放浪王子の世間話
「――やってくれたね、ルイス」
それは、心底ふてくされたような声だった。新しい玩具を楽しみにしていたのに与えてもらえなかった不満を露わにする子どものような。事実彼は、期待に胸を膨らませていた“玩具”に出会えずじまいで、鬱憤を募らせているのだけれど。
少しぬるくなったお茶を一口啜り、ルイスはソーサーへ静かにカップを戻して、差し向かいに置かれたソファに腰掛ける男の、涼やかな翡翠色の瞳を見据える。彼さえ来なければ、今頃馬車に揺られ大河の橋でも渡っていただろう、と、もう何度目になるかわからない溜息を胸の底で吐き出しながら。早朝の出立の為に、夜半まで仕事を詰め込んで片付けたのが、すべて水の泡だ。
「折角、君の素敵なお嫁さんを見に来たっていうのに。ルイスに負けず劣らずの美貌って噂だったから、凄く楽しみにしてたんだよ」
そう言いながら、彼――ヴィクトル・ヴォルフリードは、薄赤茶色の水面に、角砂糖を二つ落とす。
「僕が手を出すと思った?」
冗談めかせた口調と、にやりと上がった口角に辟易としつつ、ルイスはゆったりと足を組み替えて、ヴィクトルの背後の壁に切られた窓から外を眺め遣る。雲ひとつない、突き抜けるように澄んだ青空。この天気ならば、ベルグローヴ・ハウスを取り囲む草花はさぞかし鮮やかで美しいことだろう。
「さすがに、他国の王太子妃に手を出したりはしないよ。そこらへんの“弁え”はある」
甘くしたお茶を啜るヴィクトルを一瞥し、ルイスはやれやれと肩を竦める。無類の女好きで有名な彼は、呆れるほど見境がない。時には人妻とだって平気で関係を持つ。そんな彼の言う“弁え”など信じられるはずもなく、やはりリリアを同席させなかったのは正解だったと、ルイスはつくづく思う。
しかし彼のその“女好き”は、感心することに、ある意味でどこまでも純粋な博愛主義によるものなのだった。誰に対しても別け隔てのない、驚くほど健全な愛情。故にヴィクトルは、多くの女性と浮名を流しても、誰かひとりに深入りすることはない。彼にとっては女を愛することと、たとえば動物や植物を愛でることは、殆ど同じなのだ。
もちろん、彼のそんな考えなど少しも理解は出来ないけれど。
「……わざわざ彼女に会う為にここまで来たのか」
「まあ、七割方はそうかな」
前回手紙を受け取った時には、大陸の北西側にある小国に滞在していると言っていた。その国の美しい姫君に随分と気に入られたので、暫くはここでのんびり過ごそうと思う、と綴られていた憶えもある。
そうだというのに、リリアに一目会う為だけに、母国へ戻るより先にここへ来たというのだから、心底呆れてしまう。ヴィクトルを気に入っていたという姫君は、果たしてどんな顔をして彼を送り出したのだろうか。
「それで、三割方は何なんだ」
「いつも通りの“世間話”に決まってるだろ」
甘みが足りなかったのか、ティースプーンでかき混ぜた後のお茶に、ヴィクトルは再び角砂糖をふたつ落として溶かす。そんな彼の、僅かに俯けられた顔を静かに見つめながら、ルイスはソファの背凭れにそっと寄りかかった。
第一王子のアルベリクが国王とともに政務をこなしているとはいえ、一国の王子であるヴィクトルに、まったく責務がないわけではない。
それでも、彼の家族が息子の気ままな放浪を許しているのは、ヴィクトルが大陸のそここで拾い集めて持ち帰る様々な“世間話”が国家運営において時に有益となるからである。特に、各国の市井の状況は興味深いもので、そこにひっそりと滲む仄暗い翳りのようなものは、その国の未来を暗示する場合もあるのだ。彼のもたらす情報のおかげで、事前に難を回避出来たことは幾度となくある。
「あっちこっちの国で、色んな話を聞いてきたけど」
もう一度ティースプーンでお茶をかき混ぜ、ヴィクトルは上品な所作でカップを持ち上げる。
「一番やばそうだなと思ったのは、やっぱり僕たちの“ローデリア王国”かな」
窓の外を鳥が羽ばたいていったのか、黒く丸い影が部屋を横切ってゆく。気分転換にとセドリックが開け放っていった窓から、夏の気配をはらんだあたたかな風が流れ込み、薄いカーテンの裾をふわりと膨らます。
「最近、ますます暗澹としてるって話を聞いてさ。ちょっと気になって、国境まで足を伸ばしてみたんだけど……あれはもう駄目だろうね。対岸から眺めただけでも、退廃の臭いがぷんぷんしてたから」
ローデリア王国は、賢王と称される先代の国王統治時代までは、実に大人しい国だった。他国に喧嘩を売るようなことも、禍根を残すような真似をすることもなく、ただ静かに、堅実に、自国の繁栄だけを目指して歩んでいた。
けれど、先代が没した後に王位を継いだ現国王の代になってから、その気風は大きく変わった。膨張を目論むだけの強硬な外交。近隣諸国への行き過ぎた内政干渉。そして、民の苦しみなど歯牙にもかけない非情な政策。
ローデリア王国のその豹変には、現国王自身の事情が深く関わっている――と、言われている。
この世界において“国力”というものは、文化的或いは商業的発展の他に、顕現者の数と質にも大きく左右される。それが最も影響するのが、軍事力だ。顕現者の数や質は、そのまま国家の強さに直結する。如何に多くの顕現者を、そして多種多様な異能を揃えられるかが鍵であり、故に、顕現者は“国家財産”と扱われることが多い。
しかし、ローデリア王国では年々、顕現者の数が減少していた。発現率の低下に加え、圧政に耐えかねて国外へ脱出する者も後を絶たない。
このままでは、嘗ての繁栄も空しく、国力は緩やかに衰退の一途を辿ってしまう――。その危機を前に、議会も民も、全ての責任を国王ひとりに押しつけていた。顕現者が減っているのは、国王が異能を持たないからだ、と。だからこの国は、王とともに神に見放されてしまったのだ、と。そうすることで、未来への漠然とした不安から目を逸らし、或いは打ち消したいのだろう。
「“二人目の王子が異能を持っている”って噂、どうやらあれは本当らしい。けど、国王はそんな彼をもう何年も牢に幽閉してるんだとさ。王位を奪われるのを恐れて」
議会や民の殆どが“異能を持つ国王”を渇望しているのなら、王位の簒奪を危惧するのも無理はない。放っておけば、周りから担ぎ上げられるであろうことは、火を見るよりも明らかなのだから。
「敵国をでっち上げて戦争を起こすか、或いは、内乱の勃発か。……どちらにしろ、何かは起こるだろうね。ベルナルト王国はもう、国境の警備を強化し始めたらしいよ」
深々と溜息を吐きながら、ヴィクトルは苦々しげに眉を寄せた。どちらに転ぼうと、多かれ少なかれ影響は避けられまい。
「だから、オルフェリア王国も早々に警戒を強めた方が良いよ、って教えようと思ってたんだけど……その必要はなさそうだね」
そう言って、ヴィクトルは何かを思い出したように、突然くつくつと喉の奥で笑った。
「実は昨日さ、街で“女装した彼”に会ったんだ。いやあ、びっくりしたよ。声をかけられても、全然気付かなかった」
ああ――と、複雑な心境でひとりの男の顔を脳裏に思い浮かべながら、ルイスは静かにカップへと手を伸ばす。仕事の依頼をする為に、辺境にいた彼を呼び寄せるよう指示を出したのは、紛れもなくルイス自身だ。けれど結局、遣り取りはすべてユリウスに押しつけ、顔を合わせることは一度もしなかった。――絡まれると、色々と面倒なのだ。それを、これまでの付き合いで嫌と言うほど思い知っていたので、だからわざと避けていたのだけれど。まさかリリアが遭遇してしまうとは、思ってもいなかった。
「前回会った時は老爺だったからさあ。しかも、よぼよぼの。会う度にあそこまで変わられちゃあ、本人かどうか見極めるのは、ユリウスの目でないと難しいだろうね」
ひとりで勝手に納得したように首を竦めるヴィクトルから視線を逸らし、ルイスは薄茶色の水面に視線を落とす。彼女は今頃どの辺りを進んでいるのだろうか――。ふとそんなことを考えながら、持ち上げたカップを徐ろに傾けると、リリアが愛用しているという薔薇のオイルの、華やかでとてもやさしい匂いがふわりと薫ったような気がした。旅路は、何の滞りもなく、順調に進んでいれば良いのだけれど。
「それにしても、随分と反応が薄いね。“お隣さん”の話には興味なくなった?」
からかうようなヴィクトルの声に、ルイスはゆっくりと瞬きをひとつ返す。
「べつに。そうではない」
「へえ。でも、前は凄かったじゃん。なんというか、執念が滲み出てた」
そう言って彼は組んだ足に悠然と頬杖をつくと、ルイスの双眸を真っ直ぐに見つめながら、にんまりと笑った。どこか興味深そうに、或いは心底愉しそうに。
「もしかして――復讐よりも大事なものでも、見つけた?」
***
メアリによれば、この屋敷では“夫妻は同室”であるのが習わしなのだという。
それは、この建物を造らせた六代前の国王の時代から続くもので、故に寝室はひとつきり、ベッドも、ふたりで眠るには十分すぎるほど大きなものがひとつ置かれているのみ。なにせここは、愛する王妃の為に建てられた屋敷だ。仲睦まじい夫婦の理想が、隅々にまで詰め込まれているのだろう。
しかし、いつの世もそれが普遍であるわけではない。中には、彼らのようにはなれなかった夫婦もまた存在するのだ。そしてそれは、ルイスとリリアも同じことであった。
王城では今も尚、結婚時の取り決め通りに、別々の寝室を利用している。互いの部屋を行き来したこともなければ、もちろん、同じベッドで眠ったことすら未だ一度もない。
それなのに、まさかこんなことになるだなんて――。もう何度目になるか分からない溜息を深々とつきながら、リリアはがっくりと項垂れる。色々理由をつけて別の部屋を用意してもらうことも考えはしたが、しかし、屋敷を見て回った結果分かったのは、ここには寝室に使えそうな部屋が驚くほど少ない、ということだった。リリアたちに充てがわれた部屋の他には、小ぢんまりとした質素な寝室が幾つかあるだけで、それらは既に、メアリやエリオット、年若いメイドと、それから護衛の隊士たちで埋まってしまっていた。
せめて、ベッドがふたつあれば良かったのだけれど。そんなことを思いながら、リリアはゆっくりとソファから立ち上がる。うだうだと考え込んでいても仕方がない。部屋が足りない以上、どうすることも出来ないのだから。
ならば少しでも気を紛らわせようと廊下へ出てみるも、しかしだからといって行く宛があるわけでも、することがあるわけでもなかった。静養中はゆっくり身体を休めるようにと、勉強に必要な書物は全てクラリスに取り上げられてしまっている。広くのない屋敷は既に隅から隅まで見て回っているし、美しい庭園の散歩は、なんとなくひとりでは寂しくて、足を向ける気になれなかった。
“何にもすることがない”という時間が、こんなにも心細く、落ち着かないものだとは思わなかった。手持ち無沙汰に廊下を歩きながら、リリアは小さく溜息を落とす。エリオットは忙しなく働き回っているし、警備をしている隊士たちに話し相手になってもらうわけにもいくまい。
人気のない廊下を暫し行ったり来たりしながら散々悩んだ挙げ句、やがてリリアは階段を降り、メアリのいるキッチンへと足を踏み入れた。
「あの、もしご迷惑でなければ……何か、お手伝いさせていただけないでしょうか」
小麦粉の入った茶色の紙袋を抱えてパントリーから戻ってきたメアリに、おずおずと声をかけると、彼女はやわらかな目をまん丸くさせ、恐縮しきった様子でかぶりを振った。
「そんな、リリア様にお手伝いいただくなど、とんでもございません!」
「ですが……実はすることが何もなくて……」
そう言って苦笑をこぼすと、メアリは一瞬きょとんとした顔になり、それからふっくらと微笑んだ。
「では、一緒にクッキー作りなどいかがでしょう? ちょうどこれから焼こうと思っていたのですよ」




