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20 深淵障壁


 暗黒が弾け飛んだ。


 ケインは想像を絶する巨大なプレッシャーの中に飛び出していた。


 激烈な衝撃がケインを襲った。振り下ろされた数百本の鋼鉄のハンマーで全身が叩き潰されるような凄まじい衝撃だ。一瞬で意識が吹き飛びそうになる。

 ケインは眼を見開き、狂ったように絶叫した。


 闇が飛び散った後に開けた世界は、より暗鬱な深海の澱みだった。


 その澱みの奥に仄かに白く光る円環が見える。その光の輪は急速に、衝突するような勢いで接近して来る。自分自身が猛烈な速さで沈んでいるのだ。

 ケインはがくがくと痙攣し、再び絶叫した。意思の力を振り絞り、強く制動をかける。

 降下が止まった。光輪の寸前で静止していた。


 ぼんやりとした淡い光の中に、膝を抱えて横たわる女性のシルエットが浮んでいる。

 その女性は眼を薄く開き、ゆっくりとケインを見上げた。


「……ケイン?」


 今にも圧し潰されそうな強圧の中、ケインは気力を振り絞り、母親である優に向かって腕を伸ばした。


 —母さん!


 優はうっすらと微笑んだが、笑みはひどく弱々しく見える。

 闇の底にずっと沈められている母の精神は、限界近くまで衰弱している。


 —母さん! 手を!


 ケインは叫んだ。しかし優は動かない。声が届いていないのか。


 —あれは?


 こちらを見上げる優の瞳に、小さな赤い炎が映っている。


 この暗黒の中にどこに灯りがあるのか。

 ケインはもがくように優に接近した。


 瞳の中の炎も揺れる。

 ケインは、はっとした。その赤い炎は自分の作り出したものだった。


 差し延べた掌の中に、灯火のように小さな火が揺らいでいた。


 それは障壁を切り裂くため、荒神によって無理矢理植え付けられた破滅の火。

 未来の地球を焼き尽くした終末メギドの焔だ。

 障壁から母を切り離すには、この焔を使うしかない。

 それが唯一の方法なのだ。


 何がもたらされるかわからないが、迷っている時間はない。

 母親がケインを見つめ、こくりと小さくうなずいた。

 それは合図だった。


 —母さん!


 ケインは初めて自ら焔を願った。

 母を救い出すために。心の底から。


 —今、助ける!


 ケインは右手を高々と頭上へ差し上げた。


 掌の中心から紅蓮の焔が迸った。

 焔は急激に膨れ上がり、巨大な火柱となって噴き上がった。

 それ自体が意思を持つもののように身を捩りくねらせる。

 まるで澱んだ暗闇の底から灼熱に輝く火の龍が立ち上がったようだった。

 イメージから産み出された小さな焔は累乗を繰り返し、膨大な量の火炎となって轟々と燃え上がった。


 巨大な焔の源にいるのはアカツキだった。

 人の形はまだ残っているが、その想像的構造体は深深度の強圧のなかで崩壊しかけている。

 残された精神力を奮い立たせても、もう長くは持たないとケインはわかっていた。


 ケインは炎の柱を掲げたまま、もう片方の腕で優の身体を抱きかかえた。

 しかし何かで固く縛られたように動かない。

 力を込めて引き寄せても、微動だにしない。


 —おおおおおおおおおおおお!


 ケインは怒りの雄叫びをあげた。

 アカツキの蓬髪が逆立ち、赤く燃え上がった。


 優を抱えたまま炎の柱を下方に向ける。

 暗闇の中で高々と噴き上がった火柱が、巨木が倒れるようにゆっくりと傾いて行く。

 ケインは燃え盛る炎熱の柱を、渾身の力で暗闇の底に叩きつけた。


 炎の柱が先端から突き崩れて行く。障壁に激突したのだ。


 炎の噴流は続く。火炎を飛び散らせながら炎は見る見るうちに周囲に広がり、ケインと優の下方に巨大な火炎の湖を出現させた。

 今まで知覚を押し返す存在として感じられていた障壁が、その次元の境界面を顕にしている。

 ケインは再び怒声を放った。


 —突き破れ!


 掌から迸る火炎は激流となって障壁に向かって突き立って行く。

 しかし、火の海が広がるばかりで、火炎は壁に跳ね返されている。

 この炎では足りないというのか。


 —まだだ!


 ケインは開いた掌を握り締めた。噴出していた炎が閉じられる。


 右腕を頭上に掲げ、再び掌を開いた。

 火炎が爆発するような勢いで噴き出す。しかし焔は火柱ではなく、渦巻くエネルギーを内側に封じ込めるように丸い塊を形作った。

 炎の塊は気球のように膨れ上がり、巨大な火球となってアカツキに覆い被さるように浮ぶ。

 火球はただ燃えているだけではなく、煮えたぎったマグマを圧縮したような膨大なイメージで満たされている。それは誕生したばかりの惑星のようでもあり、終末の炎によって溶けた地球そのもののようでもあった。

 巨大な火球の表面から別の火球が幾つも湧き上がった。

 分裂した火球はそれぞれが更に分裂を繰り返す。火球はあっという間にその数を増やし、ひしめきあってアカツキの頭上を覆った。

 大きく広がった火球の壁は燃え上がる天蓋となり、相対する障壁を暗闇から浮かび上がらせる。


 障壁を焦がさんばかりに燃える炎天を背に従え、アカツキは障壁に向き直った。


 —これで、決める!


 アカツキが腕を振り下ろした。

 密集していた火球群が一斉に動いた。


 アカツキを追い越し、下方に広がる障壁へ雪崩落ちるように突っ込んで行く。

 そのすべての火球が、アカツキの指差す一点に向かっていた。


 火球群は、直下の一点に集中した。


 真っ白い閃光が走った。


 火球群が激突した場所は隕石が落下したクレーターのように陥没し、内側はマグマが燃え盛る火の海になっている。

 しかし。

 障壁は火球に穿たれ灼かれながらも、その存在を維持していた。次元の境界面は未だ眼下にあった。


 —なぜだ!


 ケインは絶望の叫びを上げた。

 究極の破壊をもたらす終末メギドの炎で障壁は裂けるはずだった。

 荒神はそう言っていた。

 それが、なぜ。


 —ここまでか……。


 優を両腕で強く抱きかかえ、眼を閉じた。


 もう気力は潰えかけていた。

 ブレイン・ギアが圧壊してロストすれば、身体は生きていても二度と意識が戻ることはない。しかし人生で最後の数瞬であっても、母親と共にいられるのは思いもしなかった幸運なのかも知れない。


 ケインは、母親を忘れようとしていた。


 幼いケインにとって、母の思い出はただ懐かしく暖かいものだった。

 だが、入れられた養護施設の苛酷な生活に、優しい母の思い出は逃げ場になった。逃げ込めば心が弱くなる。自分を棄てたひどい親と恨むことさえ、母の思い出に変わりはない。


 ケインは決意した。

 妹と共に冷たい現実を生き抜くためには、決して母を思い出さないと。

 そして、母の記憶を封じ込めた。

 ケインは深く重い溜息をついた。


 —よく、生きてきた。


 毎日がつらいだけだった。

 それも、もう終わる。これですべてが終わる。

 だが、無駄ではなかったと思えた。

 刹那とはいえ、こうして再び母親に会えたのだから。


 ケインはがくりと首を垂れた。

 ゆっくりと意識が薄れて行く。


 その時、匂いがした。

 微かに漂う、甘くふくよかな香り。


 ─これは?


 ケインの脳はその答えを知っている。

 それは忘れていた、いや、忘れようとしていた……。


 ─母さんの、匂いだ!


 意識の中で『光』が爆発した。


 奔流のように幼い記憶が甦った。

 抱きしめられた安堵感、伝わってくる暖かい体温、頬ずりされた肌の柔らかさ、名前を呼ぶ優しい声音、そして楽しげにさざめく笑い声。

 それらは唯ひたすらに、懐かしく、愛おしく、かけがえのない想い出だった。


 ─母さん!


 ケインは霞む眼を見開いた。

 抱きしめた優の髪にケインは顔を埋めていた。

 ケインの腕の中で優は眼を閉じ、眠っているように見える。

 ケインは、ようやく気がついた。

 自分は今、かけがえのないものを取り戻そうとしているのだと。

 すべてはこのためにあったのだと。

 どうしてこれを手放せるというのか。


 ─もう、失いはしない!


 ケインは全身を震わせ、獣のような咆哮を放った。


 ─絶対に!


 アカツキの両眼が赤く光り、蓬髪が逆巻いて炎を吹き上げた。分解しかけていたギアの形態が僅かだが再生される。それで十分だった。

 ケインは眼下に広がる障壁を見た。

 火口のようなクレーターが穿たれている。その中で燃え盛っていた炎は勢いを失い、今にも消えようとしていた。どれほど膨大な炎を持ってしても、障壁を破ることは不可能なのか。


 その時、何かの声が『違う』と告げた。


 それはケインの本能であり、荒神であり。十二宮の達人達であり、今まで戦って来た経験値の総和が上げた声だった。

 ケインの意識が収斂した。

 感情の波が消え、静謐な凪が広がる。


 ─あらゆるものは無にかえる。


 火口の中心に残っていた小さな焔がちかちかと瞬き、すっと消えた。周囲は再び暗鬱な闇に満たされた。ケインは焔が消えた一点を凝視した。


 ─しかし無となる最後の刹那にこそ、すべてがある。


 そして。

 ケインは悟った。


 ─極大から極小へ。


 時間が反転した。

 イメージが巻き戻され、アカツキの背後に轟々と燃え盛る火球の群れが現れる。

 ケインは時を止め、再び火球群を障壁へと放った。

 炎の壁は猛スピードでアカツキを追い越し、障壁の一点に向って殺到した。

 膨大な火球群が重なり合い、唯一カ所に激突した。

 だが激突した火球は爆発を起こさず、吸い込まれるように収縮していく。

 更新されたイメージによって、膨大な火炎が小さな点に縮まって行く。ケインは残ったすべての意思の力を、極微の一点に凝集した。


 極微とはなにか。

 それは空間の尺度ではなく、極限にまで細分化された時間だった。

 物質には最小単位の素粒子が存在する。しかし時間に『最小』はない。

 時間の流れをどこまでも細かく、極小にまで切り刻む。極小の時間を更に極小にまで切り刻む。無限に繰り返されるその無窮の果ての刹那に、ケインは焔を押し詰め、流し込んだ。


 アカツキの目の前に、一筋の光の線が現れた。


 消えたと思われた焔の点から、蜘蛛の糸のように細い光の線が真っ直ぐに立ちのぼっている。アカツキは腕を伸ばし、その光線を掌に掴んだ。

 光線が、鼓動を打った。

 光が発せられている点から障壁に亀裂が走った。障壁に生じた亀裂は周囲に走り、火口全体に細かいひび割れを広げる。


 次の瞬間。

 亀裂が裂けてめくり上がり。

 そこから猛烈な火炎が噴き上がった。


 極微の一点にまで超高圧縮された炎のイメージが、ついに障壁を切り裂いた。


 がくんとアカツキが揺れた。

 優を抱えたアカツキが、ぐんぐんと障壁から遠ざかり始めた。

 優を障壁に縛り付けていた見えない戒めが断ち切られたのだ。


 ─やった!


 ケインは優を抱きしめ、小さくなって行く炎の火口に視線を向けた。


 火炎は亀裂を押し広げて噴出し、溢れ出している。火口は再び燃え盛るマグマで満たされた。

 その中心部に小さな黒点が現れた。

 黒点は細い線となって縦に伸びると、中央が膨らみ出す。

 細長い爬虫類の瞳孔のようなそれは、障壁に現れた裂け目だった。

 黒い裂け目から、何か形容しようのない異様な『もの』が滲み出している。


 ケインの意識に痺れるような悪寒が走った。


 黒い裂け目に視線を向けているだけで、脳に毒が流れ込んで来るようだ。

 その異質な感覚は人の理解を越えた禍々しさを放っていた。

 もし悪魔や妖魔がいるとしたら、その魔眼はきっとこのようにおぞましいものに違いない。

 ケインは、ぞっとした。


 ─異世界。


 これが荒神の言っていた、こちらの世界とは異なる摂理を持つという、障壁によって隔てられた世界なのか。荒神が見たいと希求していた闇の力の根源なのか。


「ケイン」

 優が眼を開け、ケインを見上げている。

「あれを見てはいけない」

 優は声を震わせ、手を伸ばしてケインの眼を塞ごうとした。

「視線を、意識を逸らしなさい」


 どうして、といいかけた言葉をケインは呑み込んだ。


 魔物の瞳のような裂け目から、なにか強い力がこちらに放射されている。それは確かに周囲の存在を探索サーチし、引き込もうとしている力だった。


 ケインは直感した。

 意識を向ければ、あの力に捉えられてしまう。


 ─離れなければ。


 ケインは顔を上げ、上昇を強くイメージした。

 その時、アカツキをかすめて白いものがすれ違った。

 小さなそれは、障壁へ向かってぐんぐん降下して行く。


「あれは……?」

 ケインは背後を振り返った。

「ミオ!」


 白いワンピースをはためかせ、少女は障壁に向かって石のように急速に沈んで行く。

 ケインは上昇中のアカツキを即座に反転させ、ミオの後を追った。


「待つんだ!」


「やめなさい」

 苦しそうに優が言った。

「あれは、荒神よ。ミオではないわ」


「それは」

 ケインは躊躇った。

「わかっている。だけど」


 優は苦しげに喘いだ。

「やめなさい……ケイン」


 裂け目から流れ出す禍々しい波動から守るように、ケインは優の頭を抱え込んだ。

 意識を逸らしていても引き込もうとする力が感じられる。

 裂け目に接近してはいけない。しかし沈んで行くミオの姿はどんどん小さくなる。制動をかけられるか全くわからなかったが、ケインは一気に沈降するスピードを加速させた。


「待て!」

 ケインは叫んだ。

「行くな! ミオ!」


 後ろ姿が接近した。

 ミオは膝を抱え、裂け目にまっすぐ顔を向けている。

 ケインは愕然とした。ミオは自分から異世界に飛び込もうとしている。

 荒神は最初から、そのつもりだったのだ。


 ケインは必死に手を伸ばした。

 アカツキの長い腕の指先がワンピースの裾に触れた。

 服を掴んで引き寄せ、アカツキは両腕に優とミオを抱きかかえた。

 再び反転したアカツキは仮想の壁面を蹴って上昇に移った。


 しかし加速できない。

 下方の裂け目から向けられる波動が三人を引き込もうとしている。


 ケインの顎に衝撃が走った。

 ミオがアカツキの顔を殴りつけている。


「離せ!」

 ミオは怒りに眼を吊り上げて叫んだ。

「俺を離せええええ!」


「やめるんだ、ミオ!」


「おのれ! ここまで来ておきながら!」


 抱え込んだ腕の中でミオは激しくもがいた。

 尋常ではない力で手足を突っ張り、抜け出そうとする。


「がああああああああああ!」


 ミオは絶叫し、狂ったように頭を振り回した。

 いきなりミオの頭部が破裂した。

 大きく裂けた間から、なにか朦朧とした黒いものが流れ出した。

 それはミオの首からずるずると抜け出すと海蛇のように身をくねらせ、障壁の裂け目に向かって沈んで行く。


「なんだ、あれは?」


 ケインは茫然として暗闇に消えて行く黒いものを見送った。

 その時、アカツキの視界の中に黒く輝く結晶体が飛び込んできた。


 黒い結晶が叫ぶ。

「優! ケイン!」」


「その声は?」

 ケインは警戒した。

「レイブンか?」


「もう大鴉エル・クアルポはいない」

 黒紫の結晶体は言った。

「私から出て行った。障壁の闇に戻ったの。これが私の本来の姿、ダークアメジストよ」


 名前の通りの暗い紫水晶の結晶体だが、その姿がぼんやりと霞んでくる。

 ケインは眠りに落ちるように頭を垂れそうになった。


「しっかりして! ケイン!」


 ダークアメジストの叱咤に、ケインはかろうじて意識をつなぎ止めた。

 意識が朦朧としてくるのと同時に強い苦痛を感じる。痛みは膨大な精神圧の中にこれ以上留まるのはもう限界だと告げている。

 結晶体は接近し、苦悶の表情を浮かべているケインに呼びかけた。


「ケイン! あれを見なさい!」


 黒紫の結晶体から尖った腕が突き出し、上方に向けて閃光を放った。

 暗闇の中に細長い紡錘形のフォルムが浮かび上がる。

 尖った機首を垂直に立てたそれは、探査形態である種子型のアカツキだった。


「アカツキのレプリカ、脱出用の耐圧構造体よ。あそこが限界深度なの」

 ダークアメジストは声を大きくした。

「急いで!」


 ケインは残った精神力を振り絞り、尖ったギアを目指して浮上した。


 接近すると殻が開くように機体が割れ、アカツキは内部に収容された。

 圧し潰されそうだった強烈なプレッシャーが遠ざかる。アカツキを模倣した機体の中はなじみがあった。安堵感が広がり、ケインはかえって気を失いそうになった。


 その時、機体を激しく叩く音が響き、ケインの意識を引き戻した。

 外殻にダークアメジストが何度もぶつかっている。

 尋常ではない動きに思えた。


「どうしたんだ?」


「逃げて! 早く!」

 ダークアメジストは叫んだ。

「出てきたわ!」


 下方にある障壁の炎の眼は既に小さくなっている。

 そこから強い存在感、ぞっとするような異様な感覚が近づいて来る。


「出てきた?」

 ケインは混乱して叫んだ。

「いったい、何が?」


探索者サーチャよ!」


「探索者? なんだ、それは?」

 黒紫水晶は切迫した口調で言った。

「急ぎなさい! 『上昇』をイメージして!」


 ケインは浮上するイメージを強く思い描いた。

 種子型のアカツキが上昇を始めた。

 機体の中から感覚を周囲に向けると、いくつかの存在感が感じられる。

 それらはレイブンの不可知領域に取り込まれ、転送されてきたブレイン・ギア達だった。


「あれは!」

 ケインは振り返り、深みを見て叫んだ。

「プリーチャー!」


 下方の暗闇の中でフラッシュが光るように映像が浮かび上がっている。

 炎や水、流砂や吹雪のイメージが瞬くように展開されては瞬時に消えて行く。

 それは明らかに圧壊しようとしているプリーチャーが放出する、イメージの断末魔だった。


 映像の光を受けて、プリーチャーの近くにアイアン・グレイブの四角い機体が見えた。

 鉄板を翼のように展開しているのは浮力のイメージで上昇しようとしているのか。しかし障壁の裂け目から流れ出る波動に引き寄せられ、どんどん沈んで行くのがわかる。


「本田さん!」


 ケインは悲痛な声を上げた。

 だが今の状況で引き返す精神力は残されていない。


 裂け目から暗闇よりも濃い影を持つ何かが現れていた。

 それは曖昧な陰画のようでもあり、蠕動する黒い霧のようでもあった。

 異様な存在感を放っていたのは、それだった。

 ダークアメジストが『探索者』と呼んだものだ。


 黒い霧は生物のように姿をくねらせながら浮き上がって来る。

 沈降するプリーチャーに音も無く接近すると、黒い霧の先端を漏斗のように広げた。

 映像のフラッシュが闇に消えた。呑み込まれたのだ。


「本田さん! 逃げるんだ!」


 ケインは届かない叫びを上げた。


 アイアン・グレイブは危険を察知して翼を収容する。

 その機体を黒い霧はあっさりと包み込んだ。


「意識を逸らさないで!」

 黒紫水晶から飛鳥の声が叱咤する。

「上昇するのよ!」


 黒い結晶体は種子型のアカツキの外殻に密着して上昇のパワーをかける。

 浮上の速度が上がるが、下方から接近する黒い霧は距離を縮めつつあった。

 このままでは確実に追いつかれてしまう。


「あれは、なんなんだ!」

 ケインは船体に密着する結晶体に叫んだ。


「異世界のもの、としかいえない」

 飛鳥の声が響く。

「三十年前にも現れたわ。あれは優の脳を伝って現実世界に出ようとした」


「母さんの脳?」

 ケインは困惑した。

「どういうことだ?」


 飛鳥は緊迫した声で答えた。

「説明している時間はないわ。後少しよ、頑張って!」


「くそっ!」


 ケインは意識を上方へ向けた。言っている意味がわからないが、確かに今は逃げることだけに集中しなければならない。


 探索者の動きが乱れた。

 下方で何かが黒い霧の周囲を飛んでいる。


 細い影の線が黒い霧の周囲を稲妻のように駆け巡っていた。

 それは探索者を撹乱しているわけではなく、吸い込もうとする黒い霧から必死になって身を躱している動きだった。

 影の線上を疾駆しているのはシャドウ・ライダーだった。

 その肩に乗ったインフィニティが無限の線を放っている。しかし、触れたものの時間を永遠の中に封じてしまう特異性も、摂理の異なる世界から来た探索者には効力を発揮しない。

 縦横に張り巡らされた無限の線の編み目を容易くすり抜けて、黒い霧は飛び回るシャドウ・ライダーを捕らえようとしている。


 触手のように伸ばされた霧の一部がシャドウの進路を塞いだ。

 鋭角に折り返す軌道の先に別の触手が伸びる。シャドウは鋭くターンを繰り返すが、その動きすべてを包み込むように周囲に霧の壁が立ち上がった。


 二つのギアは、黒い霧に呑み込まれた。


「諦めなさい。もう助けられないわ。今のうちに逃げるのよ!」

 飛鳥は冷たく言い放った。


「まさか!」

 ケインは愕然とした。機体に密着する黒紫水晶に意識を向ける。

「連盟のギアを連れてきたのは、このためか?」


 黒い結晶体は答えない。


「逃げるための囮だったのか?」


「私達は生きて帰らなくてはならない」

 飛鳥は屹然として言った。

「私は優を救い出すと誓った。そのためにはなんだってするわ」


 ケインは絶句した。


「それに彼らは、私達を容赦なく殺すつもりだったのよ?」


「しかし……なんてことを……」


「来たわ!」

 飛鳥が安堵の叫びを上げる。

「間に合ったようね」


 上方から光り輝くものが急速に降下してくる。

 それは巨大な筒状の仮想装置だった。仮想装置は筒の中央で奇妙に捩じれて表裏が反転し、全体で内側と外側が連続した面になっている。

 筒は深海生物のように表面を発光させ、種子型のアカツキのすぐ横を音もなく急速に沈降していく。

 その相対スケールは小魚と鯨ほどの違いがあった。

 

「あれは?」


 ケインは深みを振り返った。

 仮想装置は黒い霧に真っ直ぐ向かっていく。


「朝比奈博士が開発した次元捕獲装置よ。『探索者』に接触せずに、封じ込めることができる」


 ケインは茫然として言葉を失った。

 なにもかもすべてが計画され準備されていた。

 それは荒神だけではなく、協力者だと信頼していた朝比奈博士もだ。

 自分はその中で訳もわからずに動かされ、ただ翻弄されている。


 ケインはアカツキの中で虚脱したように眼を見開いた。


「ケイン、しっかり意識を保って!」

 黒紫水晶から敏感に気配を察した声が飛んだ。

「今は生き延びることだけを考えるのよ!」


「黙ってくれ!」

 ケインは思わず叫んだ。


「あれを見なさい!」

 飛鳥が声を張り上げた。


 光る円筒がその巨大な開口部に黒い霧を飲み込んでいる。

 仮想装置は異世界からの侵入者を内部に封じ込めようとしていた。


「朝比奈博士は……あれを、どうするつもりだ?」


「それは博士が考えることよ」

 飛鳥は冷たく言った。

「上昇を続けて! 中間深度で探深錘アンカーが待機しているわ。私達はその誘導に従って帰還する」


「探深錘?」


「ラボ・タワーで眠る子供達は、夢の中で意識の深層に潜る訓練を受けている。転送された私達は帰還航路にリンクされていない。だから迎えに来てもらうのよ」


「あの子達がそんな訓練を?」


「私も優も、探深錘だった」

 黒紫結晶体は暗く呟いた。

「でも、これですべてが終わる。すべてが、ようやく……」


 ケインは腕に抱きかかえた母親の顔を見た。

 うっすらと眼を開けているが、微睡みの中にいるように瞳の焦点が定まっていない。

 同時に破裂したはずのミオの頭部が再生していることに気がついた。

 荒神が抜け出したミオの想像的構築体は破壊されたわけではなかった。


「優、聞こえる?」


 アカツキの外側から、飛鳥の声が響く。


「答えて、あなたはどこにいるの?」


 反応はない。声は母親の意識に届いているのだろうか。


「優!」

 黒紫水晶は呼びかけた。

「私は飛鳥よ! あなたを助けに来たのよ!」


「あす、か……」

 優の唇が小さく動いた。


「教えて! あなたの身体はどこにあるの?」


「からだ……」

 優はゆっくりと呟いた。


「優!」

 腕の中の母親が、小さな声で呟くのをケインは聞いた。


「え?」

 ケインはゆっくりと顔を上げ、視線を彷徨わせた。

「どうして、そんなところに?」


「ケイン、教えなさい! 優は、なんて言ったの?」


「……セント・トーマス病院」

 ケインは自分の言葉を確認するように言った。

「俺はその病院を知っている。それはニューヨークにある」


「そこに生体がいるのね」


「連盟の研究施設だ。しかし、なぜそこに?」


「まだ終わりではなかったわ」

 飛鳥は屹然とした口調で言った。

「帰還したらアメリカに行くわよ。あなたをお母さんに会わせてあげる」


 種子型のアカツキの横に巨大な光の柱が並んだ。

 異世界からの探索者を飲み込んだ次元捕獲装置が反転し、音も無くアカツキを追い越して浮上して行く。

 奇妙に歪んだ曲面の上を、黒い霧が滑るように走っている。内側から外側へ、そして再び内側へと回り込む途切れない面の上を黒い霧は進み続けている。無限にループさせることで動きを封じているのだ。


 上昇して行く仮想装置を見上げ、ケインは異変を感じた。


 船体が、徐々に傾斜している。

 光の柱はゆっくりとねじれ、形態を歪ませた。

 次の瞬間。

 薄いガラスの花器が砕けるように、光の破片が煌めきながら飛び散った。

 巨大な仮想装置は構造を維持できず、音もなく破砕した。


 解放された黒い霧が染料を撒いたように頭上に広がった。


 このまま進めばアカツキは自分から霧の中に突っ込んでしまう。

 ケインは収容されている耐圧構造体の進路を変えようとイメージした。しかしレプリカに過ぎない構造体はケインの意思では動かない。


 ダークアメジストがアカツキから離れ、黒い霧に高速で突っ込んで行く。

 接触する直前でコースを変え、滑るように横に移動した。反応した黒い霧は触手を伸ばしてダークアメジストを追う。

 飛鳥は囮になって探索者を誘導しようとしているのだ。


 その時、黒い霧の動きが急変した。

 飛鳥を追うのをやめ、急旋回して上方に向かってスピードを上げる。

 その先にはいくつかの小さな光の点が見えた。


「探深錘が狙われている!」


 遠く離れた黒紫水晶から、飛鳥の叫びが微かに聞こえた。


「いけない! 現実世界に出るつもりだわ!」


 ケインは両腕に優とミオを抱えたまま、耐圧構造体の内壁を蹴り飛ばした。

 なんとかしてここから出なければならない。

 しかし構造体は作動せず、頑に殻を閉じている。


 ケインは頭上を降り仰いだ。

 黒い霧の禍々しい存在感が暗雲のように重くのしかかってくる。あれが現実の世界で具現化すればどんな事態が起こるのか想像もできなかった。


 突然、雷が落ちたように、空間が白く輝いた。

 あまりの眩しさにケインは声を上げ、手で眼を覆った。


「!」


 頭上に白く輝く巨大な転送リングが現れた。

 リングに張られた薄膜のようなスクリーンの中央が高く隆起すると、突き破るように巨大な箱形の仮想装置が姿を現した。

 それは立方体の中に別の立方体が内包された奇妙な形をしている。

 出現した巨大な仮想装置はリングから抜け出ると、闇の中を高速で移動した。

 既に黒い霧、探索者を探知しているらしい。


 再び白い閃光が激しく瞬いた。

 立方体の仮想装置は静止し、中心の空間に捕獲した黒い霧を抱え込んでいる。

 仮想装置は不可思議な運動を始めていた。

 内側の立方体が外側に展開し、また内側に閉じるという循環運動だ。外側の立方体のフレームが外から内へ、また外へと循環することで、黒い霧がどれだけ動いても『常に追い越している状態』になっている。

 黒い霧は、どれだけ動いても立方体から抜け出せなくなっていた。


 ケインは茫然として仮想装置を見上げた。

「なんだ、あれは?」


 飛鳥の声が遠くから聞こえる。

「あれも次元捕獲装置。正八胞体という、四次元超立方体よ」


「どこだ! 飛鳥さん」

 ケインは周囲を見回した。

「大丈夫なのか?」


「回収ユニットが来ている」

 黒紫水晶は硬い声で言った。

「優を渡しましょう」


「な」

 ケインは息を呑んだ。

「なんだって!」


「記憶領域に一時的に優の人格を係留するより安全よ。優は確実に生体に戻される」

 飛鳥は溜息をついた。

「選択の余地はないわ」


「渡すって、一体誰に?」


「おそらく米軍」


「米軍?」


 ケインは激しく混乱した。状況が理解できない。

 はっと気がつくと、アカツキに奇妙な想像的構築体が接近してくる。


 自律型AIプローブらしいが、甲虫のような本体から細いひものような触手が何本も伸び、アカツキの外殻を撫で回している。


「拒まないで。優を渡してあげて」


「しかし」


「人格を優の生体に戻すのよ」


 触手が種子型のアカツキに蔓のように巻き付いた。

 機体が細かく振動を始めると、腕の中の優の姿がどんどん薄くなって行く。

 ケインは慌てて母親をかき抱こうとしたが、その姿はまるで幻のように霧散してしまった。


「母さん!」

 ケインは悲痛な叫びを上げた。


 軽い衝撃を残してAIプローブがアカツキから離脱する。

 ケインはプローブの飛び去った空間に茫然と眼を向けた。


「母さん……」


 命をかけて取り戻したと思った母親が、呆気ないほど簡単に連れ去られてしまった。確かに生体がアメリカにあるとはいえ、何も出来なかった自分は無力でしかない。


 ケインは強い虚脱感を感じて、呆然とした。


 ダークアメジストの声が聞こえる。

「探深錘が来たわ」


 いくつかの小さな光が木の葉のように揺れながら舞い降りてくる。

 光の点は知覚カメラに似ているが、より強く輝き、生命を持つもののように規則正しく脈動している。

 接近した光の一つから外殻越しに細い光の筋がミオに向かって伸びた。

 腕の中に残されていたミオの姿が、優と同じようにすっと薄れていく。


「ミオ!」

 ケインは思わず声を上げた。


「心配しないで」

 まだ幼い男の子の声が聞こえた。

「僕がお姉ちゃんを、ちゃんと身体に帰してあげるよ」


 ケインは空になったアカツキの腕を見下ろした。

 本当にミオの意識はコクーンの中の生体に戻されるのだろうか。


「じゃぁ、またね」

 小さな光が飛び去って行く。


「こっちに来て、お兄ちゃん」

 別の少女の声が聞こえた。


「君は?」


 アカツキの前に薄黄色の小さな光の塊が浮いている。


「戻るのよ、お兄ちゃんの脳に」

 光はちかちかと明滅した。

「あたしについて来て」


 耐圧構造体の殻が開いた。

 強い精神圧が流れ込みアカツキの機体を締めつけるが、深々度の強烈さではない。

 アカツキは種子型のギアから空間に泳ぎ出した。


「こっちよ!」


 光は子犬が跳ねるように軌道を変えながら上昇して行く。

 アカツキは光の後を追い、浮上を始めた。


 すぐ近くでは、白い転送リングに巨大な仮想装置が姿を没して行くところだった。

 異世界からの探索者を呑み込んだ次元捕獲装置は、出現した転送リングから帰還しようとしている。


 下方に眼を向けると、障壁がある方向は深い闇に覆われている。

 赤く燃えていた炎の眼も、黒く細い裂け目も遠く、もう感知することはできない。


 障壁は再び次元の境界を閉じたのだ。


 ─終わった……のか?


 ケインは優を取り戻した。

 優を障壁に繋ぎ、息子であるケインを使って障壁を切り裂く計画を立てた荒神は、自ら虚無の裂け目に身を投じた。すべての元凶は消えた。自分を縛り付けて来た作られた運命からケインは開放されたのだ。


 しかしケインは、喜びと安堵を感じるより、強い違和感を感じていた。

 米軍の仮想装置が突然現れ、異世界から現れたものを略取していった。

 荒神の計画は最終段階で乗っ取られてしまった。計画は監視され、利用された。

 荒神でさえより大きな流れの中に呑み込まれていたのだ。


 ─何かが、動いている。


 このままではきっと終わらない。

 いや、別の何かが始まろうとしている。


 ケインは胸にざわめきを抱えながら、意識の表層に向かって浮かび上がって行った。

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