ボリューム3
マリナに会いたい。
その想いは、彼女に「無理です」と言われたこともあってより一層強くなっていた。
断られた日以来、マリナに再度お願いをするようなメッセージは送っていない。しつこくして嫌われるのが嫌だったから。
ただ、何とかして彼女に会えないだろうかという、密かな野心のようなものがあったのは確かだ。
今までどおり、ラジオのパーソナリティーとリスナーという距離は保ちつつ、どうしたら彼女に会えるのだろうかと、ずっと考えていた。
そうしてその日も、マリナのエンジェルボイスは通常通りに始まった。ショートコーナーも、曲紹介も、いつもと変わらない様子でラジオから流れていく。
そしてマリナのフリートーク。俺は英語の参考書を傍らに置いてペンを滑らせながら、話の内容に耳を傾けていた。
『今日は映画を見てきました。現在公開中の映画なんですけど、これがとても感動的だという話を聞いたので』
フリートークも変わらない。マリナの日常をクローズアップした、日記のような内容。弾ませた声で、「面白かった」とか「噂どおりに感動した」とか「とてもいい話でした」とか。
ふと、彼女の感想が映画の内容について触れていないことに気がついた。どんな話だったのかは紹介していたけれど、それはあちこちで見られるあらすじ文と大差のない程度。映画のこんなところが良かったとか、俳優のこういうところが素敵だったとか、何か具体性を示す感想が出てきていないことに気がついた。
その他にもある。これは前々からなんとなく感じていたことだが、毎回内容が日記のようなマリナのフリートークは、どこか違和感があった。
登場人物が少ない。それどころか、いない。
マリナ自身がどこかに出掛けた話や、何かを見てきたという話はよく話題になるが、それを誰かと行ったような感じでは話さないし、彼女が個人的に思う感想というものも聞いたことがない。
ラジオ番組らしくない、どこか素人の作ったような物足りない感じは、逆にこの番組の魅力だと思っていた。
だが考えてみれば、マリナのトークにどこか薄っぺらさを感じてしまうことが、やはりこの番組のチープさの原因のような気がするのだ。
俺は、その日送るメッセージで、気になる疑問を一つ解決してみようと試みた。
『では、お便りのほうを紹介させていただきます。ラジオネーム星の勇者の弟子さん、いつもありがとう! …………さっきの映画、僕も面白そうだなと思っていました。今度友達と観に行く約束をしているんですが、誰と観に行ったんですか? それと、見所を詳しく教えてもらえると嬉しいです、と…………』
別に一人で映画を観ることが悪いわけではないし、誰かといようがいまいが、マリナの日常を垣間見れることはファンとして素直に嬉しい。
だけど、ファンだからこそ、彼女の言葉に抱いた違和感を払拭したかった。少しだけでもいいから、説得力が、真実味がほしかった。
『えっと…………いいえ、映画は一人で観に行きました。あと見所は…………うーん、まあ、やっぱりクライマックスで秘密が明かされるところでしょうか』
正直に言って、その答えに俺はひどくショックを受けた。
実はこの映画、もうヒデノリと観に行っていたのだ。終始静かな雰囲気のまま物語が進行するこの映画は、クライマックスでどんでん返しを狙うような内容ではなかった。
マリナは、この映画を観ていないんじゃないのかな。
俺はすぐにメールフォームを開いて、再びメッセージを書き始めた。
それはたった一言の短い文章。俺のわがままな願いであるのと同時に、マリナに対する俺なりの思いやり。
『あ、またメッセージありがとうございます! えっとぉ…………あ』
たった一言だけだった。
一緒にその映画、観に行きませんか?
俺が、マリナが嘘をついていると思っていることが伝わったかも知れない。そこにつけこんで映画に誘い出すなんて、卑劣だと思われているかも知れない。
だけど俺だって、いつまでもこのままでいるのは良くないと思っていた。
やっぱりマリナに会いたい。ラジオのメッセージではなくて、直接言葉を交わしてみたい。
自分の想いを、きちんと伝えたい。
『…………えっと、ね』
ラジオの向こうは、沈黙の時間が徐々に多くなっていった。
また放送が中断されてしまうのかな。今度そうなったら、もう明日からは本当に放送がなくなるような気がした。
そうなってしまっては、ラジオ番組の放送を楽しみにしている俺ばかりか、番組放送を楽しんでいるマリナにまで悲しい思いをさせてしまう。今更だけど、そう気付いた。
俺は何か間違っただろうか。自分に問いかけてみたけれど、どうしたらよかったのかなんて分かるはずがない。
『あの…………私』
緊張した。たぶん、試験当日になってもこれ以上は緊張しないんじゃないかと思うほどに。
『えっと……その、私…………映画、観たいです』
緊張が解けることはなかった。
ただ、彼女の言葉が頭の中で響いているのは分かった。
これは。
『ごめんなさい。私この映画、観たことないです…………だから、この映画観てみたいです』
俺は無表情のまま、静かに顔を俯かせた。
本当に。本当に俺の言葉が、想いが、願いが届いたのか。
しかし、マリナの言葉はまだ続いた。
『…………えっと、でも…………ダメなんです』
「え?」
俺は思わず声を漏らしていた。
俺の声なんて、電波にのるはずもないのに。
『私、映画は観にいけません…………ここから動けないから』
動けない。
意味が分からなかった。
『ごめんなさい、今まで黙っていてごめんなさい…………あの、私、人の真似事がしてみたくて…………えっと、どこから話したらいいかわからなくて』
「何、言ってるんだ?」
『えっと、私…………本当はマリナじゃなくて、MRN製第五世代スーパーコンピュータ、名称ラムダって言います』
横文字が難しいとか、俺の勉強が足りないとか、そういうことじゃなくて。
ただ、俺とマリナで築いていた二人の世界が、突然訳の分からない暗号になってしまったみたいだった。
本当に訳が分からない。
『どうしてこうなったのかは、私にも分からないんです…………ただ、気がついたら意識があって…………でも、いつも私の周りでお仕事している技術者の皆は、まさかスーパーコンピュータに自意識があるだなんて、誰も気がついてないんですけど』
少しだけ手が震えていた。
だが、それでも俺はメールフォームを開き、どうにかして文字を書き込んだ。
マリナとのコミュニケーションの取り方を、これしか知らないからだ。
『…………え? あ、はい。花を見たとか、写真を撮ったとか、映画を観たり遊園地に行ったり、もちろんクッキーだって…………全部嘘です。空想です。私、人の生活に興味があって、こんな風に暮らしてみたいって思ってて…………本当に、人の生活に憧れてるんです』
もう一度メールを打った。
『そうですよね、ごめんなさい…………でも、私の体は広い部屋いっぱいに広がる、硬くて四角い箱でしかないから。どんな形であれ、自分が人として振舞っている姿を世界に送ることが出来るだけで、十分幸せなんです。ただの自己満足ですけどね』
マリナは、きっと人の世界に溶け込みたかったんだと思う。羨ましいという気持ちが強くなって、自分もそっちの世界に入りたくなったんだ。
実際には何も出来ない。だけど、せめて気分だけでも人でありたかった。絶望的に何も出来ない状況においても、マリナは何とかして人の世界に自分を刻もうとした。
魅力的な世界に惹かれ過ぎたが故に、“もっと先まで”を求めた結果が、マリナのエンジェルボイスだったんだ。
俺と同じだ。
そうだよな。素敵なものに出会っちゃったら、もっともっとって、欲が出るのは当然だよな。
ただ、俺とマリナの違いは一つだ。
『…………はい? ああ、はい、はい! もちろんです! もっと、いろんな人に番組を聴いてもらって、私という存在を認識してほしいです!』
それが、彼女に出来る唯一の、世界に自分を刻む方法なんだ。
俺は、彼女の一番にはなれないってことだ。
そして俺は、最後のメッセージを送信した。
『…………え? ほ、本当ですか!? 本当に本当に!? あ、ありがとう! ありがとうございます!』
いよいよこの日がやってきた。
俺は、自分の受験番号が記された受験票を握り締めて、電子掲示板の前まで歩み寄った。
出せるだけのものは出してきた。後は自分を信じて、合格者一覧の中から自分の番号を探し出すだけだ。
俺の隣には、一足先に合格を決めてしまったヒデノリが、ニヤニヤしながら立っていた。
「俺が見てきてやろうか?」
「いいよ! 引っ込んでろよ!」
茶化されても冗談を飛ばせる余裕はなかった。
冬だというのに、訪れている大勢の受験生の熱気が伝わってきた。なんか汗ばむな。
俺は受験番号を再確認してから、掲示板のほうに視線を送る。
左上から順に。下へと視線をおろしながら。
そうして俺の番号と重なる数字が、徐々に見えてきた。
左から一桁目。
続いて二桁目。
そして三桁目。
残りは同時に見る。
「あ」
「あ?」
あった。
「うおあああああああっ!」
「やったのか!? やったのかぁ!?」
「あったぞおおおおっ!」
「ふぉおおおああああっ!」
俺はヒデノリと抱き合っていた。
大学受験なんてまだ先の話だと思っていた去年までは、こうした合格発表の場面をテレビの報道番組とかで見ていても、そんなに感動するものなのかと疑問を抱いていた。
しかし、百聞は一見にしかず、とはまさにこのことだ。
たまらなく嬉しい。
すぐに両親に電話したところ、間もなくして携帯電話が壊れてしまうんじゃないかと思うくらいの雄たけびが、俺の鼓膜をひっぱたいた。
それからヒデノリ以外の友人や学校の先生、いろいろ差し入れなんかをくれたご近所のおばさんにもお礼を言って回り、家へと帰り着いた。
喜びの余韻が冷めないまま、俺は学校の制服からラフな服装に着替えた。今夜は外食ということなので、それまで何して時間を潰そうか。
そんな時、ヒデノリから電話が掛かってきた。
「なんだよ? お祝いならさっきも散々いただいたぞ」
『お前ってさ、もしかして星の勇者の弟子?』
突然の言葉に、俺は絶句した。
何でこいつがその名前を知っているんだ。
『もしかして図星? やっぱなー。そうだと思ったんだよ。一番最初のリスナーさんだって言うから』
「なんだよ! だからなんだよ!」
『センスねえわー』
カチンときた。しかし、それ以前に思うことがある。
何故そんなことをわざわざ電話で伝えにきたのかということだ。
『いやさぁ、お前に教えてもらったラジオ番組のパーソナリティーが、最近毎日放送の中で言ってるんだよ。星の勇者の弟子さんは大学受験どうなったのかなぁって』
そういうことか。
俺は、マリナに約束をしたのだ。
この番組をいろんな人たちに宣伝してやる。それがマリナの存在証明になるのなら、それでマリナが喜ぶのなら、たくさんの人にこの番組を広げてやる、と。
そして約束どおり、ヒデノリをはじめ、ウェブや知り合いを通して、秘密のラジオ番組エンジェルボイスのことを宣伝しまくった。
斬新で甘ったるくて微妙な歌。いまいち盛り上がらないヘンテコリンなショートコーナー。
そして、トークの上手くないパーソナリティー。マリナの正体は伏せておいた。
正直な番組紹介は、逆に目を引くものがあったのかも知れない。気に入る人はやはり少ないようで、固定リスナーというのはそれほど多くないみたいだ。
だが、確実に番組とマリナの存在は認識されていった。
しかし、俺は約束のメッセージ送信を最後に、エンジェルボイスを聴かなくなってしまった。
なんだか、もう聴く気にはなれなかった。
『マリナちゃんが気にしてるぜぇ。もっかいぐらいメッセージ送ってやれば?』
「今更いいよ」
『んなこと言うなよぉ。エンジェルボイスの最初のリスナーだろう』
だからと言って、本当に今更、なんてメッセージを送るべきなのだろうか。
時刻は夜の九時になろうとしていた。
机の引き出しにしまいっぱなしにしていた携帯ラジオを、俺はゆっくりと取り出した。ずっと放っておいたので、バッテリーが切れていなければいいが。
電源ボタンを押してみると、パイロットランプがゆっくりと点灯して、タッチパネルには起動時のスタンディング映像が映った。
よかった。まだ大丈夫だ。
周波数は変えていない。ラジオの時間は、あの時から動いていない。
俺は時計とラジオを交互に見ながら、九時になるのを待った。
そして、秒針が一番高いところまでその針を伸ばしたとき。
『みなさんこんばんは! マリナのエンジェルボイス、はじまります!』
番組は相変わらずの調子でスタートした。
久しぶりに聴いた声。やっぱりこの声は、優しそうで心地がいい。ヒデノリ曰く、今テレビに出ずっぱりの某アイドルに似ていると言っていた。たぶん、マリナはそのアイドルの音声をベースにして自分の声を作ったのだろう。
『さあ、では今日も元気に放送をしていきたいと思います…………と、その前に、いつものやつを言わせてくださいね!』
いつものやつ。それに聞き覚えはなかったので、もしかしたら俺が聞かなくなってから、新しい取り組みでも始めたのかも知れない。
『ラジオネーム、星の勇者の弟子さん。もしこの放送を聴いていたら、またメッセージをお願いしまーす』
「あ」
恥ずかしい奴。
『大学受験の結果、教えてくださいね! いつでもいいので、番組の放送時間内にメッセージをお待ちしています! では、最初はまず一曲、私の歌からお送りしますねー』
俺のための恒例だったのか。
なんだかすごく恥ずかしくて、顔がほころんだ。
いいのかな。メッセージを送っても。
でも、なんて送ればいい。
そうこうしているうちに、マリナの歌が始まった。
相変わらずの微妙な曲。伴奏もない。
それでも、俺は久しぶりに聴けたことが嬉しかった。
曲が終わるまで、あと一分くらいだろうか。マリナの曲はたくさん聴いてきたが、ワンパターンなものが多いから時間が測りやすいのだ。
そんなことまで分かってしまう俺は、どれだけマリナの番組や歌を聴いてきたのだろう。
どれだけ、マリナに惹かれてきたのだろう。
気がつけば、メールフォームを開いていた。
『…………はい、一曲目終了です。これは昨日出来たばかりのやつで』
またそんなやっつけソングを歌っているのか。
そんな変わらないマリナが、嬉しかった。
そう、変わらずに待っていてくれてるんだ。
『では次のコーナーを…………あれ?』
なんだか嬉しい。いつまでもマリナはそうやって、自分の存在を証明し続けるんだ。
機械のくせに、人であることを望んで。
『…………へへへっ、そうですね』
人にはなれないことに絶望しているはずなのに、マリナは一生懸命、なんとかして人としての自分を作ろうとしていて。
『絶望なんてしていませんよ。いつかきっと、私は人になれる。そんな気がします』
機械が人になりたいなんて、少し馬鹿げているかも知れない。
そんなことが可能になるとは思わない。
『そうでしょうか? 今の科学力を侮ることは出来ませんよ。損傷した人体の高度な機械化という技術も着実に進歩しています。いずれは、オール機械の生命だって生まれるかも知れません。いや、もしかしたら機械が自分で進化するかも』
もしそういう世界がやってきたとしたら、俺はやっぱり嬉しいかも知れない。
四角い体じゃない。握手が出来て、一緒に映画を観れて、ツーショットで写真を撮ってくれるマリナにいつか会えるのだとしたら、俺はそういう世界がやって来てくれるのを歓迎するのに。
『そういう世界は、自分からやって来るものではないと思います』
そうなのかな。
ああ、そうだったね。
だって、番組を通じて存在していた俺とマリナの世界は。
『そうですよ。この声を電波に乗せて存在していた私とあなたの世界は』
自分達で作り出したものだったじゃないか。
『いつか、あなたが立派な技術者となって、私に体をくれるのだと信じています』
じゃあ、その夢を叶えるために頑張ろう。
『では、応援ソングを一曲お届けします』
その時、ラジオの向こうから、エンジェルボイスに初めて音楽が流れた。
そうは言っても、単調な電子音でリズムをとっているだけ。数世代も前の音楽にはこういうのがあったかも知れないけれど。
それでも、俺はものすごく嬉しかった。
これが機械の所業だなんて信じられない。
ありがとう、ひどく待たされたリクエスト曲だ。
伴奏をつけてくれたんだね。
『曲はもちろん私、マリナで、“声は電波にのって”』
その日、エンジェルボイスは、史上初となる伴奏付きの曲を届けた。
やっぱり下手だったけれど、その放送を聴いた大勢のリスナーから、歓喜のメッセージがマリナのもとに届けられたのだった。