沈黙よりも雄弁なもの
王城に併設された礼拝堂の石段をゆっくりと登り、アーチ型をした重厚な扉をそっと引き開く。木の軋む微かな音が立ち、しかしそれはすぐに夜気の中へ溶けて消えると、しっとりとした静謐な空気だけが辺りをやさしく包み込む。白と黒のタイルが敷き詰められた身廊、アプスの中央に据えられた荘厳な祭壇、それを取り囲むようにして配されたランセット窓、色鮮やかなステンドグラスの嵌め込まれたトレーサリー。
等間隔に幾つも並べられた長椅子の最前列に、蒼白い月明かりに照らされた白銀の後ろ姿を見つけたユリウスは、後ろ手で静かに扉を閉めながら小さく息をつく。どうせここにいるのだろうということは、初めから見当がついていた。何かに行き詰まった時、或いはひどく悩んだ時、彼は度々ここでひとり考え込んでいる。神にではなく、恐らくは、地下に眠る大事な兄にでも相談しながら。
もし、あいつが生きていたら――。らしくなく力のない後ろ姿を暫しじっと見つめ、ユリウスはやれやれと肩を竦めながら思う。もし、あいつが生きていたら。そうしたら、あいつはどんな言葉を彼にかけて遣るのだろうか、と。
ステンドグラスの落とす幾何学的な模様を踏みしめるように身廊を進む度、神秘的な静けさの中に靴音だけが高く響き渡る。扉を開けた時から闖入者には気付いているだろうに、蒼白く浮かび上がる後ろ姿はぴくりとも動かない。まるで魂の抜かれた人形のように。気怠げに腰掛け、顔を俯かせたまま、ただただじっとしている。後ろ毛の間から覗く白い項が、何故だかひどく無防備に見えた。
「なに馬鹿なことしてんの」
溜息をつきながら、ユリウスは細い通路を挟んだ隣の長椅子にどさりと腰掛け、祭壇の上に飾られた主神像を見るともなく見上げる。神を信じたことなど、一度もない。彼らは、所詮幽霊などと同じようなものだ。実態のない、この世に存在しないもの。そんなまやかしに縋ったところで、いったい何になるというのだろう。人を救うことが出来るのは、結局、この世に実在するものたちだけなのだから。
「あんなことすれば、彼女が崖っぷちに立たされることくらい、分かってるよね」
返事は、ない。けれど、そんなことは全く気にせずに、ユリウスは固く垂直な背凭れにゆっくりともたれかかる。そもそもはじめから、返事は期待していない。彼女がどうなってしまうか、そこに考えが及ばないほど彼が愚鈍でないことは理解しているし、今はそれさえ分かっていれば十分だった。
「彼女、君が出て行った後も超然としてたよ。……まあ、形だけだけど」
殿下は政務でお忙しいのです、と、穏やかな口調でそう告げた彼女は、優雅な所作で流れるように一礼をすると、やさしく美しい微笑を湛えたまま、すっと背を伸ばて大広間を出ていった。まるで何事もなかったかのように。
けれどもそれらは全て、完全な“作り物”だった。“演じていた”というより、“無意識に超然としていた”と言った方が正しいだろう。恐らく彼女は、何ひとつ憶えてはいないはずだ。見ているようで見てはいなく、聞いているようで聞いてはいない。顔を寄せ合って嘲笑をする人々も、ひそひそと囁かれる嘲りも、何もかも。青い瞳の奥は、ひどく虚ろだった。心ここに在らず。そんな彼女はまるで、操り人形のようだった。
「あれじゃあ、噂は尾鰭をつけて、今以上に広まるだろうねえ」
主神像から目を逸らし、隣の長椅子へちらと視線を向ける。俯いた横顔は、影に塗り潰されているせいで判然としないけれど。しかし、左目にはちゃんと視えていた。激しく揺れ動く、彼の魂が。
魂と心は似て異なるものではあるが、その実、ふたつはとても深い繋がりを持っている。性質は別であるが、根底に存在するものはきっと同じなのだろう。心が動けば、だから魂もまたそれにつられて、同じ様に動く。謂わば鏡写しだ。
だからこそ、彼の“沈黙”が何より雄弁に映るのだ。故に、無言にはなんの意味もない。魂を視てしまえば、それで済むのだから。ルイスだって、それは十分に理解しているはずだ。彼が返事をしないのは、恐らくは本心を隠したいからではなく、ただそうするだけの気力がないせいだろう。或いは、自身の本心を受け入れられずにいるのかもしれない。言葉にすれば、否が応でもそれを呑み込まずにはいられなくなってしまうから。
「――彼女の異能が、怖い?」
静寂の中で、蒼白く照らされた唇が微かに震えたような気がした。気の所為だったのではないかと思うほどの、ほんの僅かな、震えともいえないような小さな震え。
あと幾許かで指先が触れようとしていた、あの瞬間。ルイスが視ていたのはリリアの双眸ではなく、差し伸ばされた彼女の右手だった。傷を癒やし、そして異能が発動するきっかけともなった、あの右手。
ルイスが拒んだのはリリア本人ではなく、正しくはあの右手だった。恐らくは意図してではなく、本能的に。その証拠に、ルイスの瞳は動揺を隠しきれず、僅かに揺らめいていた。反射的な行動に、もしかしたら一番驚いていたのは彼だったのかもしれない。遠ざけるつもりなど、ルイスにはまるでなかったのだろうから。遠ざけ、彼女を傷つけるつもりでいたなら、もっと残酷な言動は幾らでも出来たはずだ。
よりによって――。そっと視線を逸らし、主神の足元に散らばる蔦や花のレリーフを眺めながら、ユリウスはひっそりと溜息をつく。リリアの持つ異能が、精神系のものでさえなかったなら。或いは、原理の分かりやすいものであったなら。それによって二人が傷つくことはなかったかもしれない。
「いや、違うね。彼女の“異能”が怖いっていうより……」
台座の上に佇む崇高な巨像を見上げ、ユリウスはゆっくりと足を組み替える。世界を作り、人間を生み、そして偉大なる英雄に勝利をもたらしたともいわれる、神々の始祖。大理石で精巧に造られた白い顔に浮かぶ、慈愛に充ち満ちたやわらかな微笑みは、しかしランセット窓から差し込む月明かりのせいか、いつにも増して影が濃く、陰鬱そうに見える。
「過去を視た彼女の反応が怖かった、っていうのが一番近いかな」
息を呑む気配が微かにして、ユリウスはふっと小さな笑みをこぼす。珍しい、と思った。今まで誰に何を言われようと、表面上は常に我感せずを貫いていたあのルイスが。まさかたったひとりの女性の言動に、本能的とはいえ反応を示すようになるだなんて。
「リオネルが死んだ時の記憶を視て、彼女が君を嫌悪すると思った? 罵ると思った? 他の奴らと同じ様に。君が死ねば良かった、って。あいつが死んだのは君のせいだ、って。そう言うと思った?」
リオネルが亡くなった後の、ルイスに対する周囲の罵詈雑言は、聞くに堪えないほど惨たらしいものだった。
元々、彼に対する嘲笑がなかったわけではない。女と見紛うほどの美貌と小さな体格のせいで、影でひそひそと揶揄されていたのは知っている。治癒の異能があると知れ渡ると、彼は王族ではなく聖女の方が向いているのではないか、と嗤う者もいたほどだ。
しかしそれでも、リオネルが生きている間はまだ良かった。彼が弟を大層可愛がっていることは、誰の目から見ても明らかだったから。恐らくリオネルは、ルイスに対する陰口の数々を知っていたからこそ、人目も憚らず弟を溺愛していたのだろう。それはルイスにとって、一種の護りでもある。故に、リオネルが健在の間は、ルイスに対し表立って嘲りを投げつける者は殆どいなかった。
だが、“あの事件”でリオネルが死ぬと、周囲の態度は一変した。元々ルイスに好意的でなかった奴らはもちろん、これまで彼に対し友好的だった奴らさえ。誰も彼もが、リオネルの死をルイスのせいにした。致命傷を負わせたのは隣国の顕現者であり、そして、異能を使おうとしたルイスを拒んだのはリオネル本人だった、と、その事実を知っていながら。それでも奴らは、好き勝手に言い放った。
何で弟の方が生きているんだ。
お前が代わりに死ねば良かった。
その為の“異能”だろう。
ただ我が身が可愛かっただけだ。
お前は兄を見殺しにしたんだ。
リオネルを殺したのはお前だ。
普段あんなにも温厚なセドリックが、ルイスを罵る伯爵に酷い怪我を負わせて処分を喰らったのはその頃のことだ。あの時ほどセドリックが怒り狂っている姿を見たことはない。悔しくてたまらなかったのだろう。リオネルを亡くしたことも、ルイスが非難を浴びていることも。
担架で運ばれてゆく伯爵を見送りながら、馬鹿だ、と思ったものだ。どいつもこいつも馬鹿だ、と。ここには馬鹿しかいない、と。
リオネルがルイスを大事にしていたのは、周知の事実だったはずだ。目に入れても痛くないというほど、彼は弟を可愛がり、心底大切に想っていた。だからリオネルは、自分の命よりルイスの命を守ることを選んだのだ。迷いなんてものはなかっただろう。治癒を拒む彼の言葉は、か細いながらも、きっぱりとしていた。
そうだというのに、彼が最後まで守り抜いたルイスを貶めるというのは、奴らが信奉するリオネルの意思に反することだと、何故誰も分からないのだろう。




