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【8】

 クオンと共に行方不明になった勇者の剣がどこにあるのか、はっきりとした事はわかっていない。


 帝国と自由都市群、人類の危機には手を取り合ったものの、犬猿の仲は相変わらず。水面下でのいざこざは絶えない。双方が火花を散らし、時には一種即発の危機にも陥りながらクオンと勇者の剣の捜索を行っていたのは随分と昔の事である。結果の出ないまま、世間的にはもはや、勇者の活躍は伝説の類になりつつある。


 ただし、クレイグにはひとつ見当が付いていた。十五年前のあの日、突然飛来した竜により大混乱が起きる中で、どうにか救出したアルベルトから直接話を聞けたのはクレイグだけなのだ。アルベルトが何事にも口を閉ざすようになった今、その時の断片的な情報は非常に価値あるものとなっていた。


 魔王城にたった二人で突入したクオンとアルベルト――。彼らの足取りとして確実なのは、魔王軍の最大戦力である〈七将軍〉を死闘の末に打ち破った所までだ。アルベルトは負傷し、クオンは一人で去った。それ以降のクオンの動向は推測する事しかできない。


 勇者が最終的にたった一人で魔王と対峙した事は間違いないはずだ。大戦争は人類側の勝利で終わったが、それはすなわち、勇者が魔王に勝利したことも意味する。


 魔王の居場所は、浮遊塔の頂上。


 最終決戦はそこで行われ、勇者は魔王を倒し、しかし帰らなかった。


 普通に考えるならば、勇者と魔王は相打ちになったのではないだろうか。それならば、クオンの亡骸も勇者の剣も、浮遊塔にそのまま残っているに違いない。クレイグはそんな風に予想し、冒険の目的地を浮遊塔の頂上と定めていた。


「ここまで来て……。やはり、ダメか」


 浮遊塔に侵入する経路を探すため、パーティーはしばらく円形の回廊を探索していた。


 しかし、なかなか成果は上がらない。クレイグは表情を険しくしていた。


 浮遊塔を取り囲む円形の回廊。そこをぐるりと一周したものの、浮遊塔に通ずる道が見つからない。最初の地点に戻って来た所で、四人はいったん足を止めた。


「この場所から塔まで、ちゃんと道が続いているはずじゃなかったんですか?」


 バドンが頭をガシガシと掻きながらぼやく。


 廃王国という世界で一番危険な場所に足を踏み入れるのだから、事前準備は入念になされていた。魔王城内の構造もしっかり調査済みである。ただし、手に入った情報はあくまで十五年前のものだ。


「いや、しっかりと道ならばあった。残念ながら、十五年前には、だがな――。途中に欄干が途絶えている箇所があっただろう。そこがちょうど塔の入口が目の前に来る地点だった。空中回廊が本来あった場所はあそこに違いない。たぶん、何かが原因で落ちたな」


「竜が壊したんでしょうか?」


 シャーリーが思い付きを口にする。


「いや、おそらく……」


 クレイグはため息を吐いた。


 十五年の歳月で、魔王の圏域の建造物には劣化が見られる。そもそも大戦争で受けた破壊の痕もそのままだ。空中回廊が自然と壊れてしまった可能性もあるし、シャーリーが云ったように、ここを根城としている竜が壊した可能性もなくはない。


 だが、クレイグは何となく察していた。


「やったのはクオンだろう。いかにも、あいつらしい」


 勇者と魔王、一対一の決着を望む。


 誰も巻き込まない。


 自分一人で背負いこもうとするその性分は、クレイグのよく知る所だった。


「原因が何であれ、道が途絶えているのは予想外だった」


「うーん。塔の外壁をよじ登りますか? 私、自信ありませんけれど……」


「いやいや、シャーリーの姐さん。ありゃ浮遊塔ですから。根本は地面に付いてないんですって。わたしらが仮に山登りの達人だったとしても、さすがに何もない所には手も足も出ませんからねぇ」


 間の抜けたコメントをするシャーリーと、律儀にツッコミを入れるバドン。


 こんな状況下だろうと普段通りの二人に比べ、レンリエは珍しく黙り込んでいる。


「どうした? 何か思いついたか?」


 レンリエの考え込む様子に気付いて、クレイグがいち早く声をかける。


「わたしたちが昇るのは無理だから――ねえ、塔の方に降りて来てもらったら?」


 最初は自分のアイデアに自信の無さそうなレンリエだったけれど、言葉にした所で、やっぱり良い案かもしれないと気持ちが変わったようだ。にっこり笑顔になると、さらに付け足した。


「浮遊塔の動力を……城の地下にある魔力板を切ってやれば、塔はゆっくり下降を始める。そうすれば、ほらよく見て。竜の貯め込んだ財宝が足場になってくれる」


「はあ。金貨の山を登るわけですか。なんとも、夢みたいな話ですな」


 バドンが途方もない考えと云わんばかり、ぼんやりした声で感想を漏らした。


 シャーリーは想像が追い付かないのか、財宝の山を眺めながらモゴモゴ云っている。


「財宝に触れようものなら、竜が怒り狂って飛んでくるぞ」


「金貨の一枚も踏まないように、どうやって塔まで行けるの? 他に、なにか方法がある? 無駄に考え込んでいる間に、それこそ竜が帰って来るかも知れない」


 挑発的な物云いだったが、クレイグは素直にうなずく。


 レンリエの云う通り、竜はいつこの場にあらわれるかわからない。


 むしろ、竜が不在であるのは奇跡にも等しい幸運だ。この機を逃す手はない。


「よし、その案で行こう。バドン、シャーリー。二人で地下を目指してくれ」


「ふ、二人だけで、ですか?」


「それしか方法がない。浮遊塔が下降を始めたら、その時点で竜に勘付かれる可能性が高い。時間との勝負になる。だから、二手に分かれて行動する。お前たちは地下に行き、魔力板の操作を頼む。これには魔法使いであるシャーリーが適任だ」


「はい、お任せください」


 四人の内で一番頼りになるのはクレイグである。腕も立つし、経験豊富、機転も利く。年齢で云えば、クレイグの次はバドンであるけれど、パーティーの実質的な二番手はレンリエだ。彼女はパーティーの最年少であり、世間的には子ども扱いされて当然の年齢だったが、幼少時からクレイグに付き従い、ずっと危険な旅をして来た。豊富な経験は大人顔負けで、いざという時には優れたアイデアや戦闘技術を見せる。


 パーティーの要である二人と離れて行動するというのは、なんとも不安になるものだ。


 バドンはあからさまに狼狽え、顔色も悪くしていた。一方で、シャーリーは能天気にニコニコと笑いながら胸を張っている。危険を承知の上で器の大きい所を見せているのか、そもそもバカなのか――パーティーを組むようになってから一年以上経っても、彼女の本当の部分は誰にもよくわかっていない。


「俺とレンリエも途中までは一緒に移動する。中庭に出られる位置に着いたら、俺たちはそこで待機だ。バドンとシャーリーが役目を果たし、浮遊塔の降下が始まった事を確認したら一気に入り口を目指す」


「……その、旦那。竜が戻って来たらどうするんで?」


「どうにかするさ。まあ、神に祈りを捧げるのが一番の手だな」


「神頼みだけが救いの手ですか。やはり遺書を書いてくるべきでした」


「お前にわざわざ別れを告げる相手なんているのか?」


「……そういや、いませんでしたね。悲しい話です」


 バドンは丸い背中をさらに丸め、シャーリーの何も考えていなさそうな表情を見て特大のため息を吐く。


「シャーリーの姐さん、頼みますぜ」


「はい。大船に乗った気分でどうぞ」


 バドンがシャーリーのことを姐さん呼ばわりするのは、もちろん、皮肉を込めたジョークである。シャーリーよりもバドンの方が一回りは年上である。そして、シャーリーに姐さんと呼べるような頼りがいは皆無だ。


 とはいえ、彼女は魔法使いとしての才には恵まれている。パーティーにおいて、剣や弓矢ではどうしようもないモンスターを仕留めるのは彼女の役目だった。さらには、浮遊塔の動力源を制御するという特殊な任務もそうであるけれど、これまでも随所で魔法使いとしてのスキルを発揮していた。


「はあ。旦那、これで死ぬことになったら恨みますぜ」


「安心しろ。お前がアンデッドになった時はちゃんと浄化してやる」


 バドンは腕っぷしは弱く、パーティーの一員になるまでは卑しいコソ泥であった事実からも明らかな通り、正義感や倫理観がさっぱり足りていない。いざと云う時には一人だけでサッサと逃げ出すだろうと皆から思われている。そして、そんな風に思われている事をちゃんと自覚しつつ、バドンはそれで平然としていられる面の皮の厚さの持ち主でもあった。


 一見すると良い所のないバドンであるが、危険な裏稼業でしたたかに生き抜いてきた経験には確かなものがある。抜け目なく、器用。戦闘では役に立たなくても、そもそもパーティーが戦闘に巻き込まれないようにするのが抜群に上手い。


 バドンとシャーリーの二人組は、本人たちの性格はともかく、能力的な相性は決して悪くなかった。うっかり屋のシャーリーが危険な目に遭わないように注意し、なおかつ城内にわずかに残っているアンデッドを避けて進には、バドンの力が必要不可欠なのだ。


「そういえば、旦那……」


 階段を下りながら、バドンが不意に気づいたように疑問を口にする。


「城下街の方に比べて、魔王城の中はどうしてアンデッドが少ないんでしょうね?」


「おそらく、勇者の剣にやられたからだ」


「ん? 勇者の剣は、聖水みたいな清めの効果があるんですか? ぶっ殺しても、呪われないみたいな……無闇にアンデッドを生み出さないなんて、便利な武器というか、さすがは伝説の――」


「違う。そんな便利なものではない。あの剣は、もっと――何と云うべきか、それはもう、ただとにかく怖ろしいものだ」


「怖ろしい?」


「あの剣に斬られては、肉片のひとつも残らんよ」


 腐敗した死体には呪いが溜まりやすい。


 だが、そもそも死体が無ければ呪いが溜まってアンデットになる事もない。


「クオンは文字通り、城内の敵を塵も残さず片付けたのだろう」


 地上階にたどり着いた所で、パーティーは二手に分かれた。


「よろしく頼むぞ」


「まあ、旦那。期待せずに待っていてください」


 真面目な顔のクレイグに、バドンは下品な笑みで応える。


 レンリエとシャーリーはまるで女学生のように手を振り合っていた。


「さて、どうなるか――」


 バドンとシャーリーが行ってしまった後、クレイグとレンリエは柱の陰で腰を落ち着けた。集中は切らしてはいけないが、無駄に体力を減らすのも良くない。バドンとシャーリーが仕事を終えるまで、多少の時間がかかるのは間違いない。休息と云えるような休息ではないが、クレイグとレンリエは肩の力を抜くように努める。


「下から見上げると、さらに壮観だな」


「ええ。これだけの宝をよくもまあ――竜って、本当に伝説の通りなんだね」


 竜は強欲である。


 食欲を満たすためではなく、竜の狩りは人の所有する財宝を狙って行われる。


 ただし、竜に襲われたという経験の持ち主はそうそういない。竜は神話で語られるべき生き物であり、人類の目の前に登場することは滅多にないからだ。竜を見たという噂話ならば毎晩のようにどこかの酒場で聞けるだろうが、それらは酔っ払いの戯言に過ぎない。


 竜の個体数はそもそも普通の生物に比べて圧倒的に少ないという説が有力である。世界の遥か彼方、果ての無い海を越えた先に、竜の本当の住処である大陸が存在するという伝説があるものの、本気で信じている者は少なかった。


「竜は何百年も生きるそうだ。国を滅ぼしては財宝を根こそぎ奪い、こんな風に住処に蓄えていく。――さて、老いて力の弱った竜の財宝がどうなるか、知っているか?」


「何百年前かの勇者の物語に、竜を討伐して宝を取り返したってのがあったけど……」


「竜の財宝を人が手にするなど夢物語だぞ。その勇者の物語が語り継がれているのも、それだけ珍しい例だからだ。普通はありえない。竜が老いて死んだとしても、財宝が人々の元に戻ることなんてない」


「じゃあ、この宝の山はどうなるの?」


「若く、さらに強い竜が奪うだけだ」


 クレイグはすぐ目の前に積み上がった金貨を指差した。


「見ろ、これはミスラ王朝時代のものだぞ」


「ミスラ王朝? ……なんだっけ、それ?」


「自由都市群が今の形態になる前の、王制だった頃がスレノア王朝。スレノア王朝の前が、三国時代で――。三国の内のひとつ、短期間だけ存在していたのがミスラ王朝だ。お前に誕生日祝いとしてくれてやった歴史書に書いてあったはずだがな。あれはどうした?」


「……まあ、読んだけど。うっかり忘れることは誰にだってあるでしょう?」


「深くは突っ込まないでやる。だが、学の無い冒険者なんて本当にただのゴロツキだ」


「わかっている。うるさく云わないで。それでミスラ王朝がなんなの?」


「ミスラ王朝が存在したのは三百年前だ」


「三百年?」


 レンリエは目を丸くする。


 クレイグは静かにうなずいた。


「少なくとも、これらの財宝は三百年前から集められ続けたものだ。この廃王国でかき集められた金品も当然たくさん含まれているだろうが、おそらく以前の住処から運ばれてきたものがそれ以上にある。だから、ただの金銀細工としての価値だけでなく、歴史的な価値としても莫大なものがあるだろう。小袋に適当に詰め込んで帰るだけでも、一生遊んで暮らせるはずだ」


「なにそれ、私を試している?」


「そうじゃない。これだけ集められる竜だ。それだけ怖ろしいと云いたい」


 クレイグは金貨を指差していた手を引っ込めると、二度とそちらに目を向けなかった。レンリエもまた、戯れでもそちらに手を伸ばそうとはしない。二人は今回の冒険に崇高な目的意識を持っているつもりだが、それでも、金貨の誘惑に絶対に負けないとは云い切れなかった。冒険者として、人間の汚い部分はたくさん目にして来ている。欲に負けた時は、どんな人間だろうと予想外の行動を取ってしまうことはあるのだ。


「……よし。二人が上手くやったようだぞ」


 竜についての講義も終わり、しばらく沈黙と共に待ち構えていた二人。


 半刻ほど過ぎた頃、クレイグが浮遊塔の高度が下がり始めていることに気付いた。


 浮遊塔の下降は、まるで雲のようなゆっくりとした動きである。それでも、これまで力場を発生させていた魔力のうねりが消失した事から、独特の重低音が周囲に響き始めていた。


 加えて、浮遊塔の底が財宝の山を切り崩していく音がかなり大きい。


「予想通りとは云え、かなり響くな。竜が戻って来ないことを祈るしか――」


 パーティーが浮遊塔のある中庭までたどり着いた時、竜の姿は見当たらなかった。


 四人全員が、それを今回の冒険における最大の幸運と考えた。周囲を埋め尽くす程のアンデッドに囲まれるよりも、たった一匹の竜に睨まれる方が怖ろしいのだから。竜をどのようにやり過ごすかという一番の問題を回避できた以上、多少の無茶をしても目的を遂げるべきだ。わざわざ話し合う必要もなく、それは四人全員の共通認識だった。


 浮遊塔を降ろすという目立つ手段も、竜が不在という前提条件の元に成り立っている。


「竜は、どこに行っているのかな?」


 レンリエが素朴な疑問を口にする。


「竜は大半を住処で眠って過ごすそうだ。自分で集めた金銀財宝と共に眠る事が、竜の至福なのだとか――ここにいないという事は、おそらく狩りの時間だろう。廃王国という自分の縄張りを見回っている可能性もあるが……城下町では姿を見かけなかった。やはり狩りのため、遠くに行っていると考えるべきだ。どこかの国が今まさに襲われているのだとすれば、その国の人々には申し訳ないが、俺たちには都合が良い」


「ええ、そうね。でも、そんな偶然があるかな……?」


 廃王国を根城とする竜が、近隣諸国を襲撃し、財宝をさらにかき集めようとする事はもちろんある。ただし、それは年に一度だけやって来る大嵐のようなものだ。竜は長命な生物であるためか、小動物のように活動的ではない。そもそも廃王国という縄張りから出て来る事が滅多になく、時には数年間も人間の前に姿を現さないこともあった。


 果たして、年に一回あるかないかというタイミングが、今――。


 レンリエはここに来て、竜が不在である事に疑問を感じ始めている。


 最初は運が向いたと思った。しかし、それは冒険者がやってはいけない事ではなかったか。偶然に頼るな、運に任せるな。最悪の事態を想定しろというのは、他でもないクレイグの教えである。レンリエは土壇場になって迷いに取りつかれていた。


「……ねえ、クレイグ」


 レンリエの勘が働いたのと、状況が最悪の方に傾き出したのは同時だった。


「まさか! そんな阿呆な事が……畜生め!」


 さすがのクレイグも、平静さを失って罵声を発する。


 津波が起きていた。黄金の海原に。


 浮遊塔の底が衝突して起きた波ではない。浮遊塔はまだ高い位置にある。


 まるで地震のようだ。


 揺れは、財宝の底から来ていた。


「財宝と共に眠るとは、そういう事か! 文字通りか、この怪物め!」


 黄金の山々が砕ける。黄金の海原が割れる。


 無数の金貨が宙を舞い、色とりどりの宝石が太陽の光を乱反射させる。


 世界一豪華で美しい景色の中から、ぬるりと這い出してくるもの――深緑の鱗は、きらびやかな黄金と比較して、地獄のような黒色にも見える。深紅は、その裂けた口。そこらに散らばる数多の宝剣よりも、遥かに立派で大きく、鋭い牙が並んでいた。


 財宝という至上のベッドに潜り込んで、それは眠っていたらしい。


「竜、本物の……」


 呆然と見上げるレンリエを、クレイグが突き飛ばすように柱の陰に押し込んだ。


 息を殺す。心臓も止めたいぐらいだった。絶対に、悲鳴は上げられない。


 浮遊塔の異変に気付いてか、竜は目覚めてしまった。


 だが、こちらの存在にはまだ気付かれていない。


「馬鹿か。俺たちは――」


 最善の選択のつもりが、これ以上ない窮地を作り出してしまった。


 竜が叫ぶ。そのたった一声が、地響きを生んだ。


 深緑の鱗が逆立ち、薙いだ爪が城の柱をへし折る。空にも届かんばかりの大翼。爬虫類に似た目玉は殺気と共に見開かれている。眠りを邪魔されたか、宝を狙う侵入者を警戒したか――どちらにしろ、目に留まった生き物は全て殺し尽くすと云わんばかりの形相である。


 人間の戦える相手ではない。


 誰だろうと、一目でそれがわかる。


 ここに万の軍勢が居たとしても、何ができるだろうか。剣だろうと槍だろうと、世界で一番頑丈な竜鱗には通らない。数千の矢を放ったとして、砂粒をかけるようなもの。油を撒いて、火を点けてみるか。だが、竜のブレスは鋼鉄すら一瞬で溶かすのだ。そんな風に己で生み出した火の海を、竜は平然と進むらしい。


 何もかも、規格外。


 生物として、存在のステージが違った。


「どうするの、クレイグ?」


 柱の陰に隠れたまま、レンリエはクレイグの腕を掴んでいた。


 どうにか小声に抑えているものの、恐怖の感情までは隠せていない。


「黙れ。口を開くな!」


 クレイグはレンリエの手をさらに強く掴み返していた。


 竜の爪や牙、ブレスに対しては、柱の一本、何の意味も持たないだろう。まったく頼りにならないものを盾にしながら、クレイグとレンリエは捕食される側の生き物として隠れている事しかできない。これまで様々なモンスターと対峙し、窮地を潜り抜けて来た経験を持つクレイグだったが、竜を相手にするのは初めてだ。そして、このようなどうしようもないレベルの恐怖を感じるのも初めての事だった。


 逃げなくてはいけない。


 こちらの居場所がバレていない内に、早く――。


 逃げるしかない。それしか手がないことは子供でもわかる。


「だが、しかし……畜生め!」


 クレイグは声を必死に抑えつつも、激昂した感情を吐き捨てるのをやめられなかった。


 ここまで来た。


 ここまで、ようやく来られた。


 十五年である。


 あの夜から、十五年も経ってしまった。


「……クオン、すまない」


 今も、たった一人で最終決戦に送り出された少年のことを想う。これまで想わない日はなかった。クレイグのような汚い大人が生き残り、夢と希望を抱いて未来を担うはずの少年は帰らなかった。弔うこともできないまま、十五年――。一言、亡骸の眠る墓標に詫びることもできないまま、十五年――。そして、彼が命をかけて守ってくれたはずの平和は壊れようとしている。もはや、顔向けすらできない。クレイグは己の不甲斐なさを、あの夜も、今も、激しい痛みとしてその胸に感じ続けていた。


 世界は再び、勇者の剣を必要としている。


 クレイグはしかし、それ以上にクオンを皆の元に連れ帰りたかったのだ。


「俺ではダメなのか」


 この十五年、様々な形で挑戦してきた。


 ここまで来られたのは初めての事である。


 チグハグなパーティーであるけれど、一年以上の付き合いで十分な信頼が生まれていた。下準備も入念に行った。次があるとして、同じだけのものが用意できるか。それに、クレイグ自身の年齢の問題もある。既に全盛期の頃のような身体のキレはない。アンデッドに囲まれても、平気で突破できるのは何歳までだろうか。この気概はいつまで続いてくれるのか。


「クレイグ」


 レンリエが優しい手つきで、クレイグの背中に触れた。


「わたしが囮になる。その隙に塔まで進んで」


「なにを、馬鹿なことを――」


 クレイグは何を云われたのか、まともに考える暇もなくレンリエの方を振り返る。そして、ハッとした。彼女が本気の眼でこちらを見ていたからだ。芯の強い眼差しには覚えがある。自分の決意を絶対に曲げず、傷付くことを恐れない。クレイグは一瞬、そこに幻を見るかのような気分になった。


「パパ。一人ぼっちのわたしを育ててくれてありがとう」


 クレイグはレンリエの育ての親である。


 クレイグには昔、若い妻がいた。残念ながら、二人の間に子供はできなかった。乳飲み子のレンリエを連れ帰った時、妻は自分に子供ができたかのように喜んだ。しかし、身体の弱かった彼女はレンリエが物心つく頃に亡くなってしまい、クレイグは結果として幼子を冒険者稼業に連れ回すようになった。


 まっとうな育て方はしていない。


 むしろ、血と欺瞞の人生しか与えられなかった自分を恨んでくれてもいい。クレイグは心の底からそんな風に思っていた。慰めは、彼女が立派に育ってくれた事だけだ。それだけが唯一、クレイグの贖罪にもなっている。


「そろそろ、親孝行してほしい歳でしょう?」


「冗談を云っている場合か。お前が囮になんて――」


 クレイグはレンリエの腕を、強く、それこそ必死に掴んでいた。


「大丈夫。クレイグよりも、私の方が身軽だから。竜の攻撃もきっと避けられる。別に死ぬつもりなんかない。城内に入ってしまえば、竜はあの巨体だから簡単には追いつけないだろうし……」


「馬鹿な。ブレスで城の一角ごと溶かされるのがオチだ。いや、そういう問題ではなく――」


 クレイグは歯噛みした。


 思わず、これまで口に出さなかった事を口走る。


「お前がいなければ、誰が剣を抜くんだ」


「……え?」


 レンリエが戸惑いの声を漏らした瞬間である。


「クレイグさん、レンリエちゃん」


 柱に身を隠したままの二人に、静かに忍び寄って来ていた者が声をかけた。


「シャーリーさん?」


「戻ったか。……待て、それはどうした?」


 魔王城の地下にある魔力板を制御し、浮遊塔を降下させるという役目が果たされた事は、現状を見れば明らかだ。バドンとシャーリーの二人がこの場に戻って来るのも当然である。ただし、やって来たのはシャーリーだけである。そして、彼女の衣服は血で赤く染まっていた。


「まさか、竜が……ああ、なんて怖ろしい……」


 地下から上がって来る間にも、竜の吠え声は聞こえていたに違いない。それでも、実際に目にした時の迫力は桁違いだ。シャーリーは柱の陰から竜を垣間見て、さすがに普段のマイペースな調子を失っていく。青ざめ、身体を震わせる彼女の様子は、しかし、竜に対する恐怖だけが原因ではないようだ。シャーリーは、なにか別の所でもパニックを起こしかけていた。


 既に、最悪の状況――。


 最悪に、さらに最悪が重なったことを、クレイグとレンリエは予感する。


「アンデッドに不意打ちされて、バドンさんが私をかばって深手を……」


「あの馬鹿め。らしくない事をする」


 女を守るために盾になるなんて、バドンのイメージではない。女を盾にしてでも逃げるというのが、彼の本来の持ち味である。クレイグは悪態をつくものの、一方で、バドンに対する評価を少しだけ修正していた。いざという時には男気を発揮できたのか。そんな風に感心する一方で、もはや撤退しか選択肢が残されていない事にも気付いていた。


「レンリエ、いいな?」


 バドンが負傷した状況では強行突破はありえない。


「うん、クレイグ。ここは帰ろう」


 先程までの雰囲気がけろりと消え去っているレンリエ。いつもの笑顔でうなずく。


 クレイグは苦虫を噛み潰したかのような表情になり、それから改めてシャーリーに向き直る。


「バドンはどこに?」


「どうにかこうにか、近くまでは連れて来ました。でも、竜に見つかってしまいそうで、ここまではさすがに……。バドンさんは小さいし、軽いですけれど、私の力では限界でした。ごめんなさい」


「大丈夫だ、気にするな。俺が迎えに行こう。レンリエはここで待機しておけ。すぐにバドンを連れて戻ってくる。四人揃ったら、竜に見つからないように退却する」


「ありがとうございます。バドンさんの所まで、私が案内します」


 シャーリーが先を行き、クレイグがその後に続いた。もちろん、二人は竜に決して見つからないように、細心の注意を払っている。バドンの怪我は当然危惧すべきものだが、竜はそれ以上である。竜に襲われれば、バドンだけでなく、パーティーが全滅するだろう。


 二人の離れていく様を見守りながら、レンリエは柱の陰から竜の様子も警戒していた。


 竜は財宝の山から離れるつもりはないようだ。


 降下し続ける浮遊塔を時折ギョロリと睨みつつ、どこからか不届きものがやって来ないか、竜は万全の体勢で待ち構えている。だが、現状維持というのは悪くない。竜が積極的に周りを破壊し始めたら、レンリエは隠れていられない。もちろん、クレイグ達もすぐに見つかってしまう。このまま竜が警戒を続けて、その間にパーティーが合流し、静かに撤退できたならば――。


 レンリエは不意に、そんな簡単に行くだろうかと疑問を覚えた。


 また、である。


 嫌な感覚が、背筋をスッと走る。


「なにか、違和感が……」


 レンリエは、既に遠ざかったクレイグとシャーリーの方を振り返った。


 今さら声をかけるには遠すぎる。それに、レンリエ自身も何に嫌な予感を覚えたのか、わかっていない。竜の動きを警戒するしかないレンリエは、不安な表情を浮かべながら、彼らの無事を祈った。


「シャーリー、あとどれくらいだ?」


「すぐそこです。急ぎましょう」


 クレイグは焦りの色を見せるが、シャーリーの声は静かだ。どうやら落ち着きを取り戻したらしい。じりじりと焦がれるようにして、二人は進んで行く。竜は相変わらず猛っている。途方もない吠え声に身体がびりびりと震える中で、二人は悲鳴を呑み込みながら地下へと続く階段に飛び込んだ。


 最初の踊り場に小男が倒れていた。


 地下に続く階段であるから、窓はない。長らく放置されている場所であるから、松明が灯っているはずもない。非常に暗い場所だったが、それでも血が流れているのは見て取れた。


「バドン、大丈夫か?」


 クレイグはすぐさま駆け寄る。


 一瞬、バドンとシャーリーを襲ったというアンデッドを警戒したものの、地下階段は静かなもので、モンスターの気配は感じられなかった。


「だ、旦那……」


 バドンはちゃんと生きていた。


 クレイグは応急処置をするため、傷口を探した。抱き起した体勢では、どこにも異常は見当たらない。すぐさま掌にぬるりと血の感触があることに気付いた。背中に刺し傷がある。つまり、バドンは背後から攻撃を受けたらしい。


「き、気をつけ――」


 バドンが、なぜか必死な様子で喘ぐ。


「うし、ろ……」


 アンデッドの不意打ちからシャーリーをかばい、バドンは傷を負ったはずだった。


 しかし、問題のアンデッドの姿は見当たらない。シャーリーが魔法で倒したのだろうか。それにしては、魔法を使った痕跡もない。そして、バドンは背中に刺し傷を受けている。他人を守るために負った傷と云うよりも、まるで自身が不意打ちを受けたかのような傷だった。


 クレイグは気付く。


 だが、遅かった。


「ようやく、あなたを殺せます」


 瞬間的に身をひねったものの、完全に避ける事はできない。


 シャーリーはまるで背後から抱き着いて来るかのようだった。実際は、体当たりに近い。ドンと勢いよく衝撃が走り、それと同時に突き出されたナイフがクレイグの脇腹を深く切り裂いていた。

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