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「……僕は、ミア嬢と同じなんです」
ジェンキンス伯爵は、血の気が引いたように、さっと顔を青くした。
「……まさか」
「い、いえ。虐待をされているという意味ではなく、実の子ではない、養子という点で、です」
焦って否定すると、ジェンキンス伯爵は、明らかにほっとした様子だった。優しい人だ。エディは知らず、頬を緩めた。
「僕は、ルソー伯爵の弟の子どもなんです。母は、僕が生まれてすぐに亡くなり、そして父も、僕が三歳のときに亡くなってしまいました。そんな僕を、ルソー伯爵は養子にしてくれました」
そうだ。打たれたり、蹴られたり。暴力を受けたことは一度もない。ただ、脅されているだけ。きちんと教育も受けさせてもらっているし、衣食住も、不自由はない。
(……僕は、恵まれている。育ててもらっている恩は、きちんと感じないと駄目なんだ)
コーリーは、純粋に慕ってくれているだけ。ルソー伯爵は、大事な家族を守りたいだけ。
(……僕が、僕が駄目だったんだ)
自分などよりよほど辛い目に遭ってきたミアの話を聞いたエディは、自分の置かれた状況など、なんてことない、と考えた。
そう思い込んでしまった。
「……きみは、ルソー伯爵のことを、父とは呼ばないんだね」
静かな問いかけに、エディは、しまったと動揺した。人前では、父上と呼ぶようにしていたし、ルソー伯爵にも、そうきつく言いつけられていたのに。
「エディ。どうか、私を信じてくれ。すべての子どもを救えるなんて、思ってはいない。けれど、せめて目の前にいる子どもは、助けてあげたい。救ってあげたいんだ」
ミアへの罪悪感からくる深い決意、想いなのだろうか。ジェンキンス伯爵の目は、真剣そのものだった。
信じていないわけではない。でも、救いが必要なほどの状況に置かれているとは、エディは考えなかった。
「……本当に、大丈夫なんです。ただ、ルソー伯爵には実の子がいますが、僕は、そうではありません。愛情の差が多少あるのは仕方ないですが、それが少し、寂しいと感じることがあります。でも、それだけです」
言葉にして、エディは、はじめて思った。もしかしたら、それもあったのかもしれない、と。
そんなことか。という返しがくるものと思ったが、ジェンキンス伯爵は、そうか、と重く呟いた。
「それだけ、ではないよ。愛情の差があるのは、とても哀しくて、寂しくて、辛いことだ。ましてそれが、三歳の頃からなんて」
エディは、目を丸くした。まさか、これだけのことで同情してくれるなんて、思わなかったから。
「……いえ。充分な教育も受けさせてもらっていますし、衣食住も、与えてもらっていますから……」
たどたどしく、ゆっくりと口を動かすエディ。なんだか、頭がふわふわとしている感覚だった。
「感謝と罪悪感は違うんだよ、エディ」
ジェンキンス伯爵の言葉の意味がわからなくて、エディは幼い子どものように、小首をかしげた。その様子に、ジェンキンス伯爵は、ふっと小さく笑った。
「ミアのこと、受け入れてくれてありがとう。だが、やはり無理だと思ったら、すぐに言ってくれ。これは、そう簡単な問題じゃないからね。まずは第一に、自分の幸せを考えてほしいんだ。ミアのことを隠していた私が言えた義理じゃないかもしれないが……」
「……わかり、ました。もしそのようなときがきたら、お伝えします。その代わりと言ってはなんですが、お願いしたいことがあります」
「なにかな。私にできることなら、なんでも聞くよ」
きっと、そんなときはこないだろうと確信しながら、エディは口火を切った。
「……このことは、ルソー伯爵──いえ、父上には、黙っていてほしいのです」
ジェンキンス伯爵は、え、と目を瞠った。
「このことって、ミアのことだよね?」
「はい。僕は、ミア嬢とのお付き合いを止めるつもりはありません。止めたくないんです。でも、もし父上に知られたら、反対されるかもしれません」
「……それは。そうかもしれないね」
「僕は、絶対に嫌なんです。人の痛みを理解してくれるミア嬢のことも、ジェンキンス伯爵も、夫人も、大好きなんです」
「……しかし」
ジェンキンス伯爵の迷いの表情に、エディは、席を立ち、必死に想いをぶつけた。
「僕は、あなた方の家族になりたいんです!」
お願いします。頭を下げるエディ。ジェンキンス伯爵は困ったように苦笑すると、わかったよ、と静かに呟いた。エディが、勢いよく面を上げる。
「ほ、本当ですか?」
「ああ。こんなにミアのことを想ってくれる子なんて、きっと、もう現れないだろうし。それに」
ジェンキンス伯爵はゆっくり立ち上がると、テーブルを挟んだ正面に立つエディの頭に、ぽんと手を置いた。
「こんなにかっこよくて、優しい息子ができるなんて、嬉しくて仕方がないよ」
「……息子?」
「はは、少し気が早かったかな。でも、きみがミアとの付き合いを続けるつもりなら、いずれはそうなるだろう?」
「…………っ」
エディの視界が滲む。涙がこぼれそうになるのを、唇を噛んで必死に耐える。
「だが、私はもう、そのつもりでいるよ。でも、決してそれを重圧には感じないでほしい」
「……重圧なんて、思いません。嬉しいです」
そうか。笑いながら、ジェンキンス伯爵がエディの頭を撫でる。エディの目から、耐えきれなくなった涙がこぼれた。
想い出の中にある、微かな記憶。優しかった父の温かい手を、エディは何年かぶりに、思い出していた。
優しい人がいる。優しくしたい人がいる。
愛してくれる人がいる。愛したい人がいる。
それだけで、エディの心は満たされ、強くなれた。ルソー伯爵家の息苦しさは、それでも変わらなかったけれど。
未来に、希望を持てたから、頑張れた。
それから、およそ半年後。
エディとミアは、互いの当主の了解のもと、正式に婚約をすることとなった。
それがきっかけとなってしまったはじまりは、エディとミアが婚約して、数ヶ月経ったころのことだった。
以前よりもずっと頻繁に、ジェンキンス伯爵の屋敷を訪れるようになっていたエディ。ジェンキンス伯爵の口添えもあり、二泊する許しをルソー伯爵から得られるようになっていた。
その日。昼食を食べ終えたエディは、ミアの部屋で、いつものように談笑していた。ミアが、お茶とお菓子のおかわりをお願いしてきますね、と席から立ち上がったとき、自身の足がからまり、躓いた。床に倒れそうになるミアを、エディが慌てて受け止める。ほっとしたのもつかの間、受け止めた体勢が悪く、二人とも、床に倒れてしまった。
あ。
エディは、自分の口が、ミアの唇に触れてしまったことに気付いた。事故とはいえ、はじめてのそれに、エディは思わず、頬を赤らめた。
「──エディ!」
嬉しそうな、楽しそうな口調で、名を呼ばれた。照れや戸惑いなどなく、がばっと抱き付いてきたミアに、エディは、はっとした。
「……ダリア?」
認識してくれたことがよほど嬉しかったのか、ダリアは、そうだよ、とエディの胸に頬を擦り付けてきた。
「えへへ、エディ。エディ」
ミアでは考えられないほど、甘えてくるダリア。ダリアと接するのは、これで何度目だろう。けれど、これまでダリアが表に出てくるきっかけは、恐怖だったはずだし、ジェンキンス伯爵たちも、そう言っていた。
(……ということは)
嫌な考えが、エディの脳裏を過った。
「……ダリア。きみはどうして、表に出てきたの?」
問いかけると、ダリアは、エディの胸元から顔を上げ、ぷうっと頬を膨らませた。
「エディはダリアがきらい?」
「違うよ。そんなわけない。ただ、ミアが僕との口付けに、少しでも恐怖を感じていたとしたら、哀しいなって……」
なーんだ。
ダリアは、無邪気に笑った。
「ミアはね。パニックになるぐらい、はずかしかっただけだよ」
「……そうなのか? 嫌とかじゃなくて?」
「そんなわけないよ。ミアは、ダリアとおなじぐらい、エディのこと、だいすきだもん」
ただねえ。ダリアが続けた科白に、エディは「ただ……?」と、耳を研ぎ澄ませた。
「ほんとはね、ミアも、もっとエディにあまえたいとおもってるんじゃないかな。でも、どうすればいいかわからないみたい」
「……そんなこともわかるの?」
「うーん。おはなししたことないから、なーんとなくね。そんなことより、あたま、なでて?」
「え、うん。いいよ」
実を言えば、ジェンキンス伯爵たちがいないときにダリアが出てきたのは、これがはじめてだった。ダリアが満足したように眠りについたあと、部屋からそっと抜け出し、これらのことを話すと、ジェンキンス伯爵はこう告げた。
「私たちと同じぐらい、きみのことを信用したという証じゃないかな」
そして、同じぐらい、甘えたいとかね。
ジェンキンス伯爵と、ジェンキンス伯爵夫人は、いたずらっぽく笑った。
嬉しいやら、恥ずかしいやらで。
エディはうつむき、そうですか、と小さく呟いた。
二回目の口付けは、事故や偶然などではなく。ルソー伯爵家へと帰る日の前日。夜のことだった。
「……次は、いつ会えますか?」
ぽそっと、ミアに寂しそうにたずねられて、愛しさが増して。寝台に座るミアの隣に腰掛けたエディは、またすぐに来るよ、と微笑んでみせた。
ミアが、思い切ったように、エディの手を握ってきた。顔を真っ赤にしながら。可愛くて、吸い寄せられるように、そっと口付けをした。我に返り、了承を得ていなかったことを謝罪しようとしたとき。
「エディ!」
うつむいていたミアが、顔を綻ばせながら、抱き付いてきた。おうじさまのキスだ。おうじさまのキスだ。と騒ぎながら。
「ダ、ダリア……?」
前回──三ヶ月前のことを思い出したエディは、まだ早かったかな、と反省しながら、ダリアの頭を撫ではじめた。
回数を重ねれば、きっと、大丈夫だろう。
そんな風に思っていたが、ミアに口付けをすると、必ず、ダリアが出てくるようになってしまった。流石に、困惑するエディ。
「あの、ダリア。ミアはまだ、パニックになるほど、僕との口付けは恥ずかしいのかな……?」
膝枕をしてもらいながら、ダリアが、えーとね、と口元を緩める。
「ミアはエディとキスしたきおくがないから、ずーっとはずかしいままだとおもうよ」
「…………え?」
くふふ。
ダリアは寝転がりながらエディの腰に腕をまわし、楽しげに笑う。
「うれしいなあ、うれしいなあ。ミアのしらないたのしいをしるの、はじめて。まえは、いたいとか、くるしいとか、そんなときしかでられなかったから」
「……そっか」
心からのものであろう言葉に、エディの胸が詰まる。
(ダリアは三歳、だっけ……)
ミアも、ダリアも。等しく、愛しい。その気持ちに嘘なんてない。
もう少し経てば、きっと大丈夫よ。
相談をしたら、ジェンキンス伯爵夫人は、そう言った。エディも、その通りだと思った。
最初は、手の甲から。頬。額。唇が触れても、ダリアは出てこなかった。もう大丈夫かな。そう思い、唇に口付けをする。けれど毎回、ダリアが出てきてしまう。
(これは……少なくとも外では、迂闊に口付けできないな)
時が過ぎ、ミアが、少しずつ不安を募らせていっていることが伝わってきた。どうして、口付けをしてくれないのだろうと。
そして、とうとう。
「……悪いと思っているのなら、く、口付け、してください」
言葉にしてきた。あのミアが。とても勇気のいったことだろう。馬車内は、二人きり。でも、ミアの屋敷には、きっとコーリーがいる。ダリアのまま、コーリーと会わせるわけにはいかなかったから。
「はじめての口付けは、もっと、ロマンチックなところでしたいんだ」
そう言って、なんとか誤魔化した。
もう何度もしているんだけどね。
心でそう呟きながら、ミアに届かないよう、不安にさせてごめんね、と謝罪した。




