第2話 赤い義手の誘い
最下層の忘却の淵にほど近い灰色のスラム街は、世界の底が腐り落ちたような場所だった。重く淀んだ空気の中を灰色の埃が渦を巻いて舞い、薄暗い上層からの光が廃墟のような建物群をぼんやりと照らしている。カビと錆と埃が混じった湿った臭いが鼻の奥を刺し、冷たい風が肌を這うように吹き抜けていた。遠くで鉄骨が軋む音が絶え間なく響き、この世界自体が苦痛に喘いでいるかのようだった。
その中心で、白い光が爆発的に弾けていた。
「ドゴオオオッ!」
カイは全身から白い夢光を爆発させながら、前方へ突進した。銀色の短髪が激しい光の奔流に逆立ち、青白い瞳が鋭く前方だけを捉えている。瘦せこけた体をボロボロの灰色の布切れで覆った彼の姿は、光そのものが形を持ったかのように輝いていた。
背後からは十人を超える採取官たちが、赤・青・緑と様々な色の夢光を武器化して迫っていた。赤紫の鞭が空を裂き、青い槍が地面を抉り、緑の刃が風を切り裂く。絶望的な数の包囲網だった。
「……邪魔だ」
カイの声は低く、しかしはっきりと廃墟に響いた。白い夢光がさらに勢いを増し、正面の採取官二人をまとめて吹き飛ばす。ガシャン! と廃墟の壁が崩れ落ち、大量の埃が舞い上がった。
(ミライは……無事なはずだ)
先ほど、彼女を安全な隠れ穴に押し込んだ直後だった。あの白い光の爆発で一時的に採取官たちを退けたが、すぐに増援が来た。カイは一人で囮になり、彼女を守るためにこの包囲網に飛び込んだのだ。
ハアハア……ハアハア……
狭い路地に逃げ込んだカイは、崩れた壁に背を預けて荒い息を吐いた。銀色の短髪が汗で額に張り付き、青白い瞳が後方を鋭く警戒している。体中が熱を持ち、白い夢光の残光が淡く体から滲み出ていた。冷たい廃墟の空気が肺に染みるように冷たい。
ザザッ、ザザッ。
路地の奥から複数の足音が近づいてくる。灰色の空気に、赤と青の夢光がチラチラと不気味に反射していた。
(まだ、追ってくるのか……)
カイは歯を食いしばり、右の掌に白い夢光を集中させようとした。しかし、疲労のせいで光が不安定に揺らぐ。指先が微かに震え、青白い瞳に焦りの色が浮かんだ。
その時、路地の出口に人影が現れた。
赤い外套を纏った長身の男だった。黒髪を無造作に後ろで束ね、鋭く細い赤い瞳が印象的だ。左腕は肘から先が赤く輝く夢光の義手で、まるで灼熱の炎を固めたような形状をしている。男——シキは、飄々とした笑みを浮かべて立っていた。
「おいおい、随分派手に暴れてるじゃないか。白い夢光……珍しいものを見せてもらうよ」
フッ、と軽い笑い声が路地に響いた。
カイは即座に身構えた。白い光を掌に宿したまま、青白い瞳を細める。
「……誰だ」
シキは動じることなく、赤い義手を軽く回した。キラッ、と赤い粒子が舞い上がり、路地の灰色の空気をわずかに染める。
「まあ、ゆっくり話そう。夢奪団のシキという者だ。君のその白い光、えらく興味がある」
遠くから採取官たちの足音が再び迫ってくる。ドタドタドタッ! 複数の色の光が路地の奥で揺らめいていた。
シキは面倒くさそうにため息をつくと、赤い外套を翻した。左腕の義手を一閃する。
ザシュッ!
赤い夢光の刃が路地の壁を斜めに切り裂き、崩落する瓦礫が採取官たちの進路を塞いだ。次の瞬間、シキは軽く手を振る。バギッ! という鈍い音とともに、飛び出してきた採取官の一人が赤い衝撃波に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
カイの青白い瞳が驚きに見開かれる。
(この男……強い)
シキは残りの採取官たちをあっという間に片付けると、赤い外套を軽く払い、カイに向き直った。廃墟の薄暗い光の中で、二人の姿は対照的に映えた。白い光を纏う少年と、赤い義手を持つ男。
二人は廃墟の奥にある隠れた部屋へと移動した。薄い光が天井の隙間から差し込むだけの、埃っぽい空間だった。埃の臭いが鼻を突き、壁に染みついた古い湿気が肌にまとわりつく。シキは壁に寄りかかり、赤い瞳でカイの白い夢光をじっと観察している。
「白い夢光か……上層の連中が一番欲しがる色だな。採取官どもが必死になるわけだ」
カイは少し距離を取って立ち、シキを警戒しながらも、青白い瞳に好奇心が宿り始めていた。
「……そうか。夢奪団、か」
シキは赤い義手を軽く握りしめた。ギュッ、という小さな音が響く。
カイは自分の掌を見つめた。そこに淡く灯る白い光の粒が、ゆっくりと指の間を流れていく。
シキが笑みを深めた。
「お前、奪われた夢を取り戻したくないのか?」
カイの瞳がわずかに揺らぐ。胸の奥で、何か熱いものがざわめいたような気がした。
シキは遠く、最下層のさらに深い闇を見つめた。表情が一瞬だけ厳しくなる。
「光統府の連中に奪われたものをな」
カイは静かに呟いた。
「夢は、誰のものでもない」
シキは小さく笑った。赤い瞳が細められる。
「……まあ、急ぐことはない。まずは生き延びることだ」
二人は廃墟から出て、灰色のスラムを移動し始めた。シキが先導し、カイはその背中を静かに追う。足元で埃が舞い上がり、遠くに上層の巨大な構造物のシルエットが、ぼんやりと浮かび上がっていた。
「お前のその光は特別だ。俺の義手と同じく……いや、それ以上かもな」
シキが振り返らずに言った。
カイの表情がわずかに緩む。青白い瞳に、好奇心が勝り始めていた。
「……興味深い」
しかし、その瞬間——
ゴゴゴ……。
遠くから、不穏な振動が伝わってきた。
シキの表情が引き締まる。赤い外套を翻し、カイを庇うように前に出た。
「……来たな。少し静かにしていろ」
カイは白い夢光を再び掌に灯し、覚悟を決めた。
廃墟の屋根の上から、二人の様子を静かに見下ろす影があった。灰色のマントを深く被った人物は、一切の気配を殺してこちらを観察している。
シキはカイを連れて廃墟の奥へと移動した。赤い義手を軽く光らせながら、淡々と説明を続ける。
やがて二人は、隠れ家のような場所に辿り着いた。わずかな光が差し込む、比較的落ち着いた空間だった。壁に染みた古い油の匂いと、遠くから聞こえる水滴の音が、静かな緊張感を漂わせている。
シキの表情が真剣になる。
「忘却の淵には近づくな……あそこは、特別だ」
そして、シキは最下層の巨大な縦穴の方角を指差した。
「お前がどうするかは自由だ。でもな……この世界は、夢を奪うことでしか回らなくなってしまった」
カイは静かにその言葉を噛み締めた。青白い瞳の奥で、白い光がゆっくりと揺れている。
突然——
ゴオオッ!
隠れ家の外で大きな物音が響いた。
シキが即座に赤い義手を構え、カイに目配せする。
「話はここまでだ。来てるぞ」
ドカン!
入口が破壊され、新たな採取官の集団が雪崩れ込んできた。十人以上。しかも先ほどより精鋭の気配がある。
シキは笑みを浮かべて戦闘態勢に入った。
「まあ、片付けるか」
カイは白い夢光を強く輝かせ、シキの隣に並んだ。銀色の短髪が光に照らされ、青白い瞳に強い決意が宿る。
「……一緒に戦う」
キラアアッ!
白い光が爆発的に広がり、隠れ家全体を白く染め上げた。
シキが赤い義手を構え、楽しげに笑う。
「さあ、夢奪団へようこそ」
ゴオオオオッ!
最下層の灰色の空を背景に、白い夢光を全身から放つカイと、赤い夢光の義手を構えるシキが並んで立っていた。遠くから迫る多数の採取官たちの光が、二人の周囲を包囲しようと迫り来る。
だがその時、二人の背後にある巨大な縦穴の奥から、まるで底知れぬ闇そのものが蠢くような、不気味な気配がゆっくりと這い上がってきていた。




