
レジーナが激しくむせる度に、赤い液体が飛び散り、周囲を染め上げてゆく。
「よせ、喋るな! おいセラスフィア……時計を渡せと言ったろう! 命令だぞ! 誰か、その女から時計を奪って寄越せ! 早くしないと戻れなくなるだろうが!」
ラグナの叫びを、ついに気が触れたと受け取ったか、周囲の人間はざわめくばかりで動こうともしない。
「頼む、時計を! とけい、を――」
縋りつくように伸ばされた手に、優しく触れるものがあった。
血塗れの手。何度も見た、小さな指先。
ひゅーひゅーと、口から死の吐息を漏らし、レジーナが再び首を振った。
「なんで、なんでだ! 何故、助けさせてくれない!? 死にたくはないんだろう!? お前はあの時、そうして泣いていたじゃないか! だから、俺はお前を守ろうと――――」
「守られていたのは貴方ですよ、殿下」
「な、に……?」
いつの間にか、傍まで寄って来ていたセラスフィアが、レジーナの背を労わるように撫でていた。
「おかしいとは思いませんでしたか? ここ数年、貴方は毒を含まれるなど、暗殺の危難を感じたことが無かったはず。それまでは日常茶飯事、とまでは言わなくとも、死は身近にあった事でしょうに」
そういえば、とラグナは思い返す。レジーナと会ってから彼女を囲うその直前まで。
時を遡るような事態に見舞われた事は殆ど無かった。
「常に貴方を連れ回し、振り回す事で籠絡中だと知らしめようとしたのでしょう」
セラスフィアがラグナを見る目には、どこか気遣わしさが感じられた。
その金色の瞳には、哀れな愚か者を悲しむような、そんな色が宿っている。
「うそ、だ……どうして、レジーナがそんな事をする必要がある? 知らしめるって、誰に……」
「この娘に、監視が付けられていただろう事すら気が付かない、考えが及ばない。自身の狭い価値観と思考だけで判断しようとした貴方は、やはりどうしようもない愚物ですね、兄上」
セラスフィアを追ってきたのだろうか、その傍らに立つアルフレッドが嘲りの声をぶつけてくる。
言っている意味がわからない。アルフレッド達の言葉も、レジーナが何を考えていたのかも、理解できない。
「だってレジーナは、王妃になりたくはないと言ったのだぞ? 俺など嫌いだと、生理的に無理だとすら蔑まれたのに……」
「……か、ね……あん、ごふっ!」
真っ赤な血の塊が、ラグナの胸に吐き出される。
「レジーナ!!」
薔薇のように染まったそれを拭う事すらせず、ラグナはレジーナに縋りつく。
「そ、そうだ! 幸せになりたいんだろう!? お前はいつも、そう言っていたはず! だから俺を売ってまで生きようと、足掻いたのだろう!? なのに、なのに……」
あの中庭で、夕暮れの木の下で、装飾店で、夢見るように憧れを述べながら、そう言っていたのに。
「こんな、こんなのは違う! 違うじゃないかぁ!」
ぽたぽたと、ラグナの頬から水滴が流れ落ち、レジーナのそれを濡らしていく。
「こんな結末が、お前の幸せであってたまるかっ!」
その言葉に、何故か少女は嬉しそうに微笑み……そのまま、動かなくなった。
そっ、と。ラグナの肩に手が触れる。
見上げると、そこには銀髪の少女の姿。美しき婚約者は目を伏せながら、首を横に振る。
「どうして……戻らせて、くれないのだ……死んで、しまったではないか……」
「諦めたのですよ、兄上。彼女は生を諦めた。もう疲れたのではないのですか? 貴方に付き合い続けるのも、ね」
何かを言わんとしたセラスフィアを制し、アルフレッドが淡々と述べる。
「だから、か? 男爵に俺を籠絡するのは無理だと告げたのは……」
この茶番を、終わらせようとした? でも、なら。やはり、どうしてラグナを庇うのか。
「さぁ、それはこの娘の胸中に秘められたもの。真実はわかりません。アルフレッド殿下の仰る通りなのか、それとも――――」
セラスフィアの金色の瞳が、ざわめく人々に向けられる。
「――――ようやく、視えたわ。少し、遅すぎたけれど」
セラスフィアの視線の先に目を向けると、そこには肩を落とした様子のレーベンガルド侯爵と、もう一人。
「さい、しょう……」
その隣でこちらをじっと見つめている、宰相の姿が在った。
――――だから、言ったのです。
その口が微かに動き、そう言った、気が、した。
『後悔しますぞ、殿下』
レーベンガルド侯爵と同じ台詞、同じような忠告。
やはり、そうなのか。ラグナは愕然とする。レジーナが言った事は、全て――
いや、真実はわからない。それを判断する材料も何も無い。何もかもが手遅れだった。
「レジーナ……どうしてもっと早く、話してくれなかったのだ……」
「信じきれなかったのかもしれませんね」
セラスフィアの言葉が重く響き、ラグナの体から力が抜けていく。
誰を、とも。何が、とも彼女は言わなかった。そしてそれが恐らく、レジーナに死を選ばせたであろう原因だったのだろう。
『だからさぁ、最後に抵抗してやろうかと思うの。それが、アンタへのせめてもの恩返しで、罪滅ぼし、かな』
崩れ落ちるように、ラグナは膝を折った。
こんな、こんなものが。恩返しだとでも言うつもりなのか。
その時だ。冷めた目でそのやりとりを見ていたアルフレッドが、不意に顔を寄せてきた。
「――僕の『祝福』は使いませんよ、兄上。やり方は少々気に入りませんが、貴方を追い落とす良い機会だ、利用させて貰います」
耳元でそう呟かれた瞬間、全てが終わったのだと、ラグナは悟った。
かつて、偉大なる先代王も有していたという、対した相手の虚実を暴く、弟の『祝福』。
それを使わず口を閉じられたら、どうしようもなかった。
どうしようもない無力感に包まれ、笑みを湛えたまま物言わぬ骸と化した少女を見る。
(お前は最期、何を言いたかったのだ? どうして、微笑んだのだ? わからない、やはりどうしてもわからない。嫌いだと言った私を庇って、どうして――)
いや、それが理解出来たところで、全ては手遅れ。
セラスフィアの言う通り、ラグナは何もかもが遅すぎたのだ。
今更、一時間程度の時を遡っても何も変わらない。
宰相や侯爵を糾弾するには証拠もなく、弟王子は明確に敵に回ると宣言した。
暗殺を防いでも、すぐにまた別の何かがラグナを、レジーナを殺す。
そして彼女は、あえて死を回避する道を選ばない。
ラグナへ本当の意味で心を開くことは無く、黙したまま息を引き取る。それを繰り返すばかりだろう。
――――何処で、間違えたのだろう。
それは、昨日今日の事では無い。長い年月の積み重ね。
何もしてこなかった自分の過ちが、彼女からの信頼を得る事叶わず、その命を奪ったのだ。
――――なら、どうする? どうすればいい?
「……セラスフィア、時計を返してくれ」
「殿下、それは――」
「頼む。最後に一つだけ、試してみたい事があるのだ。自棄で言っている訳ではない」
婚約者であった少女をただじっと見る。
ラグナのその目に何かを感じてくれたか、セラスフィアは大きく息を吐いた。
「……この時計は見ての通り、壊れて止まっておりますよ。別の物をご用意いたしましょうか」
「いや、それでいい。それが、いいのだ」
訝しげに眉を顰めるセラスフィア。少女の手に握られた時計を、横合いから伸びた指が掴み取り、ラグナの方へと投げられる。
「……アルフレッド」
「面白い。やってみせてください、兄上。ああは言いましたが、僕もこんな茶番には腹が立っていましてね。どいつもこいつも、王家の威信を――僕の女神を何だと思っているのか」
セラスフィアの肩を抱き寄せ、その銀髪に口づけながら、第二王子は不敵に嗤う。
「失敗すれば、僕が貴方を処分し、王太子の座ごと彼女を貰います。愚鈍な兄上にここから何が出来るのか、見せてもらいましょう」
「ああ、それでいい。しっかりとその眼を開いて見届けろ」
割れたガラスの中に指を指し込み、秒針に触れる。
『それよ、それ。アンタ、努力ってものをした事ないでしょ? どうせ出来るわけないって最初っから決めつけて。だからそんな情けない駄目王子に成長しちゃったのよ』
――――あぁ、そうだな。全部、お前の言う通りだよ。
止まった時計の針を動かすなど、試した事も無かった。
しかし、それが思い込みであったのかもしれない。
いつも、いつだって何もせずに諦めていた。どうせ無駄な事と吐き捨てていた。
かつてない程の集中力を持って針を己の手で回し、加速させていく。
見る間に世界が凍り付き、さかしまに回転。渦を巻いて揺らめいていく。
――――『祝福』は万能では無い。遡れる時間には限りがある。
体力を引き換えに戻れるのは一定の時間。その先に行くには、代償が必要なはず。
(……今の俺を見て、それでも馬鹿と罵るか? いや、するな。躊躇いなくそうするだろう、お前ならば)
体の奥底、燃え上るような輝きが、急速に闇へと呑まれていく。
冷たくなる四肢の感覚に身震いしながら、ラグナは目の前の渦を睨み続けた。
「見ていろ、レジーナ。これが一生に一度の、俺が出来る、精一杯の努力だ」
そう呟くと同時に、ラグナは意識を失った。
◇ ◇ ◇
――暖かなそよ風、それに揺さぶられるようにして、ラグナは目覚めた。
目に映るのは青空と、そびえ立つ簡素な白塗りの建物。
「戻って、これた、のか……? 今は、いつ――――」
不意に、全身を恐ろしい脱力感が襲う。魂が抜けたようなおぞましい感覚。
胸の内、肉体の奥底から決定的な『何か』が消えたのを、ラグナは悟った。
「……『祝福』はもう使えない、な。やり直しは効かないと、そういう事か」
誰に言う事も無くそう呟くと、体を包む倦怠感を振り払うようにして立ち上がり、手足の感覚を確かめる。
『祝福』が消え去ったわけではない。それを使うだけの『代償』がもう、ラグナの体には残されていないのだと、本能的に悟った。
「時間制限も有りなのか? あと何年残っているのやら。当分は持つとは思うが、どうだろうな」
胸を見下ろすと、そこには薔薇の飾りが輝いている。
学院の新入生が入園式の際に付ける目印。 だとすれば、今は。今日は。
「そうか、お誂え向きの時間という訳だ。彼女との出会いからやり直せるとは、神に感謝すべきか」
やる事は幾らでもある。三年という時は短く、怠惰に過ごせば結末は覆せないだろう。
もちろん、 ラグナ一人ではいくら頑張っても限界がある。敵は多い、しかし信頼できる仲間は誰も居ない。
候補を記憶で探るが、目ぼしいものは存在しない。
しかし、ラグナの頭に閃くものがあった。
(セラスフィアやアルフレッドに話をし、こちらの味方に付ける)
アルフレッドは機会を利用すると言った。王太子の座を狙っているのだろう。しかし、それでなお見せてみろ、と言った。ラグナの出方次第では交渉の芽はあるかもしれない。
しかし、セラスフィアはどうだろうか。あの時、あの状況で見せた彼女の悲しげな表情に、嘘が混じっているとは思えない。
(……全ては賭け、か。いささか分が悪いが、それも承知で呑み込まねば、あの娘は救えない)
その為の対価や、代償。それすら考えて動かねばならない。
彼らが何を考え、何を思う人間なのか。言葉を交わし、理解する。
前の時間で諦め忌避し、放棄していた全てと、これからラグナは向き合わねばならなかった。
「さて、ではやってみるか。死ぬ気になれば、何でも出来るだろうさ。まずは、そう――――」
『――――僕、とか。私、とか。あ、うん。『私』って言い方は良いわ! それと、もっと物腰も丁寧にしなさいよ。乙女の手を取りキスとかしてさ、まさに王子様!って感じの穏やかな語り掛け方を……ほらっ!』
「そうだな……そうだね。うん、彼女に救われた命だ。あの子の望むままに振る舞うとしようか」
彼女の信頼を勝ち取り、死よりも生を選ばせる。
同時に、宰相や侯爵からの接触を断つように動かねばならない。
難しい事だが、それは何よりも必要なことだ。その為なら、ラグナは己の全てを捨てても構わなかった。
「――――幸せにするって、約束したからね」
彼女が課した難問を、一つ一つ思い起こしながら、『いつもの場所』へと歩を進める。
左右に配置された花壇。色とりどりの花々に導かれるようにして先へ先へと進んでいくと、不意に強く風が吹いた。
花びらが宙に舞い、霞のように視界を遮り目を眩ませる。
鬱陶しいそれを手で払い、眼を凝らすと、やがて花吹雪の向こうに影が見えて来た。
(何だ、あんなに体を震わせて。彼女も緊張していたのか。前の『俺』はどうして気が付かなかったのだろうな)
陽光が降り注ぎ、花々が煌めく輝きの中、木の枝の上に腰掛ける一人の少女の姿。
風に吹かれふわふわと揺らめく、ストロベリーブロンド。パッチリとした大きな水色の瞳に、愛らしい顔立ち。
胸から込み上げてくる感情を飲み干し、ラグナは歩き出す。
(君を幸せにしたら、どうだろう。一言くらい、褒めてくれるかな?)
叶わぬと知りながらも、その言葉を夢見つつ、ラグナはくすりと微笑む。
(君は私を馬鹿だ馬鹿だと最後まで罵ってくれたな。確かに私は馬鹿だ、大馬鹿さ。王太子に似つかわしくはないのだろう。けれど、それでも――――)
――――たった一人の少女の幸せの為に、命を賭ける馬鹿が居ても良いだろう?
見上げる空は淡く透き通った水色。少女の瞳と同じ輝きに見守られながら。
ラグナは、花霞の向こう側へと、足を踏みだした。
これにて完結となります。
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