苦労は彼の手に
ケルベロス率いる魔獣たちの襲撃から一週間が経過した。
町の住民たちは、交渉の結果としてグローリアたち《セレーノ》がケルベロスを飼うことを了承していたし、グローリアの実力を信頼もしていたので大丈夫だろうなどと思っていたが、当初はまだケルベロスに対する警戒心が抜けていなかった。
ケルベロスの方も町の住民に対して威嚇などしていた。
だが、威嚇をするたびにグローリアの睨みを受けていたら、いつの間にやら町の住民たちにも威嚇をしなくなっていた。
町の住民たちもグローリアがケルベロスを完全に御しきれているということを再度認識することができた。
なので、一週間が経過するころにはケルベロスはすっかり町に溶け込んでいた。
《セレーノ》の子供たちもケルベロスと言う遊び相手ができたことで喜んでいた。
ケルベロスの存在は、笑顔こそ運んでくるが、悲しみなど運んでくることはなかった。
……たった一人を除いては。
「ク、ソ、ガァァァァァァァァァーーー!」
曇り空が太陽を隠しているどんよりとした正午のこと。
《セレーノ》のギルドホールからドンガラガッシャンと言う音が聞こえてくる。
歩行者たちは一瞬びくりとして歩みを止めるが、今自分がいる場所が《セレーノ》の前だと言うことを認識していつものことだなと思い直し、また歩き出した。
その声の主がリテラエだと言うことも歩行者たちの思考を加速させた。
また、リテラエが至極当然のことで荒れているのだろうな。
歩行者たちはリテラエの魂に人知れず祈りをささげてからその場を立ち去った。
触らぬリテラエに祟りはないのだ。
「ハァ……ハァ……マジで、意味がわからん」
「こんなこた、最初から予想ができていたことではあっただろ。どうにかするしかない」
肩を上下させながら世の不条理について嘆いているリテラエを諭したのは、リテラエの姿を視界にも入れずに本を読んでいるウルヴァーンだ。
ウルヴァーンが読んでいる本は、最近西大陸で流行り始めている非現実を舞台とした小説だ。
魔法や異能が全く存在しない世界で、朗らかな毎日を送っている少年少女の“ガッコウ”と言うものにおける突飛な日常を書いたものだ。
一歩町から出れば血生臭いことになどいくらでも出会えるウルヴァーンにとっては、突飛な日常と言っても退屈なものが多かった。それに、魔法や異能がない世界と言うのもウルヴァーンからしてみれば不可思議だ。
異能や魔法が無くてどうやって魔獣と戦ったり、日常生活を過ごすと言うのだろうか?
そのあたりの描写は省かれているので、よく知ることはできない。
この“ガクセイ”とやらも、この“ガッコウ”とやらが終わった後はウルヴァーンたちと同じように魔法や異能を使って魔獣と戦っているのだろうか?
この“ガッコウ”とやらの中だけは異能や魔法が制限されているのだろうか?
想像できないが、こんなあり得ない内容を考える作者に対する尊敬の念がウルヴァーンの胸中には湧き上がっていた。
「ホントに、どうしたらいいのだろうな?」
「とりあえず、その吹っ飛ばしたテーブルを直すところから始めろ」
「それもそうか」
リテラエは、さっきの叫びと共にぶっ飛ばしたテーブルを元の位置に戻す。
元の位置に戻したテーブルにリテラエは幾度も頭を叩き付けはじめる。
パッと見、狂人の行動ではあるが、ウルヴァーンからすると見慣れた光景でしかない。
グローリアに無理難題をぶつけられたり、グローリアの起こす行動によってどうしようもなくなったときにリテラエはこうする。
頭から血を出すと、血の気が失せていい案が浮かぶのだそうだ。
その前に仮面が割れそうなものだが、仮面が割れることはない。
この仮面といい、グローリアの眼帯といい、謎材質であることこの上ない。
「にしても……食費だけでこの額ってのは想定外だわ」
「しゃぁないだろ。魔獣と人間では概念が違う。必要な栄養の量も桁違いなんだろうよ」
「にしたって……ケルベロスの食費だけでうちの財政を圧迫するってどういうことよ」
リテラエが頭を悩ませているのはペットであるケルベロスのペロの食費についてだ。
ペロと言うのは、月夜が名づけた名前だ。
そのペロは魔獣と言うだけあって、尋常じゃないほどの食べ物を毎食食う。
肉以外を食べないと言うのであれば、現状以上に食費がマッハになっていたことだろうが、肉以外も問題なく食べると言うのがまだ救いだった。《セレーノ》に来てから、すっかりペロもベジタリアンである。
子供たちの遊び相手になってくれると言うことはリテラエとウルヴァーンの負担軽減にもつながったのだが、それ以上の食費がリテラエの胃を抉っていく。
リテラエの目の下のクマはペロが来る前と後では、当社比二倍ほどひどい。
最近のリテラエは財政状況の悪さが目の下のクマを見ていればわかるようになってきている。飛んだびっくり人間である。
「こんな時に限って依頼は入ってこねぇし……」
依頼と言うのは、普通ギルドに直接持ち込むか手紙か何かで来てもらうように頼むのが一般的である。人伝に来ると言うこともあるが、それは不確定要素が多すぎるのであまり一般的とは言い難い。
そういうことで、リテラエはいつもここで誰が来てもいいように待っているわけだが、ペロの一件以来、依頼は来ていない。
ついでに言うと、グローリアも当分依頼が来てもこなす気はないなどと言っている。
何か考えがあっての事なのか、いつも通りの気まぐれなのか。
グローリアではないリテラエにはわからないが、実際にグローリアはその言葉を裏付けるようにギルドホールに顔を出していなかった。
月夜も来ていないので、何をしているのかは本格的に分かっていない。
この街にいると言うのはプリス越しに聞いてはいるが、何処で何をしているかは定かではない。
そのおかげで、出費は嵩むのに収入はないと言う不味いことになっていた。
こういうところがこのギルドのあまりよくないところだ。
小さな依頼と言うのが来ることがほぼほぼないのだ。
《セレーノ》が頼られるような依頼と言ったら、超大手の戦闘系ギルドでも首を易々とは縦に振れないような難易度の討伐依頼や月夜の目を頼っての失せ者や探し人探しの依頼などだ。
両方ともどうしようもなくなってから《セレーノ》に来ることが多いので、単発でも報酬は美味しいことが多い。
問題はその依頼が単発で終わりということだ。
小さくてもいいので継続的に依頼が来るのが、《セレーノ》のような小規模ギルドとしてはありがたい。
が、世の中はそううまくもいかないらしい。
あまり外部のギルドとの繋がりを作ってこなかったことがここで禍した。
そう言う横の繋がりがあるギルドは紹介と言う形で依頼が舞い込むこともあるのだが、《セレーノ》は色々と特殊な成り立ちのせいか、大手ギルドとただひたすらに仲がよろしくない。
それ以前に、《セレーノ》の評判だっていいものばかりではない。
その結果が、大手ギルドとの敵対である。
同じような小規模ギルドとはいくつか繋がりが無いでもないが、繋がりのあるギルドは《セレーノ》と同じような零細が多い。
そんなところから仲介された依頼が入ってくることなど皆無。
色々なことを考えた結果、またリテラエがため息を深々とついた。
「えーっと……暗い雰囲気だけど、やってるのかな?」
「万年開店休業みたいなものですけど、やってますよ」
「それは良かった。依頼をしたいんだけど……大丈夫かな?」
「話を聞くだけならタダですからね。受けるかどうかはうちの団長の機嫌とその依頼の内容にも依りますけど……それでも大丈夫ですか?」
「問題ないよ。ウチとしては、ぜひとも《セレーノ》に頼みたいんだけど、他に当てがないわけでもないしね」
「そいつは重畳。なら、こちらへどうぞ。お茶でも飲みながら話しましょう」
「お茶をいただけるならありがたい。少し肌寒くてね」
顔を上げると、見慣れぬ人物とウルヴァーンが何かを話している。
その人物はパッと見はどの種族かはわからないが、漂ってくる気配でわかる。たぶん龍人種。それも、結構な上位だ。
自分たちのお先真っ暗ぶりを考えていたら、尋常じゃないほどに鬱になってしまったので会話の内容はよく聞き取れていなかった。
リテラエはずれていた片眼鏡の位置を直しつつ、応対していたウルヴァーンに声をかける。
「……その人は?」
「あぁ? やぁっと起きやがったか。お前が長らく待ち望んでいたものを運んでくれた救世主様だよ」
「ははは。救世主とは面映ゆいね。僕はただの依頼者だよ」
その青年は軽い笑い声をあげる。
依頼者。
その言葉を聞いて、リテラエはスッと背筋を伸ばして立ち上がる。
着ているスーツについてしまっていた皺を丁寧な手つきで伸ばした後に、髪型を整えたうえで依頼者に声をかける。
「こんにちは。今回の依頼はどのような内容ですか?」
「おせぇよ。依頼主のほうも引きまくってんじゃねぇか。さっきの無様な面の印象は今更ぬぐえねぇよ」
「うぐっ」
ウルヴァーンの辛辣な言葉がリテラエの肺腑を抉る。
確かに、さっきの飲んだくれのやさぐれたおっさんのような姿を見せてしまった後ではどれだけ取り繕っても今さらだろう。
だとしても、取り繕わなくていいと言うことにはならない。
てきとうな態度で接していてはこちらの品格が疑われると言うものだ。
そんなリテラエたちに対して、依頼主であろう好青年は朗らかに笑っている。
「いえいえ。気にしないでください。寧ろ、取っつきやすい人だなと思って安心していたところですから」
「そう言っていただけると助かります」
「社交辞令だろうけどな……」
「黙ってろ」
これ以上、余計なことを言い出す前にウルヴァーンの口に鍵を掛ける。
ウルヴァーンは抗議的な視線を向けてくるが、大事な依頼主を逃がすわけには行けないのだ。
この依頼主を逃がすのは文字通りの死活問題となりかねないのだから。
少しの間だけ我慢していてくれ。
そんなリテラエの想いが伝わったのか、ウルヴァーンはむすっとしながらも腕を組んで黙った。こういうところが物わかりがよくて助かる。
「それでは、自己紹介からさせていただきます。私は、ギルド《セレーノ》副団長。リテラエ・フェアトラークと言います」
「これはこれは。ご丁寧にありがとうございます。僕はローグ・ルーク。今回は個人としてではなく、一つのギルドとして依頼させてもらいに来ました。よろしくお願いします」
両者が右手を出し合って、握手をする。
その握手をしている最中に、リテラエはついと言った様子で眉を一瞬だけ寄せる。
握手をした右手の感触が生身の人間とは若干違う。
柔らかさも触れた時の触感も普通の人間の手と何ら違いはない。
だが、何となく普通の人間の手よりも冷たいような気がしたのだ。体温が低いと言う人間らしい冷たさではなく、血が通っていないような冷たさに感じた。