6
子どもの泣き声で目を覚ましたホリーは、暗闇の中、月明かりを頼りに、蝋燭に火を灯した。
「……おかあさまぁ」
泣きながら腕の中に飛び込んできた娘を、ホリーが抱きとめる。
「あらあら。また、こわい夢でも見たの?」
頭を撫でる。ダリアが、うん、とうなずく。
ミアの中で、ダリアが消えたわけではない。とはいえ、ほとんどの時間、表に出ているのはミアだ。それでもこうして、怖い夢を見たり、苦手な雷が鳴ったりしたときなど、ふいにダリアが出てくることがある。
カールとホリーは、二人ともに、実の子のように愛情を注いだ。ミアとダリアに、笑顔が増えていく。それでも、つらい体験をまったく覚えていないミアと、それらを丸ごと受け止めてきたダリアとでは、やはり、傷の深さが大きく違っていて。
時が過ぎ。ミアは、十歳になった。でも、ミアの中にいるダリアは、三歳のまま。
控え目で、遠慮がちで、甘え下手なミア。対してダリアは、泣き虫で、そして、とても甘えん坊だった。
「──ミアも、もう十歳だな」
夜も更けたころ。ワインを片手に、カールは独り言のように呟いた。正面に座るホリーが、ええ、と窓から空に浮かぶ三日月を見上げる。もうこの頃には、ミアは自室で眠るようになっていたので、寝室には、二人きりだ。たまに、怖い夢を見たとダリアが泣きながら部屋に入ってくることもあるが、それも、月に一、二回のこととなっていた。
「婚約者がいても、おかしくない年だ」
「……はい」
結局、あれからも二人のあいだに子どもはできず。養子となったミアは、女の子で。ジェンキンス伯爵家の当主となったカールには、どうしても、跡取りが必要だった。
「あの子のすべてを受け入れてくれる人が、いるのでしょうか……」
静かな問いに、カールは、思わず小さな笑みを浮かべた。同じ不安をホリーが抱えてくれていたことが、嬉しく、誇らしかったからだ。
むろん、男の子の養子を迎え入れるという選択肢もある。けれどまずはなにより、ミアを幸せにしれくれる相手を見つけたい。そしてできれば、ミアの相手は、二人の目が届くところ──ジェンキンス伯爵家の次期当主となってほしい。それが、カールとホリーの願いだった。
「実は、ルソー伯爵から、夜会の招待状が届いてね」
カールが懐から手紙を取り出すと、ホリーが、まあ、と声を上げた。
「慈善活動にも、積極的に参加なさっている方ではありませんか」
「そうなんだ。我が伯爵家も、院に寄付をしているだろう? だから是非とも、話がしてみたいと書かれていた。それで、だ。ルソー伯爵家には、ミアと同じ年の、令息がいるそうで」
「それは、つまり……」
「ああ。わざわざそのことを明記してきたのは、ミアを、婚約者候補の一人として見ているということだろう。しかもその令息は、次男ということらしい──どう思う?」
ホリーはしばらく、黙考した。
「そう、ですね……慈善活動に理解を示さない貴族もいますから。そういった家で育った子なら、もしかしたら、ミアを理解し、大切にしてくれるかもしれませんね……」
その答えに、カールは、夜会に出席することを決めた。もちろん、ホリーとミアも連れて。
そうしてミアとエディは、出逢ったのだ。
目の前で、愛する兄が。いつだって自分を一番に愛し、優先してくれていた兄が、婚約者と抱き合っている。
転んだコーリーの存在など、まるでないかのように。
嘘。嘘よ。
愕然としながら、コーリーは右手を床につき、立ち上がろうとした。そのとき、右手首に痛みが走った。
「……お、お兄様! あたし、手をくじいたみたいです……い、痛くてたまりませんっ」
怪我をしたと知れば、きっと心配してくれるに違いない。婚約者のことなど放って、走ってきてくれる。そう期待したコーリーに、エディは、
「お前の大好きなお父様に慰めてもらえばいいだろう?」
と、冷たく吐き捨てた。
目を見開き、コーリーがとめどない涙を流す。やがて耐えきれなくなったように「……お父様ぁぁぁ」と、泣きじゃくりながら、走って屋敷を出て行った。
エディは、ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「……やっと居なくなってくれたか」
見守ることしかできなかったこの屋敷の使用人たちがおろおろするなか、執事が「大丈夫でございますか?」と、不安そうに問いかけてきた。エディが苦笑する。
「大丈夫、ではないかな」
「……左様でございますか。詳しい事情はわかりかねますが、どうか、旦那様をお頼りください。きっと、力になってくださいましょう」
「ジェンキンス伯爵に、か……」
「ええ。あなたほど、ミアお嬢様を大切に想い、理解してくれる方はおりません。ですから旦那様も、奥様も、できうる限りのことはしてくださるはずです」
エディは、そうだね、と微笑んだあと、ルシンダに目を向けた。
「彼女の名は、ルシンダというそうだ」
エディの言葉に、使用人たちがざわつく。執事も驚いた様子だったが、すぐに「静かに」と使用人たちに命じ、一歩前に出て、腰を折った。
「はじめまして、ルシンダお嬢様。執事のベンと申します」
ルシンダが「ええ、ダリアから聞いているわ」と目を細めた。
「小さな頃からミアとダリアを見守ってくれて、ありがとう。ベン」
ベンは腰を折りながら「……とんでもありません」と声を震わせた。
「……私は、なにもできませんでしたから」
「医師に、なにもかもを明かしてくれたのは、あなただけ。だからわたしたちは、お父様とお母様、そして、エディに出逢えた。今も、すべてを理解したうえで、傍にいてくれる。本当に感謝しているわ」
「……感謝などされる資格は、私には……っ」
「そんなことないわ。ミアには記憶がないし、ダリアは小さいから。あなたにきちんと感謝の言葉を述べる者が、今までいなかっただけよ」
「…………っ」
頭を下げたままのベンのすぐ真下の床に、一つ、二つ。涙が落ちた。
「きみが生まれたのは、僕のせい?」
日暮れ。王都への出入口の城門が閉まる前にどうにか王都を出立した馬車が、エディとルシンダを乗せ、薄闇に染まろうとする街道を走る。
どこか痛みを伴うような声色に、ルシンダは口元を緩めた。
「わかっているのでしょう? 原因は、コーリー。誰の目にも明らかだわ」
「……いいや。僕にも充分、責任はある」
重く吐露すると、エディは、正面に座るルシンダを見た。
「ダリアから話を聞いていたと言っていたね」
「ええ」
「会話ができるの?」
「できるわ」
「ミアとも?」
ルシンダは、いいえ、と緩く頭をふった。
「あの子は、表に出ているとき以外は、眠っているから。だから中にいるときに、話し相手ができて嬉しいって、ダリアはわたしがうまれたこと、とても喜んでくれたわ」
「あの子は寂しがりやだから」
「ふふ、そうね」
「でも、いつ話を聞いたの? きみが生まれたのは、ついさっきじゃ……」
「正確には答えられないわ。気付けば、ミアの中に存在していた、という感覚だから。でも、そうね。一週間前には、もうミアの中にはいたわ」
「……一週間前」
「ミアには、幸せな記憶しか存在しない。だからこそ、コーリーの存在は、そうとうなストレスとなっていたの。それに加えて、混乱、怒り。それらが爆発して、わたしが表に出たってところかしら」
エディが、そうか、と後悔するように頭を抱える。そんなエディに、ルシンダが慈しむような眼差しを向ける。
「エディ。あなたがルソー伯爵の養子だということ、これまで教えてくれなかったのは、ミアのため?」
「……ああ。ミアにとって、ジェンキンス伯爵夫妻は、本当の親だ。そんなミアに、養子という言葉を聞かせたくなかった。万が一にも、つらい記憶が蘇るかもしれないと思って」
「優しいあなた。口付けができない理由も、ミアには話せないものね」
エディは、はは、と面を上げた。
「やっぱり、きみは知っているんだね」
「もう、何度もダリアに聞かせられたわ」
ルシンダは肩を竦めたあと、真っ直ぐな眼差しをエディに向けた。
「今度は、あなたの話を聞かせて?」
エディの人差し指が、ぴくりと動いた。
「あなたがミアを想いながら、それでもコーリーを拒絶しなかったのは、養子だから?」
「…………ああ」
「ルソー伯爵に、恩があるから。だから、ルソー伯爵が溺愛するコーリーに、なにも言えなかったの?」
数秒の沈黙の後。
「──そうだね。ここまで育ててもらったという罪悪感は、確かにあるね」
そう言ったエディの顔は、哀しそうに、歪んでいた。
エディの実母は、エディが生まれてすぐに、病弱だったこともあり病死した。そして実父も、エディが三歳のときに亡くなった。過労死だったそうだ。
哀しみにくれるエディの前に、これまで会ったことのない、現ルソー伯爵家当主だという、父の兄が現れた。
「お前を、私の養子として迎え入れてやる」
父と暮らしていたアパートにある椅子に、どかっと座ったルソー伯爵が、正面に立たせたエディに告げた。温かみも、同情もない、憮然とした声音で。
エディを引き取ったのは、単に、世間体のため。慈善活動家として知られるルソー伯爵家当主が、甥を祖父母に、まして孤児院に預けるわけにはいかなかったからだ。後にわかることだが、そのときのエディに、わかるはずもなく。
「──いいか。私には、妻と、息子と、可愛い娘がいる」
唯一の家族を失ったばかりの、まだ、たった三歳の子どもに、ルソー伯爵は、低く、濁った声で告げた。
「私の家族に迷惑をかけるな。いつも笑顔で、常に感謝していろ」
声と表情の圧に、エディの顔が強張る。
「娘の名は、コーリー。お前の一つ下だ。コーリーを一度でも泣かせてみろ。すぐに屋敷を追い出し、人買いに売り飛ばしてやるからな」
エディの身体が、小刻みに震えだした。本当に、あの優しい父の兄なのかと疑いたくなるほど、目の前にいる男が、怖くてたまらなかったから。
ルソー伯爵は、弟を毛嫌いしていた。自分より優秀で、容姿端麗な弟を。まわりからは、弟の方が人格者で、当主に向いているのではないかと、よく陰で囁かれていた。エディを疎ましく思うのも、忌まわしい弟の子どもだったからだろう。
けれど。そんな事情、幼いエディが理解できるはずもなく。エディにとってルソー伯爵は──いや、ルソー伯爵家そのものが、その日から、恐怖の対象となった。
誰かがいると、ルソー伯爵は、人格者を装う。それが妻や子どもの前でもだ。だが、エディと二人になると、ルソー伯爵は、折に触れ、脅迫を繰り返した。
その度、エディの心が、欠けていく。感情、といったものだろうか。
ルソー伯爵夫人と義兄は、決してエディと仲良くすることも、親身になることもしなかった。救いにはならなったけれど、構われない方がずっとましだと、コーリーと比較して、実感していく。
優しく。優しく。機嫌を決して損ねないように。コーリーが望む兄を、演じる。わがままも、すべて笑顔で叶えて。愛する娘がエディに懐いていくのが気に入らないルソー伯爵。それに気付いてはいたが、エディはもう、どうすればいいかわからず、ただ、人買いに売られる恐怖に、日々、怯えることしかできなかった。