第十三章 失われた名前
翌朝、剛はいつもより早く目を覚ました。
昨日、ノートに書き残した児童養護施設での記憶が、頭から離れなかったからだ。
同じ部屋にいた少年。
自分が何度も読み返していた冒険小説を貸したこと。
そして、数日後に本を返してくれた少年が、「面白かった」と言ったこと。
たったそれだけの出来事だった。
少年の名前も、今では思い出せない。顔もぼんやりとしていて、ほかの子供たちの記憶と混ざってしまっている。
それなのに、あのときの声だけは、かすかに耳に残っていた。
剛は布団から起き上がり、ノートを開いた。
昨日書いた文章を読み返す。
もっと何かを思い出せないだろうか。
少年はどんな顔をしていたのか。何歳くらいだったのか。いつ頃の出来事だったのか。
考えてみたが、記憶は曖昧なままだった。
「……無理に思い出そうとしても、駄目か」
剛はノートを閉じた。
記憶が薄れていくのは、寂しいことだった。
けれど、思い出せないことを、想像で埋めてしまうのも違う気がした。
カイやミナが言っていたことを思い出す。
分からないことは、分からないままにしておく。
それもまた、記録の一つなのだ。
*
「ピノさん、児童養護施設の記録って、この図書館にあるんでしょうか」
朝食のあと、剛はピノに尋ねた。
「どの施設の記録?」
「僕が育った施設です。名古屋にあるんですけど」
「施設の名称や所在地が分かれば、検索できる可能性があるよ」
「昔の住所なら、たぶん分かります」
剛が伝えると、ピノは端末を操作した。
数秒後、画面に検索結果が表示された。
「該当する施設の記録が、いくつか見つかったよ。ただし、施設の運営記録と、そこに暮らしていた人たちの個人記録は、別に管理されているんだ」
「個人記録もあるんですか?」
「すべての人の記録が残っているわけじゃないよ。保存の許可が得られた資料や、歴史的な調査の過程で収集された資料などが対象になるんだ」
「そうですか……」
剛は少し迷った。
自分の記録を探すのは、なんとなく落ち着かない。
誰かに自分の人生を読まれることを想像すると、妙な気分になる。
しかし、自分が暮らしていた場所について、知りたいこともあった。
「あの頃、僕と一緒に暮らしていた子供たちの記録も調べられますか?」
「公開や閲覧が許可されている範囲なら、可能だよ。ただし、個人のプライバシーに関わる情報には制限があるんだ」
「はい。それは分かってます」
剛はうなずいた。
「まずは施設そのものの記録を見てみたいです」
「分かった。ミナに案内をお願いしよう」
*
ミナは、資料収集部門の一角にある小さな閲覧室へ剛を案内した。
そこは、普段の巨大な書架とは違って静かな場所だった。壁には大型の画面が埋め込まれ、中央には一人用の閲覧端末が置かれている。
「ここでは、特定の地域や施設に関する記録をまとめて閲覧できます」
ミナが操作すると、画面に名古屋の地図が表示された。
剛が育った施設の所在地が示され、その周辺の地図が拡大される。
施設の設立時期、建物の変遷、運営主体の変更、周辺地域の発展。そうした情報が年代順に並んでいた。
「建物が改築されているんですね。僕がいた頃とは、少し違います」
「はい。古い建物は取り壊され、別の施設に建て替えられたようです」
剛は画面を見つめた。
自分が暮らしていた場所は、今も同じ場所にある。
けれど、建物は変わり、そこに暮らす人々も入れ替わっている。
自分が知っていた日常は、もうそこにはないのかもしれない。
「この時期の記録を見たいんですが」
剛が年代を指定すると、施設の日誌や行事の記録、職員が作成した報告書などが表示された。
もちろん、すべての記録が残っているわけではない。個人名が伏せられているものも多かった。
剛は、いくつかの資料を順番に開いた。
運動会が行われた日。
地域の人々が施設を訪れた日。
子供たちが遠足に出かけた日。
どれも、剛にとっては懐かしい出来事だった。
「ああ、遠足……」
画面に表示された集合写真を見て、剛は思わず声を上げた。
写真の中には、子供たちが並んで立っていた。
顔にはぼかしが入っている。個人を特定できないように処理されているためだった。
それでも、剛には分かる気がした。
自分も、あの列のどこかに立っていたのだろう。
「懐かしいですか?」
「はい。写真を見ると、少しだけ思い出します」
剛は写真を拡大した。
そのとき、一人の少年が目に留まった。
列の端に立っている少年だった。
ほかの子供たちがカメラを向いているのに、その少年だけは少し横を向いていた。
剛は画面を見つめた。
何かを思い出しかけた。
しかし、確信はなかった。
「ミナさん。この写真の撮影日って分かりますか?」
「記録によれば、五月の下旬です」
「僕がいた頃の写真でしょうか……」
「その可能性はあります。ですが、個人を特定するには情報が足りません」
「そうですよね」
剛は苦笑した。
無理に答えを出す必要はない。
ただ、昔の自分が生きていた場所を、こうして記録からたどれるだけでも十分だった。
*
しばらく資料を調べていると、ミナが別の記録を見つけた。
「剛さん。こちらに、施設の図書室についての記録があります」
「図書室?」
「はい。地域の方から寄贈された本の一覧と、子供たちへの貸し出しに関する報告書です」
画面には、寄贈された本の題名が並んでいた。
児童文学、図鑑、学習漫画、冒険小説。
剛が好きだった種類の本も多い。
「この本、読んだことがあります」
剛は一つの題名を指さした。
それは、幼い頃に何度も読み返した冒険小説だった。
「この施設にあった本なんです」
「記録では、ある時期に寄贈されたもののようです」
「そうだったんですか……」
剛は、その本を初めて手にした日のことを思い出そうとした。
表紙は覚えている。
主人公が見知らぬ土地を旅し、困難を乗り越えながら進んでいく物語だった。
読むたびに、自分もどこか遠い場所へ行けるような気がした。
児童養護施設の暮らしが嫌だったわけではない。
世話をしてくれる人もいたし、一緒に遊ぶ子供たちもいた。
それでも、ときどき自分の居場所がどこなのか分からなくなることがあった。
本を読んでいる間だけは、そんな気持ちを忘れられた。
「剛さん?」
ミナの声で、剛は我に返った。
「すみません。ちょっと昔のことを思い出してました」
「大切な本だったんですね」
「はい。あの本があったから、今の僕があると言ってもいいかもしれません」
少し大げさかもしれない。
けれど、剛にはそう思えた。
あの本がなかったら、読書をこれほど好きになっていなかったかもしれない。
読書を好きにならなければ、今、この図書館に来ることもなかったかもしれない。
もちろん、過去の出来事が一つ違っていたら、人生がどう変わっていたのかは分からない。
ただ、あの本が自分にとって大切だったことだけは確かだった。
*
帰り際、剛はもう一度、施設の記録を見渡した。
職員が書いた日誌。
寄贈された本の一覧。
遠足の写真。
行事の報告書。
そこには、剛が覚えていない出来事もたくさん残されていた。
反対に、剛の記憶には残っているのに、資料としては見つからない出来事もあった。
記録と記憶。
どちらか一方だけでは、過去の姿をすべて知ることはできない。
「ミナさん。僕、ここに来るまで、図書館って本を読む場所だと思っていたんです」
「今は違いますか?」
「もちろん、本を読む場所ではあるんですけど。それだけじゃないんですね」
剛は、画面に表示された古い写真を振り返った。
「本を作るために記録を集めて、記録を残すために、誰かの人生を知ろうとしている。そういう場所なんですね」
「そうですね。私たちは、残された資料を次の人へ渡すために仕事をしています」
「僕も、いつか誰かに渡せるものを書けたらいいなと思います」
「剛さんなら、きっと何か書けると思います」
「ありがとうございます。でも、まずは毎日ノートを書くところからですね」
ミナは微笑んだ。
「それが一番よいと思います」
*
その夜、剛は自室でノートを開いた。
今日見た写真や、昔読んだ冒険小説のことを書き留めた。
施設の記録には、自分が知らなかった出来事が残されていた。
けれど、そこに記録されていない自分の気持ちも、確かにあった。
本を読んでいるときの安心感。
物語の主人公が遠くへ旅立つ場面を読んだときの憧れ。
そして、いつか自分も知らない場所へ行ってみたいと思っていたこと。
それらは、施設の公式な記録には残らないだろう。
けれど、自分が覚えているかぎり、書き残すことはできる。
剛はペンを止め、少し考えた。
今日、見つけた記録の中に、あの少年の名前はなかった。
本を貸した少年が誰だったのか。
今、どこで何をしているのか。
それを知る手がかりは、まだ見つかっていない。
もしかすると、永遠に分からないままなのかもしれない。
それでも、あの少年が本を読んで「面白かった」と言った記憶は、剛の中に残っている。
その出来事まで、なかったことにはならない。
剛はノートに、最後の一文を書き加えた。
――名前を忘れてしまっても、一緒に過ごした時間まで、すべて消えてしまうわけではない。
書き終えた剛は、ノートを閉じた。
図書館には、何億冊もの本がある。
歴史に名を残した人々の記録もあれば、名前さえ分からない人々の記録もある。
そして、どれほど探しても見つからない人生もあるのだろう。
それでも、誰かが生きた時間は、記録が残っているかどうかだけで決まるものではない。
剛は、借りていた端末を手に取った。
今夜は、昔好きだった冒険小説を読み返してみよう。
検索すると、図書館の蔵書の中に、あの本の電子版があった。
あの頃の自分が何を感じていたのか、少しだけ分かるかもしれない。
カードをかざすと、懐かしい物語のページが浮かび上がった。
剛は静かに読み進めた。
過去は、もう戻ってこない。
けれど、本を開けば、あの頃の自分と再び出会えることがある。
そして、その出会いもまた、今を生きる自分の新しい記録になっていくのだった。




