第2話 永遠の断絶、刹那の再会
第2話 永遠の断絶、刹那の再会
筐体のモニター越しに見る蘭の姿は、あまりにも鮮烈だった。
38歳の記憶の中にあった彼女は、常にスポットライトを浴び、あるいは厳しい勝負の世界で眉間に皺を寄せている「プロ」の顔だったはずだ。
だが、今目の前にいる彼女は、そんな未来を知らない等身大の20歳の女子大生である。
「……蘭」
「な、なに? 改まって。私の顔に、何か付いてる?」
蘭は不思議そうに小首をかしげ、少し照れくさそうに前髪をいじってみせた。
その何気ない仕草の一つひとつが、今の昴の胸を強く締め付ける。
未来の自分は、彼女のこの輝きを、自分の不甲斐なさゆえに曇らせてしまったのだ。
ゲームから逃げた自分と、高みへ登り続ける彼女。
その埋めようのない距離感に耐えられず、自分からその手を放したことを思い出す。
「いや……なんでもない。ただ、元気そうで良かったと思ってな」
「変な昴」
蘭はクスクスと笑いながら、昴の隣にある空席の対戦椅子に腰を下ろした。
この時期の彼女は、まだ「ゲーム好きの女子大生」という枠を出ていない。
それでも、彼女が選ぶキャラクター、野性味溢れるトリッキーなキャラ、ブランを操る指捌きには、すでに同年代のゲーマーたちを凌駕する片鱗が見え隠れしていた。
「ねえ、今の対戦、横で見てたよ。凄かった。……あんなアレン、見たことない」
「ああ、少し……コツを掴んだんだ。今までとは違うアプローチのね」
昴は努めて冷静に言葉を返した。
2009年現在、格闘ゲームの攻略はまだ「個人の感覚」や「地方ごとのローカルな戦術」に依存しきっている。
ネット対戦は普及し始めていたが、現代のように動画サイトで秒単位の正解が拡散される時代ではなかったのだ。
そんな中で、昴が先ほど見せた「完璧な確定反撃」と「無駄のないコンボ」は、周囲の人間からすれば魔法か、あるいはバグのように映ったに違いない。
「私にも教えてよ、その『コツ』。今、10連勝してるあの奥のザガド使い、すごく強くて困ってるんだよね」
蘭が指差した先には、一際大きな音を立ててレバーを叩く男の姿があった。
——鮫島剛。
こちらから離れた場所にいるからか、蘭に言われるまで、その存在を見逃していた。
そして昴は奥歯を自然と噛み締める。
未来の自分を格ゲーから遠のかせ、そして蘭とも距離を置くきっかけになった元凶。
圧倒的な反応速度と、当時の「壊れ性能」だったザガドの火力を武器に、この地域のゲーセンを支配していた暴君だ。
「……鮫島か」
「知ってるの? 最近この店に来るようになったんだけど、すごく態度が悪くて……でも、本当に強いんだよね」
蘭の声に、わずかな悔しさが混じっている。
彼女もまた、根っからの負けず嫌いだ。
この「強くなりたい」という純粋な渇望こそが、後に彼女を世界の舞台へと押し上げる原動力になるのだろう。
未来では、おそらく数日後にふたたびここで蘭が鮫島に挑み、徹底的に叩き潰される。
それを見た昴が加勢し、同じように惨敗を喫して——。
それが二人の関係が壊れ始める、決定的な引き金の一つとなったのだ。
自業自得と言えばそうなのかもしれない。
それでも、因縁の相手であることは間違いのない事実である。
「蘭、俺がやるよ」
「えっ、でも……」
「大丈夫だ。今の俺なら、一発も触らせない」
昴の言葉には、20歳の若者が持つ虚勢ではなく、38歳のプロを見続けてきた男だけが持つ「確信」が宿っていた。
昴は鮫島が陣取る向かいの筐体に100円玉を投入する。
コインが落ちる乾いた金属音が、開戦の合図のように響き渡った。
画面が切り替わり、アレンとザガドが対峙する。
対戦台の向こう側で、鮫島が鼻で笑う気配が伝わってきた。
「またお前かよ、春原だったな。何度やっても同じだっての。お前のチンタラしたアレンじゃ、俺のザガドには届かねえよ」
2009年当時のザガドは、開発調整が不十分で、異常なまでの攻撃判定と威力を誇っていた。
いわゆる「最強キャラ」の筆頭である。
だが、今の昴はすべてを知っている。
その異常な判定の裏側にある、わずかな「被ダメージ判定の隙間」を。
数年後にトッププレイヤーたちが血の滲むような検証の末に導き出した、対ザガド用特化型セオリーを。
——対戦開始。
鮫島はいつも通り、隙の少ない飛び道具を連打し、近づこうとする相手を長いリーチのキックで迎撃する戦術を繰り出す。
当時のプレイヤーにとっては、これだけで攻略不能な鉄壁の要塞に等しかった。
しかし、昴のアレンの動きは、その場にいた誰もが予想しないものだった。
飛び道具を、最小限の動きで軽々と回避する。
弾の合間を縫うように、一歩、また一歩と間合いを詰めていった。
「……っ!? なんで当たらねえ!」
焦った鮫島が、強引な迎撃を繰り出す。
それこそが、昴の待ち侘びていた瞬間だった。
「そこだ」
昴の指が、ダンスを踊るようにボタンの上を滑る。
ザガドのキックが空を切った刹那、アレンの拳がその脚を正確に、物理演算の限界ギリギリで捉えていた。
そこから始まるのは、2009年では誰も見たことがない、未来の最大効率コンボだ。
ゲージを贅沢に使い、キャラクターの座標軸をずらしながら叩き込む、精密機械のような連撃。
一撃。
二撃。
ザガドの体力ゲージが、あり得ない速度で溶けていく。
ゲーセン内の喧騒が、潮が引くように静まり返るのがわかった。
背後で見ていた草野が「……マジかよ」と呟き、蘭が息を呑む。
「は、ハメだ! そんなコンボ、繋がるわけねえだろ!」
鮫島が叫ぶ。
だが、これはハメなどではない。
徹底的なシステム解析の果てに辿り着いた、純粋な「技術」の結晶だ。
最後は、アレンの必殺技がザガドの巨体を宙に舞わせ、K.O.の文字が画面を鮮やかに埋め尽くした。
1ラウンド、わずか15秒。
一歩も退かず、一点の無駄もなく。
昴は、かつて自分を絶望させた男を、文字通り「赤子扱い」にしてのけたのだ。
「……本当に昴なの?」
呆然と立ち尽くす蘭が、隣で小さく呟いた。
昴はレバーからそっと手を離し、ゆっくりと蘭の方を向く。
「ああ。……少し、本気でやりたくなったんだ」
「本気……って、本気なんだ……」
「格ゲーも。それ以外のこともだ。もう、中途半端で逃げるのは止めるよ」
その言葉は、蘭に向けたものであると同時に、自分自身への誓いでもあった。
20歳の肉体に宿った、38歳の後悔と知識。
それが噛み合った今、この世界で自分に不可能などない。
そう信じられる魂があった。
「昴……」
蘭の頬が、わずかに赤らむ。
その瞳には、未来の彼女が自分に向けていた「失望」ではなく、純粋な「憧憬」が灯っていた。
それを見た瞬間、昴の胸の中にあった冷たい石のようなトラウマが、少しだけ溶けていくのを感じた。
だが、物語はまだ始まったばかりだ。
2009年の9月。
夏休みが終わり、明日からは大学の後期授業が始まる。
大学の講義、草野との馬鹿話、そして蘭と共に過ごす、かけがえのない日常。
未来では「何もない」と切り捨ててしまったそれらすべてを、今度は全力で守り抜き、さらにその先にある「伝説」を掴み取る。
「よし、メシでも食いに行こうか。蘭、草野。今日は俺の奢りだ」
「えっ、やった! 昴、太っ腹!」
「おーい、俺は高い肉しか食わないからな!」
騒がしい友人たちの声を背中で聞きながら、昴はゲーセンの自動ドアを潜り抜けた。
外は、ちょうど夜の帳が下りようとしている。
秋の夜風が、火照った体に心地よく吹き抜けた。
春原昴の、二度目の人生の時計が、激しく、そして確実に刻まれ始めた。




