第五章 ありえない空間
4d地下図書館に通い始めて、数日が過ぎた。
剛は毎朝、家の奥にある和室の入口から、図書館へ向かった。
最初のうちは、目に入るものすべてが珍しかった。人の背丈をはるかに超える書架も、空中に浮かび上がる電子書籍も、黙々と働く作業員たちも。
しかし、何日か過ごすうちに、少しずつ慣れてきた。
カードを使って本を開く方法も覚えた。読みたい本を探すための検索機能も使えるようになった。休憩スペースの場所もわかり、ピノに案内されなくても、一人で歩ける通路が増えてきた。
それでも、どうしても慣れないことがあった。
図書館の広さである。
何度歩いても、全体像がつかめない。
同じ場所を歩いているつもりなのに、いつの間にか見たことのない区画へ出てしまうことがある。案内板を確認しても、現在地と目的地の位置関係が、どうにも直感に合わない。
ある日、剛はとうとう我慢できなくなった。
「ピノさん、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「なに?」
「この図書館って、いったいどれくらい広いんですか?」
ピノは手元の端末から顔を上げた。
「またその質問か」
「だって、おかしいじゃないですか。外の家は、どう見ても普通の古い家です。山の中にあるし、敷地だってそんなに広くない。それなのに、中は何十階建てのビルより大きい。いえ、何十階どころじゃないですよね」
「そうだね」
「そうだね、じゃないですよ。どう考えてもおかしいです!」
剛は思わず声を大きくした。
ピノは笑わなかった。
代わりに、少し真面目な顔になった。
「じゃあ、そろそろ説明してもいいかな」
「何をですか?」
「この場所が、どうしてこんなに広いのか」
剛は椅子から身を乗り出した。
「ぜひお願いします」
*
ピノは剛を連れて、図書館の中央にある観測室へ向かった。
そこは、これまで案内された場所とは雰囲気が違っていた。
部屋の中央に、大きな立体模型が浮かんでいる。
模型の下には、山の地形が表示されていた。山の斜面、周囲の森、古い家の位置。そのすべてが精密に再現されている。
「これが、外から見たこの施設だよ」
ピノが説明した。
剛は模型をのぞき込んだ。
山の中にある家は、やはり小さかった。地下へ伸びる構造も表示されているが、常識的な範囲のものに見える。
「これだけですか?」
「普通の地下施設ならね」
ピノは模型に触れた。
すると、家の地下にあった空間が拡大された。
その内部には、無数の区画が表示されている。さらに拡大すると、その区画の中に別の通路や部屋が現れた。
剛は目を丸くした。
「ちょっと待ってください。これ、どうなってるんですか?」
「ここは、三次元空間だけで完結している施設じゃないんだ」
「三次元……?」
「縦、横、高さ。普段、君たちが暮らしている空間だよ」
ピノは空中に三本の線を描いた。
「君は、この三つの方向を自由に移動できる。前にも後ろにも、左右にも、上にも下にも行ける。建物も山も、基本的にはこの三つの方向に広がっているよね」
「はい」
「でも、この施設は、それとは別の空間方向を利用しているんだ」
剛は眉をひそめた。
「別の空間方向?」
「四つ目の空間次元、と考えてもらえばいいよ」
剛はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……四次元ってことですか?」
「そう。正確には、ここで言う四次元は、時間とは別の、もう一つの空間方向のことだよ」
剛は高校で習った数学や物理の授業を思い出そうとした。
四次元という言葉は知っている。
しかし、それを現実の空間として想像することはできなかった。
「でも、そんなもの、どうやって使うんですか?」
「簡単には説明できないね。人間が直接、四つ目の方向を見たり歩いたりできるわけじゃないから」
「じゃあ、どうして図書館はこんなに広いんですか?」
「三次元の空間に、四次元方向へ広がる構造を組み込んでいるからだよ」
ピノは模型を操作した。
家の地下にあった小さな入口から、見慣れない形の通路が伸びていく。
その通路は、三次元の模型だけでは説明しにくい方向へ折れ曲がり、別の空間へつながっていた。
「外から見た大きさと、内部で利用できる空間の大きさが一致しないんだ。入口の位置は三次元の世界にある。でも、その先の空間は、三次元の世界だけで測れる範囲に収まっていない」
剛は模型を見つめた。
言葉の意味は、何となくわかる。
だが、頭の中で具体的な形を思い浮かべようとすると、すぐに行き詰まってしまう。
「つまり……家の地下を掘り進めて、ここまで広くしたわけじゃないんですね?」
「その理解でいいよ」
「じゃあ、山の中に何百キロも通路を掘ってるわけでもない?」
「そういう話でもないね」
剛は頭を抱えた。
「だめですね。わかったような、わからないような……」
「最初から全部わかる必要はないよ」
ピノは、いつもの調子に戻っていた。
「大事なのは、ここが普通の建物じゃないってこと。そして、君がその中を歩いて、本を読めるってことだよ」
「それはそうですけど」
剛は苦笑した。
納得したとは言えない。
しかし、目の前にある現実を否定することもできなかった。
*
観測室を出た後も、剛は四次元という言葉について考えていた。
縦、横、高さ。
それに加えて、もう一つの空間方向。
自分の目では見ることができず、身体で直接確かめることもできない方向。
それでも、そこを利用する技術が存在する。
何百年も先の未来には、そんなことが可能になっているのだろうか。
「ピノさん。この図書館って、いつ造られたんですか?」
「ずっと未来だよ」
「ずっと未来って……」
「君たちの時代から見れば、かなり先の時代だね」
「何百年も先ですか?」
ピノは一瞬、考えるような間を置いた。
「そのくらいの感覚でいいと思う」
剛は立ち止まった。
「じゃあ、ここを造ったのは未来の人間なんですか?」
「そうだよ」
あまりにもあっさりした答えだった。
剛は、しばらく何も言えなかった。
未来の人間。
自分たちより何百年も先の時代を生きる人々。
彼らは、いったいどんな世界で暮らしているのだろう。
どんな科学技術を持ち、どんな社会を築き、どんな本を読んでいるのだろう。
「未来って、どんなところなんですか?」
「それは、君が知っている未来のイメージとは違うかもしれないね」
「どういう意味ですか?」
「技術が進歩しても、人間が何もかも理解できるようになるわけじゃないってことだよ」
ピノは通路の先を見た。
「わからないことは、未来にも残る。だからこそ、記録を集める意味があるんだ」
剛は、以前読んだ源一の人生を思い出した。
源一は、未来の科学技術など知らなかった。
それでも、自分の人生を生きた。
未来の人間がどれほど優れた技術を持っていたとしても、源一が見た海や、ふみと交わした約束の意味まで、簡単に理解できるわけではないのかもしれない。
技術と、人間の人生。
その二つは、同じものではない。
*
午後、剛は再び書架の間を歩いていた。
今度は、科学技術に関する本を探していた。
四次元空間について、もっと知りたかったのだ。
検索画面に言葉を入力すると、関連する書籍が次々と表示された。
数学の専門書。
理論物理学の論文。
空間構造を扱った研究記録。
そして、未来の技術に関する資料。
剛は、その中から一冊を選んだ。
装置にカードをかざすと、立体映像のページが浮かび上がる。
最初の数ページを読んだだけで、頭が痛くなった。
数式が並び、知らない用語が次々と出てくる。
「……これは、なかなか手強いな」
剛は苦笑した。
それでも、読むのをやめるつもりはなかった。
わからないなら、わかるところから始めればいい。
必要なら、別の本を読んでみればいい。
ここには、そのための本がいくらでもあるのだから。
剛は、もう一度、最初のページへ戻った。
今度は、少しゆっくりと読み進めていった。
*
夕方になり、剛は古い家の自分の部屋へ戻った。
窓の外は、夕焼けに染まっていた。
山の稜線が赤く浮かび上がり、森の影がゆっくりと濃くなっていく。
剛は椅子に座り、今日知ったことを振り返った。
4d地下図書館は、未来の人間が造った施設だった。
四つ目の空間方向を利用することで、外から見た大きさをはるかに超える空間を実現している。
自分が今いる場所は、何百年も先の科学技術によって支えられているのだ。
それでも、剛の心を一番強くとらえていたのは、技術のすごさだけではなかった。
未来の人間たちは、なぜ、これほど巨大な図書館を造ったのだろう。
どうして、名もない人々の人生まで記録しようとしているのだろう。
そして、なぜ自分に、この場所を訪れる権利が与えられたのだろう。
剛はポケットから黒いカードを取り出した。
表面に刻まれた「4d」の文字を見つめる。
その小さなカードが、未来と自分をつないでいる。
そう考えると、奇妙な気持ちになった。
まだ知らないことが多すぎる。
けれど、焦る必要はない。
ここには、何百年という時間をかけても読み切れないほどの本がある。
その中には、きっと、この場所について知るための手がかりもあるはずだ。
剛はカードを大切にポケットへ戻した。
明日も図書館へ行こう。
そう決めて、彼は窓の外の夕焼けを眺め続けた。




