歯形話
きっと甘い味がする。
長く細い脚だ。曲線美というのは、こういう脚に対しての言葉なのだろう。
ただ細いばかりではなく、均整のとれた肉付きに艶やかさがある。太ももの付け根の逆三角など、見ているだけでどうにかなりそうだ。
既に、彼女はどうにかなっていた。
付け根とはつまり、局部と太ももの間にある溝だ。溝というのもおこがましいほどの浅さではあるが、彼女にとって官能的な耽美であるのには間違いない。
蘇我屠自古はその溝に舌を這わせていた。甘い蜜に酔う童女のように蕩けた表情は、普段の彼女からは想像も出来ない。
下から上、上から下。真ん中で止まって、舌を小刻みに動かしたり、めり込ませたり……当然顔も動く。
すると額、鼻、頬に、脈打つそれが当たる。なまめかしくべたりべたりと、動く度に貼り付くように、何度も何度も……。
その度に舌の動きは激しくなり、屠自古の表情は溶けて蕩けて、内側の筋肉も骨も脳ですらどろどろに形を失い、己が消えてしまいそうな感覚に陥りつつも、恐怖は欠片もなかった。
ただひたすらに、甘美に快楽に味に酔っていた。そう酔っていたのだ。
曲線美の持ち主である彼は、くすぐったさに時折声を漏らしながら、屠自古が落ち着くのを待っていた。
このような状況になったのには、もちろん理由がある。
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屠自古は買い物に出掛けていた。家事を終え、これといった予定もなかったので気晴らし暇潰し……のつもりだったが、人里の商店街は活気があり、食品、日用品、雑貨、玩具、化粧品、どこぞの古道具屋を真似たか外の世界のがらくたを扱っている店まであった。
混雑とまではいかないがたくさんの人――妖怪や霊もいるが――で賑わっている。
屠自古の財布の紐は固い。が、商人の呼び声や屋台から漂う焦げた醤油の甘辛い香りなどに、ほんの少しくらい緩むことはある。
とはいえ基本的に冷静な彼女は、まず一通り見て回ることにした。
この辺りに来るのは初めてだが、いつもこのように賑わっているのだろうか。それとも何か催し物でも開かれているのだろうか。
夕飯の買い物に不自然な時間帯ではないし、目につく食料品は安い物が多かった。祭りほどの混雑さもないから、恐らく前者だろう。
そう結論付けた屠自古の足……動きが止まる。目についたのは雑貨屋の店先に並んだ弁当箱である。
同居人の布都は欲求に素直だ。小遣いを持って、街中を歩き、お腹が空けば、買い食いを躊躇わない。
一応布教や勧誘をしているのだから、小遣いをやるのも買い食いをするのも構わないのだが、少しは金を貯めれるようにもしてやりたい。
なら出掛ける前に弁当でも渡してやれば……何だかんだと屠自古は面倒見が良い。
竹製で模様も飾りもない素っ気ない弁当箱だが、そこそこの大きさ、付属された箸と弁当鞄、そして何より値段が気に入った。
素っ気ないで文句をいう布都ではないし、竹皮で包んだおにぎりよりかは華がある。
これでいいな。これにしよう。屠自古の白い手が弁当箱へと伸びていき、指先が触れようかという時であった。
ピタッ、と屠自古の手が止まる。躊躇ったり考え直したのではない。何かに当たって止まったのだ。
それは屠自古に負けず劣らずの白くしなやかな手であった。屠自古は綺麗な手だと思った。
どうやら同時に弁当箱へ手を伸ばして、寸前でぶつかってしまったらしい。
「あ、失礼しました」
と普段の屠自古ならいうだろう。だが言葉が出なかった。
綺麗な手。その感想を機に屠自古の全身を駆け巡るものがあった。
雷にも勝る衝撃である。そしてその衝撃は、快楽という形で屠自古へ襲い掛かった。
「~~~~~~っ!?」
身に走る快楽が口から漏れぬよう必死に片手で口を閉じた。訳がわからなかった。一体自分の身体に何が起こっているんだ。
思考する余裕はない。ただ頭を綺麗な手が反復する。浮かんでいられない。よろよろと地に落ちる。
「大丈夫?」
大丈夫に見えるのか。心の中で悪態を唱えて顔をあげる。
美しい人がいた。
これが彼と屠自古の邂逅である。
「ああ、大丈夫。ちょっとよろめいただけだ」
不思議なことに、屠自古は正常に戻っていた。いや正確には耐えれるようになっていた。
未だ身体を快楽が巡っているが、何故か彼の言葉にはちゃんと反応が出来たのだ。
ふわりと浮かぶ。屠自古に目線を合わせていた彼も立ち上がり、ぱっぱっと膝を払った。
屠自古が美しいと思ったのはそれだ。倒れた屠自古を見て、地面に躊躇いなく膝をついたその所作に心を貫かれたのだ。
「あの弁当箱、買うならどうぞ」
「いいの?」
「どうしてもあれじゃないといけない、という訳じゃないから」
「そう……ありがとう」
布都には竹皮で包んだおにぎりでも持たせよう。玉子焼きと漬物でも付ければ文句はいわないだろう。
「その代わり――」
「ん?」
弁当箱を手にした彼へ、屠自古は自然に、とてもとても自然にいった。
「一緒にお茶でもしないか?」
屠自古の理性は自分がやってることを理解していなかった。快楽への対処で精一杯といえばそれまでだが、理性のない屠自古がこんな者だとは到底思えない。
まず、初対面の相手にこんな砕けた口調は使わない。屠自古を知った者が見れば違和感を覚えるであろう。
「いいよ」
彼は断らなかった。この後予定はないのだから当然だ。
了承を受けた屠自古の口元がほんの少しだけ緩む。単純に嬉しいからだ。彼とお茶が出来ることも……“初めてのナンパ”が成功したことも……。
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ぬらぬらと艶かしくテカっている太ももは屠自古の唾液によるものだ。
産毛すらないツルツルの白い脚に舌を這わせ、唾液を粘りつける。
舐めるよりそちらが目的かもしれない。己の何かで彼を染めたいのだ。屠自古はたまたま唾液を選んだだけだ。
どこにそんな水分があるのか……亡霊には関係ない話か。
しかし、やはり付け根からじっくりとねぶっているらしい。側面に寝転がった彼の腰から膝へと、吸い付き、水音を立て、時に歯形を残して移動している。
存分に濡らして満足したかと思えば膝……曲げた膝の骨と、程好い弾力をしたふくらはぎ、その隙間に舌を挿入するのが堪らぬ快感だという。
正座する彼の膝裏に指を突っ込んだりする者は多い。何か特別な気を発しているのかもしれない。
ふくらはぎを濡らし、足首、足裏、足の甲、足指の一本一本が屠自古の唾液に染められるまでそう時間は掛からないだろう。
彼女の、足への執念には、凄まじいものを感じる。霊体となって形を無くした己の足への未練か……それとも単純な性的嗜好か……。
後者だとしても、それは彼の足に限定される。他の者の足を舐めるなど屈辱の極みだ。
淡く甘い声がする。くすぐったさから彼の声が漏れたのだ。
ピタッと屠自古の舌が止まった。上目に彼の顔を覗く。きゅっと結んだ口に胸が弾んだ。
屠自古の濃緑色のワンピースも、札の貼られた烏帽子も、部屋の端へと投げられている。屠自古が身に付けているのは下着だけだ。
下着といってもさらしに褌であるが、実はこれは誤算であった。彼に会うのがわかっていれば、“黒くきわどい”やつにしていたのだが、今回は出逢いが突然過ぎた。
こういう状況に至っているだけでも幸運というものだ。
屠自古は彼の背後に回ると、豊満な胸が潰れるほど彼に密着し、霊体の足を彼の足へと絡めた。
霊体は冷たいというイメージがあったが、屠自古には充分な体温があった。もっとも、彼女の霊体らしい部分といえば、太ももの中腹から先だけだ。
肌の白さとは異質の白さ。濃いようで淡く、透き通っているかと思えば遮っている。透明な時、半透明な時、ただ白い時と変容が激しい。
きっと屠自古の精神状態に左右されるのだろう。
今彼に絡み付いているように、触ることは出来る。実体があるのだろう。その為か、幽霊らしく物を通り抜けたりは出来ない。
実体があるというのはつまりそういうことだ。そしてそうなって良かったと思う。
そうでなければ、彼との接触は有り得なかったかもしれないのだから。
屠自古の足は決して冷たくなかった。むしろ熱いくらいだ。単純に興奮して体温が上がっているのか、感情に左右されやすいのか、どちらにせよ屠自古が昂っているのは確かだ。
「なあ知ってるか」
「ん?」
吐息に乗った囁きが彼の耳へと吹きかかる。身体の熱に比べると落ち着いた、穏やかな声だ。
「初めて会った時も、こうして、こうして、こうして……汚してやりたかったんだ」
「汚くないよ」
即答。心情の懺悔というよりは、欲望の吐露であろうか。
前者だったなら彼の即答に屠自古は涙を流していたかもしれない。
だが後者であった今回は、屠自古の情欲を更に高めてしまった。
首と唇が、背中と胸が、尻と股が、脚と足が、更に密着し絡み付く。
「バーカッ」
「んっ」
照れ隠しに悪態をついて首筋へと歯を立てる。甘噛みほど優しくはないが、血が出るほど強くもない。
しかし歯形はしっかりつく。歯形から歯並びの良さがわかるほどしっかりした痕だ。
屠自古は彼に噛み付くのが好きだ。唾液で濡らすのもそうだが、何か証を彼に残したいのかもしれない。
性癖なのか、おまじないなのか、宣戦布告なのか、理由は不明だが、初めて会ったあの時の、喫茶店での行動が影響しているのは間違いない。
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屠自古が談笑の途中でテーブルの下に潜り込んだのは、“わざと”フォークを落としたからだ。
拾おうとしていた彼を制して、彼の足元の方へ這いずる。屠自古の視線はピッチリとしたジーンズから、くっきりと形が浮き出たふくらはぎに釘付けであった。
見付からないなどと演技をしながら、ゆるりゆるりと彼へ近付くつもりだったのだが……まあきっと仕方ないのだろう。
普段なら我慢も自制も利くが、今はダメだ。先程からずっと身体を巡り続けている快楽が屠自古の理性を阻害している。
屠自古は彼の靴に手をかけた。博麗の巫女と同じ靴だったが、霊夢の足下に注意を払ったことのない屠自古が、それに気付くはずがなかった。
少女らしい可愛い靴だと思いながら、踵を持って器用に脱がす。白い靴下をじわじわと両指でずり下げて、なだらかな甲、ぷくりと膨らんだ踵、土踏まずの曲線、そして整った足の指をなぞるように……。
彼の片足が晒された。無論彼に抵抗や疑問はない。他にも客がいるこの喫茶店内においてもだ。
気付かれている様子はないし、今のところ他者に迷惑もかけていない。それとも、そんなことも関係なく相手の行為にひたすら応えるつもりなのか……とにかく彼はいつも通りだ。
屠自古は彼の足を片手で支え片手で撫でた……というか、まさぐっているのか、くすぐっているのか、足首から先の様々な箇所を指でなぞっている。
その動きが止まると、次は足指へと屠自古の口が近付いていく。
跪いて足を舐めようとしているのだ。一見すれば惨めだが、彼女にそのような感情は欠片もない。
どちらかといえば加虐心で動いている。
舐める、ねぶる、噛む、かじる。唾液で染めて歯形を付ける。指から徐々に、上へ上へと、私の物だと証を残す。
彼が抵抗したならば、凌辱となるのだろう。そうこれは“行為”だ。
そして、ちゃんとした“行為”に至るまで時間はかからないだろう。ここが喫茶店であることを屠自古が忘れているのだから。
しかし、屠自古はそれを思い出せた。
大きく口を開け、親指を含もうとした瞬間、聞き覚えのある声が耳に届いたからだ。
「おや? 貴殿確か……そうだ博麗神社でお会いしましたな?」
屠自古は焦っていなかった。靴下と靴を履かせるのに数秒しかかかっていないのだから間違いない。
「そうであろう? そうであろう?」
スプーンを拾うとテーブル下から這い出て、こちらに気付く様子もなく彼に話し掛けている“友人”に一言。
「よお」
「うひぇあ!?」
跳ねた背中と笑いそうになる奇声に対しあくまでも冷静に、こちらを向いて、
「何故屠自古が!?」
と更に驚く布都の疑問には一切答えず、
「無駄遣いすんなよ。すいませーん」
といって店員を呼ぶ。新しいフォークを貰うつもりだ。
わーわーと何か布都が屠自古に話し掛けているが、耳には入れていない。全て聞き流している。
布都に見付かったのだ。家に帰るまで付きまとわれるだろう。これでは彼を部屋に連れ込んでも、何も出来ない。
別に布都に見られてようが構わないが、自身の心情とモラルは別物だ。
観念したのか、空腹に耐え兼ねたか、それとも彼に誘導されたか、布都は彼の隣に座ってメニューを開いた。
二人でメニューを見ながら、布都の相談に乗って談笑している様は姉妹のようだ。
気が削がれた。身体を巡っていた快楽も鳴りを潜めてしまった。
意外にも悪い気はしていない。むしろ上機嫌だ。
それは楽しみが出来たから……次会う時、きっと屠自古は存分に彼の足を貪るのだ。
「……随分機嫌ようだの……何かあったのか?」
布都の質問に、彼は首を傾げた。
多分デートの続き。




