価値観の相違
「それじゃあニーナ、君はこれから……?」
セルディオ様に尋ねられると、私は当初の予定通り、先生のところへ帰ると口にした。
途端に、彼が焦ったように私の手を掴む。
「し、しかしニーナ、君の家はここだろう? 離縁届もまだ出していないし、君は僕の妻のままだ。だったら──」
「この屋敷を出た時点で、私はこの家の者ではなくなりました」
セルディオ様を落ち着かせるように、私はゆっくりと言葉を返した。
「たとえまだ離縁届が提出されていなくても、あの日、私はそのつもりでこの家を出たのです。ですから、今さら離縁届が提出されていないからといって、ここへ戻るつもりはありません」
「そんな……どうして……」
セルディオ様は、訳が分からないといった顔をする。
恐らく彼には、いまだ私が次期公爵夫人という立場にあるにもかかわらず、この屋敷へ戻ろうとしないことが、本当に理解できないのだろう。
幼い頃から筆頭公爵家の嫡男として育ってきた彼は、爵位や身分こそが何よりも価値のあるものだと思い込んでいるところがあるから。
「ここにいれば、たくさんの使用人達に傅かれて、何不自由なく暮らせるんだぞ? 僕だって、二度と君を冷遇したりしない。以前よりもっと君を愛して、大切にすると誓う。なのに、どうして戻ってこないなんて言うんだ?」
本気で首を傾げるセルディオ様には、きっと私の気持ちなど分かってもらえない。
たくさんの使用人達に傅かれることではなく、ほんの数人の心ある人達に囲まれて過ごす毎日が、どれほど幸せなものなのかなんて。
だから私達は、もう一緒には暮らせない。
元の暮らしに戻ることなんて、できないのだ。
根底にある価値観が──もう、違うものになってしまったから。
「ニーナさん……」
不安げに声をかけてくるシルに優しく微笑むと、私は改めてセルディオ様をまっすぐに見つめた。
「最後にあなたとこうして話し合うことができたことは、とても嬉しく思います。けれど、私達はもう、やり直すことはできないと思うのです」
静かに言葉を続ける。
「お互いがどれだけ謝罪しても、私があなたに傷つけられたことは事実です。そして、リンカ様と関係を持ったことも、なかったことにはなりません。ですから、私達は──」
「リ、リンカとは関係など持っていない! それに、あの女はもう追い出した!」
咄嗟に、セルディオ様が私の言葉を遮った。
けれど私は、それが嘘であることを知っていた。
この期に及んで、なぜ嘘を吐くのだろう。
リンカ様の妊娠が嘘であること。
二人が本当は愛人関係などではなかったこと。
そのことは、すべてリシテアから聞いて知っている。
だからこそ私は、二人が実際に関係を持ったことも、いまだにリンカ様が公爵邸にいることも知っていた。
それなのに、どうしてセルディオ様は、それを隠そうとするのだろう。
もう、全部今さらなのに……。
「セルディオ様」
静かに名前を呼ぶ。
すると、彼の肩がびくりと揺れた。
「私はもう、あなたを責めるつもりはありません」
「……だったら」
「だから、嘘を吐かないでください」
セルディオ様が息を呑む。
その顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。
「僕は……」
「事情があったんですよね? ですがそれはあなたの事情であって、私には関係がありません」
言い切ると、彼は言葉を失ってしまったかのように、呆然として私のことを見つめた。




