睡眠不足と匂いフェチ
グローリアと月夜が使っている家――今日からは少女もここを使うことになるわけだが――は町の中心部からは少し離れた位置にあった。
周囲にはポツリポツリと家がある程度で、他には特に何もない。
この辺りは、町の重要人物が多く住んでいる区画でもあった。その分、他の地区と家々を比べてみると、一戸一戸の家が大きい。
中に入ろうと、扉に手を掛けて、力を入れようとして、月夜は一度止まった。
ここまでずいぶんと急ぎ足で来ていた月夜を見ていた少女としては、その行為が不思議だった。
「入らないの?」
「少し、静かにしてください」
問いかける少女に、月夜は真剣な表情で口の前に人差し指を当てる。
気のせいかもしれないが、中に人のいる気配を感じたのだ。それに、言い争うような声も微かにだが聞こえた。
この家は、グローリアがそう望んだこともあって、防音性能が高い。
だから、外から中の音を窺うためには扉にべったりと耳を当てるしかない。
必要なことであるので、食料をいれた紙袋を地面に置き、即座に扉に耳を押し当てて聴覚に集中するために目を閉じる月夜に少女は訝しげな視線を向ける。
目をつぶっているということもあり、その視線には月夜は気づかずに中の音を聞く。
家の中では、男性とハスキーな声であるためわかりづらいが女性がしゃべっているようだった。
『テメェは疲れてんだ。寝かせろ』
『ロアは一人では眠れないでしょ? なら、月夜ちゃんが戻ってくるまでボクと遊んでくれてもいいじゃない』
『良くない。眠れねぇにしても、疲れてる時にお前に付き合っていられるか』
『イケず。そんなんじゃ、そのうち月夜ちゃんにも愛想尽かされちゃうよ?』
『……そんときゃそん時だ。テメェには他人の気持ちなんて読めないしな。今のあいつがテメェのことをどう思っているのかなんて知らぬ』
『ドライだね。でも、大丈夫だよ。ボクとリラだけは絶対にロアのことを見捨てないから』
『……どうだかな。お前はテメェがつまらんと判断したら、あっさりと離れていきそうな感じもするが』
『……そんなことないよ?』
『……ハッ。信用には足らんな』
『酷いね。子供のころからずっと一緒にいるのに、信用してくれないなんて、さ』
『鬱陶しい。じゃれつくな。そして、テメェの邪魔をするな』
『やっとボクに注意を向けてくれたね?』
『…………いい加減にしろ。テメェは今苛立っている。これ以上するなら……殺すぞ』
『どうせ殺さないくせに。口ばっかりなんだから』
扉越しに殺気が伝わってくる。
直前の声音から言って、グローリアが尋常じゃないほどに苛立っているのは確実だろう。
帰還する道中ではグローリアはほとんどずっと不寝番をしていたから、疲れているのは当然と言えば当然だろう。
だが、家の中でどんなことが起こっているのかは把握できた。
これならば、問題なく中に入ることはできるだろう。
……早く入らないと、中が血でデコレーションされることになるだろうが。
「旦那様。今戻りました」
ギリギリギリギリギリギリギリギリギリギリ。
月夜が帰宅を伝えても、グローリアはそちらに見向きもしない。
いや、気づいてすらいないかもしれない。圧迫音は止む気配がない。
「ね、ねぇロア? こ、このままだとボク死んじゃうかなぁって、思うんだけど……?」
「…………」
片腕で女性の頭を掴みながら、持ち上げているグローリアはそんな女性の言葉をまるで聞いていない。
それどころか、その言葉を聞いた直後から手に込めた力を強めたようだ。
女性の顔が見る見るうちに真っ赤になっていく。
もう女性の頭から聞こえてくる音は、圧迫音を通り越して、破砕音に変わりつつある。
どれだけの力をこめているのか、想像ができない。
「ロ、ロア! 月夜ちゃんが来たよ!」
「……月夜?」
振り返って月夜の姿を見とめたグローリアは女性の頭から手を放す。
地面に腰から落ちた女性は腰のことなど気にも留めずに、頭を押さえ、奇声をあげながらビタンビタンともんどりうっている。
「おかえり」
「はい。ただいま帰りました。それと……申し訳ありません。旦那様がお起きするまでに料理を作っておこうと思っていたのですが……」
「良い。まずもってテメェは寝てない。少し休むから、こいつの相手を頼む。それと、飯ができたら呼びに来い」
「はい。かしこまりました」
月夜の返事を聞いたグローリアは奥の扉から家の奥に入って行ってしまった。
取り残される形となった、月夜はとりあえず、荷物を台所に運び入れる。
運び入れた後で、動かなくなった女性に声をかける。
「プリスさん。大丈夫ですか?」
ツンツンと突っついていると、女性はゆっくりと立ち上がると、首をグルグルと回しながら口を開く。
「月夜ちゃんありがと。あのままだったら、私本当に死んでるところだったよ。ま、死の危険と言うのもたまにであれば面白いけどね」
ケタケタと女性は愉快そうに笑う。
女性はプリス・リヒターと言う名前だ。
上は薄手のシャツにカーディガン、下はぴっちりとしたズボンをはいている。その二つはスラリとした肢体をしているプリスにはよく似合っていた。左腕の二の腕に黒のスカーフを巻いている。そのスカーフには白で雲と雲の間から太陽が出ているようなイラストが描かれている。灰色のセミロングの髪をしていて、その頭の上には狼のような耳がついている。腰からはモフモフの毛並みのいい尻尾が出ていた。
この家に普通に入っているところからもわかるかもしれないが、グローリアや月夜が所属している《セレーノ》のメンバーだ。
グローリアとは違うベクトルで面倒な性格をしていて、ギルドに所属しているのに、特に何をしているというわけでもないので、ギルド創立当初からいるメンバー以外は、彼女がどんな立場なのかよくわかっていない。
「それにしても、酷いと思わない? 予定よりも一週間も遅れて、ボクを寂しくさせておきながら、構ってくれないなんて」
「申し訳ありません。旦那様もお疲れなのです。今回は予定にない戦闘がいくつかありましたし、ほぼ休みなく急いで戻ってきましたからね」
「へぇ、そうだったの」
プリスは全く興味がないと言うように、気のない返事を返す。
この快楽主義者は過ぎたことには目をやらない。
過去が運んでくるのは郷愁と空しさ。
プリスが好む、狂うような愉快さは運んでこないから。
そのことを月夜も知っているから、深く何があったのかなんてことは話さない。蛇足であるし、時間の無駄だからだ。
きっとプリスはグローリアから直接聞かされるのなら、聞くのだろうから、月夜から言うようなことはない。
月夜には他にもしなければいけないことがいくつもある。
直近では食事の手配だ。グローリアは遅れても特に何もいないだろうが、自分の主を待たせると言うことを月夜自身が我慢できなかったのだ。
「……さっきの何なの? あんなのが日常なの?」
「そうですね。血が出ないなら、ある程度の武力行使はこのギルドでは珍しくもありません。一番、そう言う被害が多いのはリテラエですかね?」
「……あの人も大概不憫ね」
「そうですか? ですが、リテラエが疲れると旦那様が楽できるので、リテラエが疲れるのはバッチコイなのですが」
「…………あの人の境遇に憐みしか抱けないわ」
少女はやれやれと言ったように肩を竦めながら、首を幾度か横に振る。
そんな少女をプリスはじっと見ている。瞬き一つしていないような異様な集中力を以てして。
その視線に気づいた少女は身を固くし、フードをかぶりなおす。
プリスの視線がフードに向かっているように見えたのだ。それに、その視線はの中を暴こうと言うような視線にも感じることが出来た。
「ふぅん……」
顎に手をやり、吐息を一つ漏らす。
その吐息にどういう意味が含まれているのか。全くわからない少女は困惑するしかない。
黙って視線をおくるプリスとそれを警戒する少女。
二人の間だけ時間が固まってしまっているようでもあった。
その凍りついた時間に捕らえられていない月夜は興味もないと言うように、手に持った荷物を台所に運搬し始めている。
荷物が運搬し終え、月夜がエプロンをその身にまとったところでプリスが口を開いた。
「……月夜ちゃん」
「はい。何でしょうか」
プリスの声に振り向きもせずに月夜が答える。プリスだって月夜のほうを見て声を発しているわけではないので、イーブンだろう。
「……この娘は?」
「あぁ、その娘は今回の旦那様の戦利品……と言いましょうか。拾ってきた子供ですよ。今日からこの家で暮らすことになりました。一応、当面の間は《セレーノ》に所属すると言う方向で問題ないようです」
「……そうなんだ」
「それで、それがどうかしましたか?」
「いや、特に何でもないよ。ただ……知らない娘がここにいると言うのが少し気になっただけさ」
そう言うと、プリスはスタスタと少女の下に歩いていく。
少女は警戒からさらに身を固くするが、プリスはそのことについて気づかずに近づく。
そして、おもむろに鼻を近づけて少女の匂いを嗅ぎ始めた。
「は……?」
「ふぅん……。ロアが好きそうな匂いだね」
「そうなのですか?」
「うん。ロアはこの娘のこと初見で気に入ったでしょ?」
「そうですね。すぐに持ち帰ると決めておられましたね。たぶん、あの言葉は深く考えたものではなかったかと思います」
「でしょ? この娘の実際の匂いもそうだけど、この娘から香り立つ匂いっていうものはロアが放っておける類のものじゃないよ。ロアは偽悪的だけど、良い奴だからね」
「……存じております」
「そう? それは良かった。ロアのやつの理解者は少ないからね。増えるに越したことはない」
「……あー! 何で私の匂いを嗅ぎながら平然と会話をするし! すっごい迷惑だし! 嗅ぐか話をするかどっちかにしてほしいし!」
ずっと黙って匂いを嗅がれるままだった少女が声を上げた。
確かに、匂いを嗅がれながら会話などはじめられたら邪魔で仕方がないだろう。
だが、少女の今の言葉にはたった一つミスがあった。
そのミスに気付いた月夜は台所で包丁を振るいながら、可愛そうにというように軽く息をついた。
「なら、嗅ぐ。この匂いは私も嫌いじゃない」
さっきの少女の発言は、嗅ぐのをやめてほしと言う意思表示だったのだろう。
だが、今の発言は話すのを止めれば匂いを嗅いでいいと言うことにはならないだろうか? 少なくとも、プリスはそう判断する。
スンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスンスン。
話すのを止めたプリスは無言で少女の匂いを嗅ぎ始める。
匂いを嗅ぐのは楽しいのか、耳はぴくぴくと反応しているし、尻尾は穏やかに振られている。少女の匂いが好きだと言うのは、本当の事のようだ。
無言で匂いを嗅ぎ続けるその姿からは嫌悪などの悪感情は見受けられない。
そんなプリスの姿は一種異様ですらあったが、自分から言った手前少女からやめろと言うわけにもいかず、少女は手をまごつかせている。
少女は意外と素直で良い娘なのかもしれない。
そのまま、数分時間が経過した。
その時間中飽きずに少女の匂いを嗅ぎ続けていたプリス。
流石に、これ以上は嫌だと感じた少女はプリスの体を自分から引きはがす。
「も、もう十分でしょ? いい加減にやめてくれない?」
「……このフードは邪魔だね」
「……あっ!」
少女が止める間もなく、プリスは少女がこれだけはと死守していたフードをあっさりと脱がせる。
その仕草は少女の一瞬の気の隙をついたもので、少女は反応すらできない。
「ふぅん…………」
フードの下にあった少女の頭を見たプリスは今日何度目かの吐息を漏らす。
さっきまでの吐息との違いは、どことなく長かったということだけだろう。
少女が必死に保持していたフードの下にあったのは、一言で言いあらわすのなら角だ。
捻じれたヤギのような角。この世界のヒト種のなかで、たった一種族以外もつことが許されていない角が、少女の左側頭部から捻じれながら前に突き出るように生えていた。
その角は少女が必死に隠したがっていた恥部そのもの。
そんなものが人の前に晒されたのだ。少女は恥辱から顔を伏せって身悶えする。
そして、これから来るであろう罵倒や軽蔑、侮蔑の視線に耐えるために身を固め、心を深く沈め、自分を守ろうとする。
だが、プリスの行った行動は少女の予想を裏切るものだった。
「……面白い。それに、似合っているよ」
そういいながら、ケタケタと楽しそうに笑う。
笑い声には少女が予想していた、嘲るような色は欠片も含まれていない。
ただ、本当に楽しいと言うことを表現するかのような澄んだ笑い声だ。
その反応は予想の範疇になかった少女は、プリスの行動に目を白黒させ、またもフリーズしてしまう。
「うん。静かになったし、フードもないから匂いを嗅ぎやすいね」
理由はわからないが、文句も言わなくなったので、これ幸いとばかりに頭の匂いを嗅ぎ始める。
そのプリスによるクンカクンカは月夜の料理ができるまで続いた。




