21 闇の具現化
エヴァは意識が圧し潰されそうな強圧の中で、なぜか不思議な平静さを保っていた。
それは狂おしいほどの苦痛を受け続けながらその中に浸り切っている感覚、つまり、伴侶である教授を失ってからのエヴァ自身の心の中によく似ていた。
悔恨に身を苛み、喪失の悲しみを感じ続けること。
それは贖罪ではなく、また愛したことの証明にもならない。
そんなことはわかっている。
それでも心が炎で炙られるような痛みと悲しみの中で生き続けることは、エヴァにとってはそうあらねばならない必然であり、そうするしかなかった選択でもあった。
闇の中を漂いながら、エヴァは近くに巨大な火柱が立つのを見た。
燃え盛る炎は火炎龍のように身をくねらせ伸び上がった。
エヴァの周囲にまで火炎の飛沫は届き、暗闇の中で何かに当たって爆ぜた。
その方向には何かしら知覚を押し返す抵抗感がある。
それは暗黒の『底』だった。
自分がどこに転送されたかもわからないエヴァだったが、何かの『底』に近づいているということは感じられた。
エヴァは意識を闇の空間に延々と広がる『底』に向けた。微かな波動がある。
それは不安と恐怖、動揺だった。
炎の衝撃を受けて、闇の中に潜んでいたもの達がざわざわと蠢いている。
恐れおののく感覚は哀しみに染まったエヴァにとって近しいものだ。
エヴァは吸い寄せられるように『底』に沈んで行った。
闇の底にひしめき合っていたもの達が、痩せた細い腕を伸ばして、赤い喪服を着たエヴァの身体を引き寄せようとする。
無数の黒い触手がエヴァにまとわりつき、絶対に離すまいと幾重にも巻き付いた。
エヴァは自分が『底』に沈み、何か多くのものに覆い尽くされるのを感じた。
黒い微細なものがエヴァに群がり、意識の身体を貪り始めた。
それらはとても哀れでちっぽけなもの達。
エヴァは知る故もなかったが、それらはかってロストして障壁に沈んでいった失われた魂達だった。
黒いものの中に、一つだけとても懐かしいものがいた。
エヴァはボロボロと崩れかけた手でその小さな黒い影を掬い上げた。エヴァの記憶が反応した。温かな気持ちがこみ上げて来て、エヴァの心を満たした。
黒い影を抱き、唇を寄せる。
エヴァは嗚咽した。ようやく会うことができた。
自分はここに来るために、哀しみの淵に沈みながら生き続けて来たのだと悟った。
─あなた。
小さな呟きを残して、エヴァの意識は消滅した。
世界が反転している。
荒神は自分がどこにいるのかわからなかった。
どうして意識を保っていられるのかもわからなかった。
吸い寄せる異世界の流れに身を委ね、確かに障壁の裂け目に飛び込んだはずだった。
そうして気がつくと。
すべてが反転していた。
境界を越えた向こう側は、反転した世界の記憶深層だった。
荒神は自分の考えて来たことが正しいことを知った。
自分がいた世界と『対』である世界に飛び込んだのだ。『対』という概念は宇宙をも包有していると。
すべてのものには相対する概念がある。
表と裏。正と負。増と減。生成と消滅。光と闇。物質と反物質。
そして時間という次元の上でも過去と未来がある。
それは可と否としても成り立つ。
どうしてあらゆるものが『対』となっているのか。
おそらく『対称性』を持たない次元は『偏在』であるのだろう。
『偏在』または『普遍』は高次元と同義ではあるが、宇宙が生まれる以前の極微の世界がそのようなものなのかも知れない。
インフレーションが起きる以前には時間も空間もなかった。エネルギーの振動を持たず、同時に冷えきってはいない世界。
すべてが有り、すべてが無い世界。
物質と反物質が誕生した瞬間に、宇宙と『対』となる反宇宙も生まれた。
それが異世界だ。
人間の脳では知り得ることは不可能なのかもしれない。しかし荒神はそれを見たいと希んだ。魚が水の中しか知らず、だが水面から空を仰ぎ見るように、人間も高次な世界を、それは世界という概念でもないのかも知れないが、知ることは不可能ではない。
ただ空の遥か上には宇宙空間が広がっている。
数億の銀河系が存在している。
この世界に連なって、更に高次なものが続いている。
荒神は唯そのことを確信したかったのかも知れない。
しかし。
ここではないのかもしれない。
荒神の無窮の意識は空間を見渡し反問した。
異世界の記憶深層を上昇すれば、物理的空間と時間を持つ四次元世界に具現化することになる。異世界の銀河を見ることもできよう。それはおそらく摂理の反転した世界として認識されることになる。
想像することすら困難で、認識できるかさえわからない世界。
だがあくまでそれは『対』の概念の中に含まれた範疇にある。より高次な存在に近づこうとするならば、ここではないどこかに進むべきではないのだろうか。
不意に、荒神の意識を燃えるような焦燥が焦がした。
……ここではなかったのか。
背後を振り返る。それさえも反転。
戻らねば。それさえも反転。
意識を彼方に向ける。それさえも反転。
荒神の意識は激しくもだえた。瞬間に悟っていた。
次元境界。
物理の対称性を生む境界面は、非物質の意識世界の涯にあった。
その境界にあるおそらく折り畳まれた次元こそが、荒神の希求する高次の存在だったのだ。
戻らねば!
荒神の意識は焦燥し、燃えるように振動した。
アイラーは中央官制室の指揮官席から立ち上がった。
正面のスクリーンには転送中であるDCの演算処理状況が立体イメージで表示されている。
処理されたデータ量はまだ全体の一割にも満たない。
じわじわと嵩を増すその速さはもどかしいほどだったが、アイラーは苛立った様子を見せず、むしろ笑いを噛み殺すように頬をうごめかせていた。
「とうとうくたばりやがった!」
アイラーは眼を剥き、嘲りの声を上げた。
「ざまを見ろ、荒神め!」
傍らにはカイル・ローゼンタールが茫然とした表情で立ち尽くしている。アイラーはゴールを決めた選手を讃えるように肩に腕をまわし、ぐいと引き寄せた。
「よくやった、カイル。君の設計した仮想装置は素晴らしい!」
くぐもった笑い声を立てる。
「それに比べてアサヒナのなんと無様なことよ!」
耳元で声を上げるアイラーに、カイルは顔をしかめて言った。
「まだ演算中だ。安心はできない。こちらのサーバに保存されるまでは」
「まぁ、細かいことは気にするな」
アイラーは上機嫌に言った。
「こちらが捕獲したという事実さえあればいい。実際、あれの使い道など誰もわからないのだ」
不審の眼を向けるカイルに、アイラーは肩をすくめてみせる。
「アシュレイ以外はな」
「アシュレイ?」
「偉大なる父だ」
カイルは首に巻かれたアイラーの腕を外すと、正面から向かい合った。
「アイラー」
「なんだ?」
「協力すれば私の記憶を戻してくれる約束だった。自分ならそれができると」
「確かにそう言ったな」
アイラーは肯定した。
「それでは」
「まだだ」
カイルは息を呑んだ。
「なに?」
アイラーはスクリーンに眼をやった。処理量は三割ほどに達している。
別のスクリーンに並んだ画面では演算中のデータが光の滝のように流れ落ち、赤く明滅するエラー個所が瞬時に修正されている。
「あれが、確実に手に入ってからだ」
先程とは矛盾したことを平気で言う。
「本当だな?」
カイルは険しい眼でアイラーを見つめた。
「サルベージした優の人格はどうなっている?」
「回収したプローブはNYのセント・トーマス病院に転送した」
「ニューヨーク……」
「あの病院は連盟の直轄施設だ。向こうで処理しているだろう」
アイラーは投げやりに言った。
「それ以上は知らん」
カイルは出掛かった抗議の言葉を呑み込んだ。
アイラーの急変する対応は今に始まったことではない。
言動に短絡的な幼児性があり、感情が安定していない。高圧的な物言いは危険だった。
「私をその病院に」
カイルは懇願する口調で言った。
「妻のところに行かせて欲しい」
アイラーは物憂げにカイルの顔を眺め、ぼそりと言った。
「もちろんだ」
「……」
カイルはごくりとつばを呑み込んだ。
「ありがとう」
「君達を粗略に扱うなといわれている」
アイラーは暗記した文章を読み上げるように言った。
「偉大なる父からな」
「アシュレイ……?」
「そうだ。アシュレイ・アシュクロフト」
秘密の呪文を唱えるように、アイラーは低く囁いた。
「この世界のすべての発展を導いた偉大なる父。そして人間の進むべき道を知っている、唯一の御方だ」
アイラーはカイルを見つめながら言った。
「いずれ、会うことになるだろう」
朝比奈博士はコントロールステージの床に座り込んでいた。
髪は乱れ、放心したように虚脱した表情を浮べている。
しかし、誰も老科学者を抱え起こそうとはしない。
管制室にいた全員がスクリーンを茫然と見つめ、立ち尽くしていた。
「何が起きた?」
朝比奈は低く呟いた。
「いったい、何が、起きたんだ……?」
眼の前に暗い人影が立った。朝比奈は呆けた顔で、影を見上げた。
「朝比奈博士。あれはなんですか?」
湯浅は静かに言った。
老博士は人形のように首を振った。
「わからない」
「わからない? わかるでしょう? あれは米軍の次元捕獲装置です」
「米軍、だと?」
「まったく、どうやって我々のオペレーション・フェーズにアクセスできたのか」
湯浅は腕を組むと、へたり込んだ老人を見下ろした。
「いや、それよりも、この計画は完全に失敗しました」
「失敗……?」
朝比奈は虚ろな視線を向けた。
「そうです」
湯浅は冷たい笑いを浮べた。
「そして、この事態を招いたのはあなたです、朝比奈博士」
「私が?」
「そう。すべてあなたの責任です」
朝比奈は髪の乱れた頭をがくりと垂れた。
「連行しろ」
湯浅は自衛軍兵士であるセキュリティに声をかけた。
「情報漏洩の疑いがある。第一種拘束で、隔離して監視するんだ」
セキュリティ達に抱えられた朝比奈に背を向け、湯浅はステージ中央に立った。
これで実務だけでなく、研究指揮権も手中に収めた。
このラボ・タワーをすべて掌握したのだ。
ステージ前列の主任オペレーターが不安げに自分を見つめている。
気がついた湯浅は鋭く声をかけた。
「コクーンからエントリーした生体のバイタルは?」
主任オペレーターはデータを確認して振り向いた。
「問題ありません。間もなく全員が覚醒します」
「よし。モニターを続けろ」
湯浅はスクリーンを見つめ、満足げにうなずいた。
コクーンの上蓋が上昇し、白い光が流れ込む。
ケインはうっすらとまぶたを開け、眩しさに顔をしかめた。
光が網膜を刺激して痛いほどだ。
確かに長い間、ケインの意識は記憶の最深層の闇の中にいた。仮想世界でのバトルの後は、必ず現実の時間感覚との乖離を感じる。
一体自分はあの闇の世界にどれだけの時間、捕われていたのだろうか。
メディカルスタッフ達が水平になったリクライニングシートからケインの上体を抱え起こす。
咥えていた呼気挿入管を引き抜くと、ケインは激しくえずいてボディスーツの胸元に苦い胃液を吐瀉した。
肩口に圧縮注射器を押し当てられるとすぐに呼吸が楽になり、ケインは大きく息をついた。
「血圧、心拍共に安定しました」
スタッフがスーツのバイタル表示を読み取る。
「何か異常を自覚できますか?」
別の女性スタッフが声をかける。
ケインは目頭を押さえて頭を振った。身体の筋肉がひどく強張っている。
コクーンの中に横たわっていただけなのに、激しい運動をした後のように重い疲労感が全身を覆っていた。仮想世界で受けたとてつもないストレスは、現実の身体にも強いダメージを与えている。
隣のコクーンが開き、ボディスーツを着た飛鳥が身体を起こした。
顔は汗にまみれ、長い黒髪が貼り付いている。飛鳥はスタッフの手を借りてフロアに脚を降ろすと乱れた髪をかきあげ、疲れた眼でケインをじっと見つめた。
「なんとか、帰れたわね」
嗄れた声で言う。
ケインは黙って飛鳥を見つめ返した。
確かに生きて現実世界に戻って来られたのは奇跡のように思えた。
それ以上にあまりにも多くの出来事が起こりすぎていて、どう言葉にしていいのかわからない。
眼の前を黒い影がよぎった。スーツを着た斉藤が飛鳥の前に立った。
「どういうことだ?」
詰問する口調で斉藤は言った。
「どういうことなんだ、これは!」
飛鳥は答えずに横を向いている。
斉藤は怒気のこもった声を上げた。
「答えろ!」
ケインは驚いて斉藤の背中を見上げた。
「斉藤さん!」
喉が詰まったように上手く言葉が出ない。
「どうしたんだ?」
「答えるんだ! 飛鳥!」
斉藤は飛鳥の肩を両手で掴み激しくゆさぶった。
「どうして『闇』は現れないんだ!」
飛鳥は眉根を寄せて答えた。
「現れたわ」
「では、なぜ!」
「奪われたの」
「な?」
斉藤は絶句した。
「痛いわ、離して」
「奪われた……」
斉藤は茫然として言った。
「一体、誰に?」
「止めるんだ、斉藤さん!」
ケインはふらつく足で歩み寄り、肩に手をかけた。
斉藤は振り向いた。その顔は青ざめ、眼は焦点を失って泳いでいる。
これほど激しく動揺している斉藤は見たことがなかった。
「ケイン? お前、障壁を……」
「ああ。俺は障壁を、切り裂いた」
ケインは言った。
「そして俺は、母さんを助け出した」
「『闇』は?」
斉藤は再び呻くように繰り返した。
「『闇』は現れなかったのか?」
「闇?」
飛鳥はケインに視線を向けた。
「探索者のことよ」
「あれが『闇』だと?」ケインは訝った。
「《《あなた》》、聞いて」
飛鳥は斉藤を見上げた。
「もともと朝比奈はあの異世界の情報を捕獲するつもりだった。それはあなたも知っていたはずよ」
「そんなことができるはずがない」
斉藤は険しい声を上げた。
「荒神は、そう言っていた!」
「本気で信じたの?」
飛鳥は声を強めた。
「朝比奈はそのための仮想装置を完成させていたのよ。でも朝比奈の装置は崩壊した。そして突然現れた別の仮想装置が『闇』を取り込んで離脱して行ったわ」
「なんだと……」
「私は見た。同じことを考えていた者がいるのよ」
「……米軍か」
斉藤は中に視線をさまよわせ、拒絶するように叫んだ。
「いや、そんなことは不可能だ!」
「いいえ。こちらの計画は、完全に漏れていたのよ」
飛鳥は肩から斉藤の手をのけると、ゆっくりと立ち上がった。
「向こうが何枚も上手だったようね」
「…………」
立ち尽くす斉藤の傍らをすり抜け、飛鳥はケインの手を取った。
「行きましょう、ケイン」
「飛鳥、さん?」
憔悴した顔に頬笑みを浮べ、飛鳥はケインを見た。
「あなたの妹もここのコクーンからエントリーしている。探深錘に誘導されて、もう帰っているはずよ」
「わかった」
ケインは深くうなずいた。
「行こう、ミオのところへ」
「ええ」
飛鳥は頬笑みを浮べた。
「そしてみんなで会いに行きましょう。アメリカにいる優に」
茫然として佇立する斉藤を残し、飛鳥はケインの手を取って歩き出した。
通路に出てエレベーターホールに向かう。
隣接するドアにもコクーン室のナンバー表示があり、覗き窓から室内に並ぶ白いコクーンが見えた。上蓋が開いて、白い検査衣を着たまだ幼い子供達が身体を起こしている。
ケインはその中にミオの姿がないことを確認した。
「ここには、いないようだ」
「先に行きましょう」
その室内では、スタッフ達が一番奥のコクーンを取り巻いていた。
作動系が故障したのか上蓋が開かない。両側面のパネルを外して固定レバーをリリースし、上面ユニット全体を取り外そうとしていた。
接合部に手をかけたスタッフ達が同時にユニットを持ち上げる。
その途端、細い隙間から黒い霧のようなものが猛然と噴き出した。
「何だこれは!」
それがそのスタッフの、いや、室内にいたすべての人間の最後の声になった。
通路の先のドアが開き、医療スタッフに押された車椅子が現れた。
白いワンピースを着た短髪の少女がきょとんとした顔でこちらを見ている。
ケインは思わず声を上げた。
「ミオ!」
駆け寄ってミオの前に跪く。ミオは不思議そうに眼を見開いた。
「お兄ちゃん?」
ミオはあどけない顔で言った。
「わたし、眼が覚めたよ?」
「お前……」
ケインは妹の顔をまじまじと見つめた。
「荒神、じゃないのか?」
「え?」
ミオは首を傾げた。
「大丈夫」
背後で飛鳥が言った。
「荒神は、もうこの子の中にはいないわ」
「本当に……?」
「ええ」
「よかった!」
ケインはミオの頭を搔き抱いた。
「痛いよ、お兄ちゃん。どうしたの?」
ミオはくすくす笑った。
突然、首を絞められたような異様な叫びが上がった。
ぎょっとして顔を上げると、車椅子を押していた医療スタッフが飛び出さんばかりに眼を大きく見開き、口を開けている。その驚愕の表情は一瞬で苦悶に満ちた断末魔の顔に変わった。
「な?」
スタッフの顔がどす黒く変色し、見る見るうちに萎びて収縮して行く。
人間がミイラ化する過程を早回しで見ているようだ。
一体何が起こったのか。
「振り向かないで!」
飛鳥の声が飛んだ。
腕を掴まれて引き起こされる。ケインは反射的にミオを抱きかかえて立ち上がった。
「逃げるのよ!」
飛鳥が絶叫した。




