エピローグ 誰にも憎まれなかった悪役令嬢
その夜、眠れなかった。
眠れない理由は単純で、興奮しているからでも、怖い夢を見そうだからでもない。眠るべき「明日」が、どこにも用意されていない気がしたからだ。
断罪は延期され続け、ついに理由が輪郭を持った。
理由が輪郭を持った瞬間に、延期はただの延期ではなくなった。
――このままでは、永遠に始まらない。
それは希望ではない。救いでもない。
ただ、構造が壊れているという事実だ。
わたくしは夜更け、部屋を出た。
侍女たちは眠っている。廊下に灯る明かりは最小限で、石の冷たさが足裏から伝わってくる。夜の城は昼よりも正直だ。人の目がない分、沈黙が沈黙として存在する。
王太子の執務室には灯りがあった。
扉の前に立つと、胸の奥が少しだけ重くなる。わたくしは、これまで何度も彼の前に立ってきた。婚約者として、悪役として、役目を演じる者として。
だが、今夜は違う。
役目の台詞ではなく、自分の言葉を言いに来た。
ノックをすると、すぐに返事があった。
「入って」
扉を開けると、王太子は机に向かっていた。書類の山。開いたままの地図。燭台の火。彼は忙しい。忙しいふりではなく、本当に忙しい。止まった正義を動かすために、彼は何かを考え続けているのだろう。
わたくしに気づくと、彼は立ち上がった。
「こんな時間に、どうした」
声は穏やかだ。だが、目は疲れている。わたくしは礼を取らず、ただ一歩だけ室内に入った。
「殿下に、お伝えしたいことがございます」
王太子は少しだけ眉を寄せる。
それは警戒ではない。覚悟を決める仕草だ。誠実な人は、大事な話をするとき、逃げない。
「聞く」
わたくしは、息を整えた。
言葉は、ずっと喉の奥にあった。延期のたびに溜まり、善意のたびに押し戻され、代役の失敗で固まり、今日、書庫の記録で決定的になった言葉。
「わたくしは、悪役として死ぬ覚悟がありました」
王太子の目が揺れる。
反射的に否定したくなるのが分かる。だが、彼は口を挟まなかった。
「それが、この物語における、わたくしの役目でしたから」
言い切った瞬間、胸の中の何かが、少し軽くなった。
王太子は低く息を吐く。
「君は……役目、という言葉を、今でも使うのか」
「使いますわ」
わたくしは、静かに答えた。
「わたくしは、役目でできています。役目のために整えられ、役目のために生きてきました。殿下はそれを、軽んじていないと仰いました。ええ、軽んじてはいないのでしょう」
王太子は唇を結ぶ。
否定できないのだ。彼は善意でわたくしを守ってきた。守ったつもりで、わたくしを「そこにいろ」と留め置いた。
「ですが」
わたくしは続けた。
「殿下の善意は、わたくしの居場所を、宙に浮かせました」
言葉は鋭い。けれど、怒りの刃ではない。真実の輪郭だ。
王太子の顔がわずかに強張る。
「私は、君を傷つけたつもりはない」
「分かっていますわ」
分かっている。だから、苦しい。
「殿下は正しいことをなさろうとしている。正しい順序で、誰も傷つけず、誰も切り捨てず、誰も責めずに。ですが――それは、できない」
王太子の目が、少しだけ鋭くなる。
「君は、私の正義を否定するのか」
否定ではない。説明だ。わたくしは首を振った。
「否定しているのではありません。殿下の正義は、正しいまま止まっているのです」
沈黙が落ちる。
燭台の火が、紙の端を淡く照らす。室内の静けさが、言葉の重さを増す。
「聖女がいない」
王太子は、ようやくその言葉を口にした。声は低く、硬い。
わたくしは頷いた。
「ええ。席が空いたままです。代役も務まりませんでした。理由は、もう殿下もご存じなのでしょう」
王太子は視線を逸らした。
逸らした先にあるのは、机の上の書類だ。現実だ。責任だ。政治だ。彼はそれらから逃げない。逃げないから、目を逸らすしかない瞬間がある。
「公にはできない」
彼は繰り返した。
彼の正義が許す、唯一の結論。
「分かっていますわ」
わたくしも繰り返す。
公にすれば、哀悼は責任追及へ変わり、事故は罪へ変わり、誰かの失われた命は「政治」に取り込まれる。それをしたくないのは、誠実さゆえだ。
「だから、断罪は――」
「できません」
王太子の言葉を、わたくしが先に終わらせた。
王太子が目を上げる。
怒りではない。驚きでもない。自分の中で結論が確定してしまう瞬間に似た表情。
わたくしは、その表情を見て、静かに息を吸った。
ここからが、本題だ。
「殿下」
わたくしは、少しだけ声を落とした。
「わたくしは、断罪されたいのです」
王太子の顔が硬直する。
「……それは、死にたいということか」
「違います」
わたくしは即答した。
「死にたいのではありません。――終わりたいのです」
終わる。
その言葉には、死よりも強い意味がある。
終わりがなければ、存在は物語にならない。
「わたくしは、善人になれません。今さら、徳を積む生き方もできない。わたくしは悪役として育てられ、悪役として完成している。それは、もう変えられません」
王太子は、苦しそうに眉を寄せた。
「君は、変われる」
その言葉は、希望として正しい。
だが、わたくしの人生の文法に合わない。
「変わる必要があるのは、わたくしではありません」
わたくしは、目を逸らさずに言った。
「殿下です」
王太子は息を呑む。
けれど、反論はしない。彼は、反論すれば何を守っているのかが露わになることを知っている。
「殿下は、正しいまま立ち尽くしている。わたくしを守っているつもりで、わたくしを宙に浮かせている。だから、申し上げます」
わたくしは一歩、近づいた。
近づいても、彼は下がらない。誠実な人は、言葉から逃げない。
「謝罪は、断罪の代わりにはなりません」
王太子の肩が、わずかに揺れた。
その揺れは、怒りではない。痛みだ。
「ですが……それで、十分です」
言い切ると、室内の空気が少し変わった。
剣を置く音がしたような感覚。誰も剣を抜いていないのに。
王太子は、しばらく黙っていた。
やがて、絞り出すように言う。
「私は……君に、何をしてやればいい」
してやる、という言葉が、彼の誠実さを露わにする。彼は本気でわたくしを救おうとしている。だが救済は、わたくしが欲しているものではない。
「何もしなくて結構です」
わたくしは首を振った。
「殿下は、殿下のままでいてください。ただ――わたくしを、役目から解放してください」
王太子は、ゆっくりと目を閉じた。
それが、彼の決断だったのだろう。
口に出さない決断。
公にはしない、という決断と同じ種類の。
「……分かった」
たった一言。
けれど、その一言は、わたくしの中の何かを、確かに切った。
わたくしは深く礼を取った。
今度は、婚約者としてではなく、役目を終える者として。
執務室を出るとき、背中に視線を感じた。王太子は最後まで、わたくしを見送っていた。誠実に。正しく。
その正しさが、わたくしを殺さなかった。
殺さなかったからこそ、わたくしは生き残ってしまった。
――では、この先をどう生きる。
廊下の冷たさの中で、わたくしは初めて、そこに思考を向けた。向けてしまった。今までは不要だった思考だ。
翌日、わたくしは城を出た。
追放ではない。正式な宣言もない。
ただ、わたくしに対する「役目の扱い」が、静かに変わっただけだ。
わたくしは市井の衣を纏い、髪を簡素にまとめ、顔を伏せ気味に歩いた。街は、城とは違う音を持っている。人の声があり、匂いがあり、生活の温度がある。誰も、わたくしを知らない。
それが、少しだけ怖く、少しだけ軽かった。
市場の近くで、子供が泣いているのが見えた。小さな手で籠を抱え、足元に散った果物を前に途方に暮れている。母親らしき姿は見当たらない。
わたくしは立ち止まった。
助ける理由は、ない。
役目ではない。
善意でも、正義でもない。
ただ、目に入った。
それだけ。
しゃがみ込み、果物を拾って籠に戻す。子供は泣き止まず、鼻をすすりながらこちらを見る。
「……お姉さん、怒らないの?」
唐突な問いだった。
「怒る理由がありません」
わたくしが答えると、子供は目を丸くした。
「だって、落としたの、ぼくだもん」
わたくしは、手を止めずに言った。
「落としたからといって、誰かが怒るとは限りませんわ」
子供はしばらく考え、首を傾げる。
「……へんなの」
へんなの。
その言葉が、胸の奥に小さく刺さった。
わたくしは、ふと笑いそうになった。悪役の笑みではない。素の反応に近い何か。
籠が満ち、子供が抱え直す。服の袖で目を拭いながら、子供はぽつりと言った。
「さっきね、向こうの人たち、みんなお姉さんのこと見てたよ」
わたくしは顔を上げた。少し離れた場所で、何人かの大人がこちらを見ている。興味ではない。警戒でもない。単なる視線。
「……そう?」
「うん。でも、誰も怒ってなかった」
その一言が、妙に重かった。
誰も怒っていなかった。
わたくしは、理由もなく胸の奥がざわつくのを感じた。怒られないことが、こんなにも落ち着かない。怒られないなら、何が正しいのかが分からない。
わたくしは、子供の頭を撫でることもせず、ただ問いを投げた。
「ねえ」
子供は顔を上げる。
「もし、誰にも怒られなかったら……その人は、どうなると思う?」
子供は一瞬だけ考えた。
けれど、すぐに答えた。
「え? 生きてていいんじゃない?」
わたくしは、その言葉を受け止めた。
理屈がない。正義もない。役目もない。
ただ、そう思うという感覚だけ。
生きてていい。
わたくしは、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。理解しようとする癖が、ずっと身体に染みついている。理解し、整え、役割に当てはめてからでないと、言葉を飲み込めない。
けれど、子供はそれを待たない。
「お姉さん、どこ行くの?」
問いかけは軽い。明日のおやつのような軽さ。
どこへ行くのか。
わたくしは、答えを持っていなかった。
終わるはずだった人生が、終わらずに続いている。続くなら、行き先が必要になる。
わたくしは、しばらく黙り、それから言った。
「……決めていないの」
子供は、ふん、と鼻を鳴らす。
「じゃあさ、うちの店くる? パンあるよ。あのね、今日ね、ちょっと焦げてるけど、うまいんだよ」
焦げている。
失敗している。
でも、うまい。
その感覚が、わたくしには眩しかった。
完璧でなければ意味がない。
正しくなければ価値がない。
役目を果たさなければ存在できない。
わたくしは、そう教えられてきた。
だが今、目の前にいる子供は、焦げたパンを「うまい」と言う。
世界は、完璧でなくても回る。
正しくなくても息をする。
役目がなくても、笑う。
わたくしはその事実を、初めて手触りとして受け取った。
夕方の光が、街の石畳を淡く染める。城の夕日と同じ色なのに、こちらの夕日は温度がある。人の声が混ざるからだろう。
わたくしは、ふと、自分の足元を見た。
絞首台の石ではない。
城の回廊でもない。
ただの街の道だ。
ここには、悪役の席がない。
聖女の席もない。
観客席もない。
それでも、人は生きている。
わたくしは顔を上げ、子供の指さす方へ歩き出した。
行き先は、パン屋だ。壮大な目的ではない。使命でもない。けれど、歩き出すには十分だった。
誰にも憎まれなかったので、わたくしは今日も、生きている。
それは、赦しではない。救済でもない。
ただ、事実として、そこにある。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、
「悪役令嬢がどう逆転するか」ではなく、
「断罪そのものが成立しなかったら、何が残るのか」
という問いから書き始めました。
誰かが悪いわけではない。
誰かが間違えたわけでもない。
それでも物語は止まり、役割だけが宙に浮く。
正義が誠実であればあるほど、
決断できなくなる場面もあるのではないか――
そんな少し厄介な正しさを、静かに描いたつもりです。
この結末を「救い」と感じるか、「肩透かし」と感じるかは、
読んでくださった方それぞれだと思います。
どちらであっても、それが自然な反応だと考えています。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
月白ふゆ




