第十二章 記録の向こう側
朝、目を覚ました近藤剛は、しばらく天井を眺めていた。
窓の外から、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。名古屋の児童養護施設で暮らしていた頃には、朝の静けさを意識することなどなかった。あそこでは、誰かの足音や話し声が絶えず聞こえていたからだ。
鹿児島の山奥にあるこの家では、朝の音さえ違っていた。
剛は枕元に置いていたノートを開いた。
昨日、最後に書いた一文が目に入る。
――未来を変えることはできなくても、今を記録することはできる。
自分で書いた言葉なのに、どこか他人の言葉のように感じられた。
未来の日本の大統領。その人物が自分の遠い子孫であり、その人物の計画によって、八千年前にまでさかのぼる歴史の記録が集められてきた。
考えれば考えるほど、現実離れした話だった。
それでも、剛の心には一つの疑問が残っていた。
これほど大規模な図書館があり、過去へ行く技術まであるのなら、なぜ人類の歴史には分からないことが、こんなにも多いのだろう。
記録を集めているのに、記録の空白はなくならない。
それはなぜなのか。
「ピノさん、今日は少し調べたいことがあるんです」
朝食の席で剛が言うと、向かい側に座っていたピノが顔を上げた。
「どんなこと?」
「この図書館に記録がない時代とか、人とか、そういうものについてです」
「なるほど。記録が存在しない理由を知りたいんだね」
「はい。これだけたくさんの人が過去へ行っているのに、どうしても分からないことが残るのが不思議なんです」
ピノは少し考えるように首を傾けた。
「それなら、ミナに相談するといいよ。記録の欠落を調べる仕事も担当しているからね」
「記録の欠落を調べる?」
「うん。何が残っていないのかを調べることも、記録を扱ううえでは大切なんだ」
剛は朝食を終えると、さっそく図書館へ向かった。
*
ミナは、いつもの資料収集部門にいた。
大型の画面にいくつもの年代が表示され、その下には無数の資料が並んでいる。剛が近づくと、ミナは手元の作業を止めた。
「剛さん。今日は何を調べるんですか?」
「記録に残っていないものについて知りたいんです」
「記録に残っていないもの、ですか」
「はい。例えば、昔の人が何を考えていたのかとか、誰がどんな人生を送ったのかとか。ここにはたくさんの本がありますけど、世界中の人間のことが全部分かるわけじゃないんですよね?」
「そのとおりです。どれほど多くの資料を集めても、過去のすべてを知ることはできません」
ミナは画面を操作した。
そこに、一つの古い集落の記録が表示された。
数千年前に存在した小さな集落だった。住居跡、土器、石器、動物の骨。周辺の地形や植物の痕跡まで、さまざまな資料が集められている。
「この集落については、かなり詳しい調査ができています。人々が何を食べ、どのような道具を使い、どんな環境で暮らしていたのか。ある程度までは分かっています」
「それなら、ここに住んでいた人たちのことも分かりますか?」
「一部は分かります。でも、全員の名前や家族関係、日々の出来事まで分かるわけではありません」
ミナは画面の端に表示された資料を指した。
「例えば、この住居跡からは、複数の人間が暮らしていたと考えられる痕跡が見つかっています。しかし、そこで暮らしていた人たちが何人だったのか、誰と誰が家族だったのか、正確には判断できないんです」
「その人たちが、どんな人だったのかも?」
「はい。誰かを好きになったのか。何かに夢中になったのか。将来について悩んだのか。そうしたことは、物証だけからは分かりません」
剛は画面を見つめた。
そこには、現代の人間と変わらない姿をした人々の再現映像が表示されていた。
しかし、その顔も表情も、資料から推定したものにすぎない。
実際に彼らがどんな顔をしていたのか、どんな声で笑ったのか。誰も知らない。
「もしかしたら、この中にも、物語を語るのが好きな人がいたかもしれませんね」
剛が言うと、ミナは微笑んだ。
「そうかもしれません。でも、それを裏づける資料はありません」
「そうですか」
「ただ、資料がないことと、そういう人がいなかったことは違います」
その言葉に、剛は顔を上げた。
「記録がないからといって、その人が何も考えなかったわけじゃない。誰かを愛さなかったわけでも、何かを夢見なかったわけでもないんです」
ミナは画面を閉じずに続けた。
「私たちが知っているのは、過去そのものではありません。過去に残された痕跡から、できるだけ確かなことを探しているんです」
剛は、以前読んだ漁師の佐藤源一の記録を思い出した。
源一には、日記があった。妻のふみとの思い出があり、家族との暮らしがあり、人生を振り返った言葉があった。
だからこそ、剛は彼の人生を身近に感じることができた。
けれど、日記を残さなかった人はどうだろう。
自分の思いを文字にしなかった人。文字を知らなかった人。書き残そうとしても、その機会を得られなかった人。
彼らにも、同じように人生があったはずだ。
「ミナさん。記録が残らなかった人のことは、どうすればいいんでしょう」
「難しい質問ですね」
ミナは少しだけ間を置いた。
「想像することはできます。でも、想像を事実として扱ってはいけません。分からないことは、分からないと残す。それも大切な記録なんです」
「分からないことを、分からないまま残すんですか?」
「はい。今は分からなくても、未来の誰かが新しい資料を見つけるかもしれません。そのとき、私たちが勝手に答えを決めていたら、本当のことを見つけにくくなってしまいますから」
剛はゆっくりとうなずいた。
この図書館では、何もかもが分かるわけではない。
むしろ、分からないことを分からないままにしておくために、膨大な資料を集めているのかもしれなかった。
*
午後、剛はカイのもとを訪ねた。
カイは執務室で、過去に集められた資料の整理状況を確認していた。
「ミナから話は聞いた。記録の欠落について調べているそうだな」
「はい。記録が残っていない人のことを考えていたんです」
「それは、この仕事を続けるかぎり、何度も向き合う問題だ」
カイは机の上に一冊の電子書籍を表示した。
そこには、かつて存在した町の記録がまとめられていた。
町の名前、住民の人数、産業、学校、商店。災害の記録や、町の発展を伝える写真も残っている。
しかし、ある時期を境に、住民一人ひとりの生活記録がほとんど途切れていた。
「この町には、かつて数千人が暮らしていた。行政資料や新聞記事は残っているが、個人の日記や手紙はわずかしか見つかっていない」
「どうしてですか?」
「さまざまな理由が考えられる。そもそも記録を残す習慣がなかった人もいるだろう。災害や戦争で失われた資料もある。保管されていたものが、時代の変化とともに処分された可能性もある」
「過去へ行って、探すことはできないんですか?」
「できる。ただし、探せば必ず見つかるというものではない」
カイは町の地図を表示した。
「私たちが過去へ行くときは、記録を集めるために行く。しかし、すべての家を調べ、すべての人の話を聞くことはできない。仮に一人の記録を詳しく集められたとしても、その人が出会った人々の記録まで、すべて集められるとは限らないんだ」
「一人の人生を知ろうとすると、ほかの人の人生にもつながっていくんですね」
「そのとおりだ。人間の暮らしは、独立した物語ではない。家族、友人、仕事仲間、近所の人。多くの人との関係の中にある」
剛は、児童養護施設で暮らしていた頃のことを思い出した。
同じ部屋で過ごした子供たち。世話をしてくれた職員。名前も知らないまま、施設を去っていった子供もいた。
彼らは今、どこで何をしているのだろう。
誰かと暮らしているのだろうか。仕事をしているのだろうか。あの頃のことを覚えているのだろうか。
剛は、彼らの人生をほとんど知らなかった。
自分が覚えているのは、一緒に食べた食事や、くだらない話で笑ったこと、夜になっても眠れずに話をしたことくらいだった。
それでも、彼らが確かにそこにいたことは覚えている。
「カイさん。僕は、自分が暮らしていた施設のことも、ちゃんと記録しておけばよかったと思うことがあります」
「今からでも遅くはない」
「でも、もう覚えていないことも多いんです」
「人間の記憶は、時間とともに変化する。忘れてしまうこともあるし、あとから意味が変わって見えることもあるだろう。それでも、今の君が覚えていることには価値がある」
カイは、剛のノートに目を向けた。
「ただし、覚えていることと、事実として確認できることは区別しておくといい。君がそのとき何を感じたのか。それも、君自身の記録だからな」
剛はノートを取り出した。
そこには、図書館で過ごした日々が少しずつ書き留められている。
最初にピノと出会った日のこと。
巨大な書架を見上げたときの驚き。
佐藤源一の人生を読んだときの気持ち。
そして、自分が未来の大統領の祖先にあたると知った日のこと。
どれも、誰かにとっては取るに足らない出来事かもしれない。
しかし、剛にとっては、確かに自分が生きた時間だった。
「僕は、ここでのことをできるだけ書き残そうと思います」
「いい考えだと思う」
「いつか、僕のことを知りたいと思う人がいるかもしれないから」
言ってから、剛は少し照れくさくなった。
自分の人生が、誰かに読まれるほど大したものだとは思っていなかった。
けれど、佐藤源一の人生を読んだとき、剛は確かに何かを受け取ったのだ。
ならば、自分が書いたものも、いつか誰かに何かを渡すことがあるかもしれない。
「剛さん」
カイが静かに言った。
「記録を残すことは、未来の誰かに読まれることを保証するものではない。読まれないまま終わる記録も、たくさんある」
「はい」
「それでも、残しておく意味はある。少なくとも、君が生きた時間を、君自身がなかったことにしないために」
剛は、その言葉を心の中で繰り返した。
自分が生きた時間を、なかったことにしない。
それは、思っていた以上に大切なことのように感じられた。
*
夕方、剛は図書館の休憩室でノートを開いた。
窓のような大きな映像には、図書館の内部に設けられた庭園が映し出されている。外の山の景色とは違う、不思議な景色だった。
剛はペンを持ち、今日の出来事を書き始めた。
記録が残っていない人たちのこと。
分からないことを、分からないまま残す意味。
そして、自分が暮らしてきた場所のこと。
書いているうちに、ひとつの記憶がよみがえった。
児童養護施設にいた頃、剛は一度だけ、同じ部屋の少年に本を貸したことがあった。
その少年は普段、本など読まなかった。けれど、剛が何度も読み返している冒険小説を見て、少し興味を持ったらしい。
少年は数日後、本を返しながら言った。
面白かった、と。
それだけのことだった。
少年の名前も、顔も、今でははっきりと思い出せない。どんな話をしたのかも覚えていない。
けれど、本を返してくれたときの声だけは、かすかに残っていた。
剛は、その記憶を書き留めた。
正確な名前も、日付も分からない。少年がどんな人生を歩んだのかも知らない。
それでも、あの日、自分の好きな本を誰かが面白いと言ってくれたことは、確かに自分の記憶の中にあった。
書き終えると、剛はノートを閉じた。
「こんな小さなことでも、いいんだよな」
誰にともなく、つぶやいた。
返事はなかった。
けれど、剛はもう一度ノートを開き、最後に一文を書き足した。
――分からなくなってしまう前に、覚えていることを書いておこう。
未来の誰かに読まれるかどうかは分からない。
何十年後にも残っているかどうかさえ、分からない。
それでも、今の自分には書くことができる。
剛はノートを大切にしまい、再び書架へ向かった。
帰る前に、まだ読んでいない一冊を選ぼうと思った。
そこにはきっと、かつて生きた誰かの時間が残されている。
そしていつか、自分が書いた言葉も、誰かの時間の一部になるのかもしれなかった。




