第六章 歴史を見つめる者たち
四次元空間について調べ始めてから、剛は科学の本を読む時間が増えた。
とはいえ、専門書の内容をすぐに理解できるわけではない。
数式が続くページでは何度も立ち止まり、知らない言葉が出てくるたびに別の本を探した。それでも、以前なら途中で投げ出していたような難しい本を、今は何とか読み進めようとしていた。
わからないことがあれば、調べればいい。
ここには、調べるための本がある。
それは剛にとって、何より心強いことだった。
そんなある日のこと。
剛は、いつもの休憩スペースでピノと昼食を取っていた。
「最近、科学の本ばかり読んでるね」
ピノが言った。
「四次元のことが気になって。せっかくこんな場所にいるんですから、少しは仕組みを理解したいんです」
「いい心がけだね。でも、あんまり根を詰めすぎないようにね」
「大丈夫です。わからないことが多いから、逆に面白いんですよ」
剛は食事を終え、飲み物を一口飲んだ。
「ところで、前から気になってたことがあるんですけど」
「今度は何?」
「ここで働いている人たちは、普段、何をしているんですか?」
ピノは少し考えてから答えた。
「記録の整理や本の製作だけじゃないよ。外へ出て、資料を集める仕事もある」
「外って、あの山の外ですか?」
「それもあるけど、もっと遠い場所だよ」
剛はカップを置いた。
「まさか、世界中を回ってるんですか?」
「世界中だけじゃないね」
ピノは何気なく言った。
剛は、その言葉を聞き逃さなかった。
「……世界中だけじゃないって、どういう意味ですか?」
「気になる?」
「気になるに決まってます!」
ピノは笑った。
「じゃあ、今日は資料収集部門を見学してみようか」
*
資料収集部門は、剛がこれまで見てきた場所とは少し違っていた。
大きな作業台が並び、壁には地図や時系列の表が表示されている。人々は端末を操作したり、資料を確認したり、互いに情報を交換したりしていた。
部屋の奥には、何枚もの映像が同時に映し出されていた。
古代の町並み。
中世の市場。
大昔の農村。
そして、剛が見たこともない建物や乗り物が行き交う未来の都市。
剛は、思わず足を止めた。
「これ、全部、実際の映像なんですか?」
「映像そのものが残っているものもあれば、複数の記録をもとに再構成したものもあるよ」
ピノが説明した。
「ここでは、時代や地域ごとに資料を集めて、内容を確認しているんだ」
「でも、こんな昔の映像が残っているんですか?」
「映像が残っていない時代もある。そういう場合は、文章や遺物、建物の跡など、別の資料を使って調べるんだよ」
剛は画面の一つを見つめた。
そこには、古代の人々が川のそばで暮らしている様子が映し出されていた。
水を運ぶ者。
畑を耕す者。
子供を抱きかかえる者。
誰かと話しながら歩く者。
特別なことは何も起きていない。
ただ、人々が生活している。
それなのに、剛は目を離せなかった。
彼らは、自分たちが遠い未来から見られているなど、夢にも思っていないだろう。
今日の仕事を終え、食事をし、家族と過ごし、眠りにつく。
そんな一日を繰り返しているだけだ。
それでも、その日々が、こうして記録されている。
「ピノさん」
「ん?」
「この人たちを、実際に見に行くこともあるんですか?」
「あるよ」
剛は振り返った。
「本当ですか?」
「うん。記録が足りない場合や、現地で確認する必要がある場合にはね」
「じゃあ、何千年も昔の時代にも?」
「そういう時代にも行くよ」
剛は言葉を失った。
歴史の本に書かれていた人々が、ただの過去の存在ではなくなる。
遠い昔の村も、町も、人々の暮らしも、実際に目の前で見られるのだ。
もちろん、今すぐ自分がそこへ行けるとは限らない。
それでも、そういう技術が存在するというだけで、想像の世界が大きく広がった。
*
「ただし、何でも自由にできるわけじゃないんだ」
ピノは、少し声の調子を変えた。
「過去の時代を訪れる仕事には、守らなければならない決まりがあるんだよ」
「決まり?」
「歴史に干渉しないこと」
剛は、すぐには意味を理解できなかった。
「干渉しないって……?」
「過去の人々の行動や、その時代に起こる出来事を、こちらの都合で変えてはいけないということだよ」
剛は、画面に映る古代の人々を見た。
「でも、目の前で困っている人がいたらどうするんですか?」
「それでも、勝手に助けることはできない」
「命に関わるようなことでも?」
「簡単には答えられない問題だね」
ピノは、剛の目を見た。
「ただ、記録する側が、自分の判断だけで過去を変えていいとは考えていないんだ」
剛は黙り込んだ。
もし自分が何千年も昔の時代へ行き、目の前で誰かが苦しんでいたら。
その人を助けたいと思うかもしれない。
けれど、その行動によって別の何かが変わる可能性もある。
その人が生き延びたことで、別の人の人生が変わるかもしれない。小さな出来事が、何十年も先の歴史に影響するかもしれない。
考え始めると、簡単に答えを出せる問題ではなかった。
「じゃあ、どうしてそこまでして過去を見に行くんですか?」
剛は尋ねた。
「本や遺跡を調べるだけじゃ、駄目なんですか?」
「記録だけではわからないこともあるからね」
ピノは答えた。
「当時の空気や音、人々が暮らしていた環境。文章には残されていないことも、実際に観察すればわかる場合があるんだ」
「でも、それを記録するために、わざわざ過去へ行くんですね」
「そうだよ」
剛はもう一度、画面を見た。
そこでは、子供たちが川辺を走り回っていた。
笑い声が聞こえる。
誰かが子供を呼んでいる。
画面の向こうには、確かに人々の暮らしがあった。
その時代に生きた者たちは、後世の人間が自分たちの生活を知りたがるなど、想像もしなかっただろう。
それでも、記録する価値がある。
剛には、その意味が少しずつわかってきた気がした。
*
部門の奥から、一人の男性が歩いてきた。
年齢は四十代ほどに見える。落ち着いた表情で、手には資料の束を持っていた。
「ピノ、こちらが例の利用者かい?」
「そうだよ。近藤剛さん」
ピノが紹介した。
「剛さん、こちらは資料収集部門の責任者をしている、カイさん」
「近藤です。よろしくお願いします」
剛が頭を下げると、カイも軽くうなずいた。
「こちらこそ。ピノから、熱心に本を読んでいると聞いているよ」
「まだ、わからないことだらけですけど」
「それでいいんだ。わからないことがあるから、調べる意味がある」
カイは、壁の表示装置に目を向けた。
「君は、過去を記録することに、どんな意味があると思う?」
突然の質問だった。
剛は少し考えた。
「……忘れないため、でしょうか」
「何を?」
「人が生きていたことです。どんな暮らしをして、何を考えていたのか。そういうものが、何も残らなかったら、後の時代の人にはわからなくなってしまうから」
カイは、静かにうなずいた。
「確かに、それも大切な理由の一つだ」
剛は続けた。
「でも、全部を記録するなんて、無理じゃないですか。どれだけ技術が進んでも、記録できないことはあると思います」
「そのとおりだ」
カイは即座に答えた。
「すべてを残すことはできない。人の心の中で起きたことを、完全に記録することもできない。どれだけ資料を集めても、わからないことは残る」
彼は、表示装置の中にある古い町の映像を見た。
「それでも、何も残さないよりは、多くを残すことができる。後の時代の人間が、自分たちの過去について考えるための材料を残せる。それが、この仕事の意味だと私は考えている」
剛は、その言葉をゆっくりと受け止めた。
歴史の教科書に載る出来事は、ほんの一部にすぎない。
その陰には、記録されなかった人々の暮らしがある。
名前が残らなかった人々の喜びや悲しみがある。
それらをすべて残すことはできなくても、少しでも多くを残そうとする。
この図書館は、そのために存在しているのだ。
*
「カイさん」
剛は、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「ここで働いている人たちは、みんな未来から来たんですか?」
カイは、わずかに目を細めた。
「そうだね。私たちは、君たちの時代よりもずっと先の時代から来ている」
「じゃあ、何百年も未来の人たちが、昔の時代をずっと調べているんですね」
「そういうことになる」
「どうして、そこまでしなければならないんでしょうか」
カイはすぐには答えなかった。
部屋の中では、作業員たちがそれぞれの仕事を続けている。
端末を操作する者。
資料を確認する者。
新しい記録を受け取る者。
彼らは、毎日のように過去と向き合っている。
「それは、簡単に説明できることではないんだ」
やがて、カイが口を開いた。
「ただ、一つ言えることがある」
「何ですか?」
「歴史を知ることと、歴史を変えることは、同じではないということだ」
剛は、その言葉を繰り返した。
「知ることと、変えること……」
「私たちは、過去を自分たちの都合のいい形に作り替えるために、ここにいるわけではない。何が起きたのかを知り、できる限り正確に残す。そのために、ここで仕事をしている」
カイは、剛に向き直った。
「この図書館が何を目指しているのか。君も、いずれ少しずつ知っていくことになるだろう」
それ以上、カイは説明しなかった。
剛も、無理に聞き出そうとはしなかった。
まだ自分には、知らないことが多すぎる。
四次元空間の仕組みも、未来の技術も、過去を訪れる方法も。
そして、なぜ自分が招待されたのかも。
しかし、一つだけ、はっきりしたことがあった。
この図書館は、ただ珍しい本を集めるために造られた場所ではない。
過去に生きた人々の人生を、未来へ残すための場所なのだ。
*
その日の帰り、剛はいつもよりゆっくり歩いた。
家の奥の和室から戻ると、玄関を出て庭先で足を止め、山の景色を眺めた。
遠くに連なる山々。
木々の間を流れる風。
夕方の空に、薄い雲が浮かんでいる。
何百年も前にも、この場所には山があり、空があり、風が吹いていたのだろう。
そのころ、ここに暮らしていた人たちは、どんな毎日を送っていたのだろう。
この山を歩いた人もいたかもしれない。
この空を見上げた人もいたかもしれない。
しかし、その人たちの名前も、暮らしも、今ではわからない。
記録が残っていないからだ。
剛は、ポケットからカードを取り出した。
黒い表面に刻まれた「4d」の文字。
この小さなカードの先には、過去の記録を集め続ける巨大な図書館がある。
そして、その図書館を造った未来の人々がいる。
彼らは何を恐れ、何を守ろうとしているのだろう。
剛は、まだ答えを知らない。
けれど、いつかその答えを知りたいと思った。
ただし、焦るつもりはなかった。
明日も図書館へ行けば、また新しい本に出会える。
知らない人の人生を読み、知らない時代の暮らしを知ることができる。
その積み重ねの先に、何かが見えてくるのかもしれない。
剛はカードをポケットへ戻した。
夕暮れの庭を、ゆっくりと家の中へ戻っていった。




