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『私は断罪されて死ぬ予定でしたが、ヒロインがやってきません』  作者: 月白ふゆ


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10/10

エピローグ 誰にも憎まれなかった悪役令嬢

 その夜、眠れなかった。


 眠れない理由は単純で、興奮しているからでも、怖い夢を見そうだからでもない。眠るべき「明日」が、どこにも用意されていない気がしたからだ。


 断罪は延期され続け、ついに理由が輪郭を持った。

 理由が輪郭を持った瞬間に、延期はただの延期ではなくなった。


 ――このままでは、永遠に始まらない。


 それは希望ではない。救いでもない。

 ただ、構造が壊れているという事実だ。


 わたくしは夜更け、部屋を出た。


 侍女たちは眠っている。廊下に灯る明かりは最小限で、石の冷たさが足裏から伝わってくる。夜の城は昼よりも正直だ。人の目がない分、沈黙が沈黙として存在する。


 王太子の執務室には灯りがあった。

 扉の前に立つと、胸の奥が少しだけ重くなる。わたくしは、これまで何度も彼の前に立ってきた。婚約者として、悪役として、役目を演じる者として。


 だが、今夜は違う。


 役目の台詞ではなく、自分の言葉を言いに来た。


 ノックをすると、すぐに返事があった。

 「入って」


 扉を開けると、王太子は机に向かっていた。書類の山。開いたままの地図。燭台の火。彼は忙しい。忙しいふりではなく、本当に忙しい。止まった正義を動かすために、彼は何かを考え続けているのだろう。


 わたくしに気づくと、彼は立ち上がった。


 「こんな時間に、どうした」


 声は穏やかだ。だが、目は疲れている。わたくしは礼を取らず、ただ一歩だけ室内に入った。


 「殿下に、お伝えしたいことがございます」


 王太子は少しだけ眉を寄せる。

 それは警戒ではない。覚悟を決める仕草だ。誠実な人は、大事な話をするとき、逃げない。


 「聞く」


 わたくしは、息を整えた。


 言葉は、ずっと喉の奥にあった。延期のたびに溜まり、善意のたびに押し戻され、代役の失敗で固まり、今日、書庫の記録で決定的になった言葉。


 「わたくしは、悪役として死ぬ覚悟がありました」


 王太子の目が揺れる。

 反射的に否定したくなるのが分かる。だが、彼は口を挟まなかった。


 「それが、この物語における、わたくしの役目でしたから」


 言い切った瞬間、胸の中の何かが、少し軽くなった。


 王太子は低く息を吐く。


 「君は……役目、という言葉を、今でも使うのか」


 「使いますわ」


 わたくしは、静かに答えた。


 「わたくしは、役目でできています。役目のために整えられ、役目のために生きてきました。殿下はそれを、軽んじていないと仰いました。ええ、軽んじてはいないのでしょう」


 王太子は唇を結ぶ。

 否定できないのだ。彼は善意でわたくしを守ってきた。守ったつもりで、わたくしを「そこにいろ」と留め置いた。


 「ですが」


 わたくしは続けた。


 「殿下の善意は、わたくしの居場所を、宙に浮かせました」


 言葉は鋭い。けれど、怒りの刃ではない。真実の輪郭だ。


 王太子の顔がわずかに強張る。


 「私は、君を傷つけたつもりはない」


 「分かっていますわ」


 分かっている。だから、苦しい。


 「殿下は正しいことをなさろうとしている。正しい順序で、誰も傷つけず、誰も切り捨てず、誰も責めずに。ですが――それは、できない」


 王太子の目が、少しだけ鋭くなる。


 「君は、私の正義を否定するのか」


 否定ではない。説明だ。わたくしは首を振った。


 「否定しているのではありません。殿下の正義は、正しいまま止まっているのです」


 沈黙が落ちる。


 燭台の火が、紙の端を淡く照らす。室内の静けさが、言葉の重さを増す。


 「聖女がいない」


 王太子は、ようやくその言葉を口にした。声は低く、硬い。


 わたくしは頷いた。


 「ええ。席が空いたままです。代役も務まりませんでした。理由は、もう殿下もご存じなのでしょう」


 王太子は視線を逸らした。

 逸らした先にあるのは、机の上の書類だ。現実だ。責任だ。政治だ。彼はそれらから逃げない。逃げないから、目を逸らすしかない瞬間がある。


 「公にはできない」


 彼は繰り返した。

 彼の正義が許す、唯一の結論。


 「分かっていますわ」


 わたくしも繰り返す。


 公にすれば、哀悼は責任追及へ変わり、事故は罪へ変わり、誰かの失われた命は「政治」に取り込まれる。それをしたくないのは、誠実さゆえだ。


 「だから、断罪は――」


 「できません」


 王太子の言葉を、わたくしが先に終わらせた。


 王太子が目を上げる。

 怒りではない。驚きでもない。自分の中で結論が確定してしまう瞬間に似た表情。


 わたくしは、その表情を見て、静かに息を吸った。


 ここからが、本題だ。


 「殿下」


 わたくしは、少しだけ声を落とした。


 「わたくしは、断罪されたいのです」


 王太子の顔が硬直する。


 「……それは、死にたいということか」


 「違います」


 わたくしは即答した。


 「死にたいのではありません。――終わりたいのです」


 終わる。

 その言葉には、死よりも強い意味がある。

 終わりがなければ、存在は物語にならない。


 「わたくしは、善人になれません。今さら、徳を積む生き方もできない。わたくしは悪役として育てられ、悪役として完成している。それは、もう変えられません」


 王太子は、苦しそうに眉を寄せた。


 「君は、変われる」


 その言葉は、希望として正しい。

 だが、わたくしの人生の文法に合わない。


 「変わる必要があるのは、わたくしではありません」


 わたくしは、目を逸らさずに言った。


 「殿下です」


 王太子は息を呑む。

 けれど、反論はしない。彼は、反論すれば何を守っているのかが露わになることを知っている。


 「殿下は、正しいまま立ち尽くしている。わたくしを守っているつもりで、わたくしを宙に浮かせている。だから、申し上げます」


 わたくしは一歩、近づいた。

 近づいても、彼は下がらない。誠実な人は、言葉から逃げない。


 「謝罪は、断罪の代わりにはなりません」


 王太子の肩が、わずかに揺れた。

 その揺れは、怒りではない。痛みだ。


 「ですが……それで、十分です」


 言い切ると、室内の空気が少し変わった。

 剣を置く音がしたような感覚。誰も剣を抜いていないのに。


 王太子は、しばらく黙っていた。


 やがて、絞り出すように言う。


 「私は……君に、何をしてやればいい」


 してやる、という言葉が、彼の誠実さを露わにする。彼は本気でわたくしを救おうとしている。だが救済は、わたくしが欲しているものではない。


 「何もしなくて結構です」


 わたくしは首を振った。


 「殿下は、殿下のままでいてください。ただ――わたくしを、役目から解放してください」


 王太子は、ゆっくりと目を閉じた。


 それが、彼の決断だったのだろう。

 口に出さない決断。

 公にはしない、という決断と同じ種類の。


 「……分かった」


 たった一言。

 けれど、その一言は、わたくしの中の何かを、確かに切った。


 わたくしは深く礼を取った。

 今度は、婚約者としてではなく、役目を終える者として。


 執務室を出るとき、背中に視線を感じた。王太子は最後まで、わたくしを見送っていた。誠実に。正しく。


 その正しさが、わたくしを殺さなかった。

 殺さなかったからこそ、わたくしは生き残ってしまった。


 ――では、この先をどう生きる。


 廊下の冷たさの中で、わたくしは初めて、そこに思考を向けた。向けてしまった。今までは不要だった思考だ。


 翌日、わたくしは城を出た。


 追放ではない。正式な宣言もない。

 ただ、わたくしに対する「役目の扱い」が、静かに変わっただけだ。


 わたくしは市井の衣を纏い、髪を簡素にまとめ、顔を伏せ気味に歩いた。街は、城とは違う音を持っている。人の声があり、匂いがあり、生活の温度がある。誰も、わたくしを知らない。


 それが、少しだけ怖く、少しだけ軽かった。


 市場の近くで、子供が泣いているのが見えた。小さな手で籠を抱え、足元に散った果物を前に途方に暮れている。母親らしき姿は見当たらない。


 わたくしは立ち止まった。


 助ける理由は、ない。

 役目ではない。

 善意でも、正義でもない。


 ただ、目に入った。


 それだけ。


 しゃがみ込み、果物を拾って籠に戻す。子供は泣き止まず、鼻をすすりながらこちらを見る。


 「……お姉さん、怒らないの?」


 唐突な問いだった。


 「怒る理由がありません」


 わたくしが答えると、子供は目を丸くした。


 「だって、落としたの、ぼくだもん」


 わたくしは、手を止めずに言った。


 「落としたからといって、誰かが怒るとは限りませんわ」


 子供はしばらく考え、首を傾げる。


 「……へんなの」


 へんなの。

 その言葉が、胸の奥に小さく刺さった。


 わたくしは、ふと笑いそうになった。悪役の笑みではない。素の反応に近い何か。


 籠が満ち、子供が抱え直す。服の袖で目を拭いながら、子供はぽつりと言った。


 「さっきね、向こうの人たち、みんなお姉さんのこと見てたよ」


 わたくしは顔を上げた。少し離れた場所で、何人かの大人がこちらを見ている。興味ではない。警戒でもない。単なる視線。


 「……そう?」


 「うん。でも、誰も怒ってなかった」


 その一言が、妙に重かった。


 誰も怒っていなかった。


 わたくしは、理由もなく胸の奥がざわつくのを感じた。怒られないことが、こんなにも落ち着かない。怒られないなら、何が正しいのかが分からない。


 わたくしは、子供の頭を撫でることもせず、ただ問いを投げた。


 「ねえ」


 子供は顔を上げる。


 「もし、誰にも怒られなかったら……その人は、どうなると思う?」


 子供は一瞬だけ考えた。

 けれど、すぐに答えた。


 「え? 生きてていいんじゃない?」


 わたくしは、その言葉を受け止めた。


 理屈がない。正義もない。役目もない。

 ただ、そう思うという感覚だけ。


 生きてていい。


 わたくしは、その言葉の意味を理解するのに時間がかかった。理解しようとする癖が、ずっと身体に染みついている。理解し、整え、役割に当てはめてからでないと、言葉を飲み込めない。


 けれど、子供はそれを待たない。


 「お姉さん、どこ行くの?」


 問いかけは軽い。明日のおやつのような軽さ。


 どこへ行くのか。


 わたくしは、答えを持っていなかった。

 終わるはずだった人生が、終わらずに続いている。続くなら、行き先が必要になる。


 わたくしは、しばらく黙り、それから言った。


 「……決めていないの」


 子供は、ふん、と鼻を鳴らす。


 「じゃあさ、うちの店くる? パンあるよ。あのね、今日ね、ちょっと焦げてるけど、うまいんだよ」


 焦げている。

 失敗している。

 でも、うまい。


 その感覚が、わたくしには眩しかった。


 完璧でなければ意味がない。

 正しくなければ価値がない。

 役目を果たさなければ存在できない。


 わたくしは、そう教えられてきた。


 だが今、目の前にいる子供は、焦げたパンを「うまい」と言う。


 世界は、完璧でなくても回る。

 正しくなくても息をする。

 役目がなくても、笑う。


 わたくしはその事実を、初めて手触りとして受け取った。


 夕方の光が、街の石畳を淡く染める。城の夕日と同じ色なのに、こちらの夕日は温度がある。人の声が混ざるからだろう。


 わたくしは、ふと、自分の足元を見た。

 絞首台の石ではない。

 城の回廊でもない。

 ただの街の道だ。


 ここには、悪役の席がない。


 聖女の席もない。


 観客席もない。


 それでも、人は生きている。


 わたくしは顔を上げ、子供の指さす方へ歩き出した。

 行き先は、パン屋だ。壮大な目的ではない。使命でもない。けれど、歩き出すには十分だった。


 誰にも憎まれなかったので、わたくしは今日も、生きている。


 それは、赦しではない。救済でもない。

 ただ、事実として、そこにある。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

この物語は、

「悪役令嬢がどう逆転するか」ではなく、

「断罪そのものが成立しなかったら、何が残るのか」

という問いから書き始めました。

誰かが悪いわけではない。

誰かが間違えたわけでもない。

それでも物語は止まり、役割だけが宙に浮く。

正義が誠実であればあるほど、

決断できなくなる場面もあるのではないか――

そんな少し厄介な正しさを、静かに描いたつもりです。

この結末を「救い」と感じるか、「肩透かし」と感じるかは、

読んでくださった方それぞれだと思います。

どちらであっても、それが自然な反応だと考えています。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


月白ふゆ

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