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19 強制転送


 スタジアムは巨大な器のように水に満たされている。

 その上空を、肩に子供のようなインフィニティを乗せてたシャドウ・ライダーがゆっくりと旋回していた。

 二機のギアが見つめる水面の下で、オレンジ色の光が走った。


「……始まったよ」

 インフィニティが呟く。


 水面を突き破り、轟音と共に炎の柱が立ち上がった。

 炎の柱は数瞬の間に数十本に増え、放射状に広がって行く。

 更に水中から火炎のドームが盛り上がって来た。

 水のイメージを一瞬で打ち消した火炎は更に膨れ上がり、観客席に包まれた空間を満たした。

 そして。

 極限まで膨らんだ焔の泡は弾けるように大爆発を起こした。


 スタジアムから巨大な焔が噴き上がり、焔からは無数の火炎の塊が飛沫のように弾け、飛び散っている。

 火炎を避けてシャドウ・ライダーは素早く空間を疾駆した。

 その足元からは前方と後方に黒く細い帯が伸びている。シャドウは自らが作り出した黒い帯の上を滑走しているように見えた。

 黒い帯は四散する炎を避けて鋭い角度で屈曲する。

 現実ではあり得ないその異常な動きと速さがこのギアの特異性スペシフィシティらしかった。


「プリーチャーを助けるんだ!」

 シャドウの肩の上からインフィニティは前方を指差した。

「あと、あの赤いギアも!」


「レクイエムはもう使った」

 シャドウは冷たく言った。

「必要ない」


「まだオプションになるかもしれないよ!」

 インフィニティは叫んだ。

「あそこ!」


 爆発で吹き飛ばされ、落下しているギアが見えた。

 シャドウは鋭角に軌道を変えると猛スピードでレクイエムに接近し、そのボディを片腕で抱えた。

 すぐさま反転してスタジアムに向かって急降下する。

 虚脱したように漂っているプリーチャーを炎の塊がかすめている。シャドウはきりもみ状態で突入し、プリーチャーを掴んで急上昇した。

 そのままスピードを加速させスタジアムから遠ざかり始めた。


「どこに行くんだ!」

 インフィニティは声を上げた。


「グリルにされるぞ」シャドウは言った。


 その言葉が終わらないうちに、背後で大爆発が起こった。

 振り返ると半壊したスタジアムを火口にして紅蓮の火柱が天高く聳えたっていた。

 風を切って火山弾が飛来する。


 シャドウ・ライダーは機体を反転させるとスタジアムから距離を取って旋回を始めた。


「な、なんだ、あれは?」

 抱えられていたプリーチャーが顔を起こした。


「しっかり見て、記憶しておけ」

 インフィニティは言うと、徐々に火勢の衰えていく火焔を見つめた。


「驚いたな。人間があれほどの巨大なイメージを想起できるなんて」


「確かに想像以上だ。だが」

 シャドウは火山弾を躱しながら言った。

「自分たちも燃えてしまったのではないか?」


「そうだとしたら、おかしな話だ」

 インフィニティは首を傾げた。


「確認しよう」

 シャドウは邪険にプリーチャーを放り出した。

「自分で飛べ」


 上空から見るスタジアムの残骸は、噴火が小休止した火口のようだった。

 グラウンドには灼熱のマグマが溜まり、煮えたぎった鍋のように泡立っている。

 表層からは高熱のガスと火焔が噴出し、猛烈な熱気が立ちのぼって来る。


「あれを見ろ!」シャドウが叫んだ。


 マグマの表面近くに黒い球体が浮んでいた。

 ただそれには立体感がなく、空間にぽっかりと丸い穴が開いているようにも見えた。


「あれが大鴉のステルス・フィールドか……」


 インフィニティは顔を覆っていたマスクを開き、顔面に埋め込まれた無数の小さな眼を黒い穴に向けた。


「いや、知覚情報を遮断するなら中からも外界の状況はわからない。咄嗟の緊急避難というところか」


「接近する」

 シャドウ・ライダーはレクイエムを抱えたまま高度を下げた。


「待て、危険だ!」

 プリーチャーが後方から叫んだ。

「取り込まれるかもしれない!」


「近くで記録しろ」

 シャドウの肩に乗ったインフィニティは冷ややかに言った。

「この炎熱のイメージもお前のアーカイブになる。脳に焼き付けておけ」


「わ、わかった」

 命令される屈辱に声を震わせながら、プリーチャーは後を追った。


 黒い円の斜め上で静止し、様子を窺う。


 インフィニティが黒い円を指差す。

「攻撃」


 シャドウの指先から黒い帯がブレードのように伸び、円の中心を貫いた。

 しかし何も変化がない。インフィニティは小さな肩をすくめた。


「今日はもう引き上げよう。生体さえ確保すれば実験はラボでいくらでもできる」


「わかった」

 シャドウは答えたが、何かの気配を感じて上空を見上げた。

「何だ?」



 灰色の空から小さな白いものが落下してくる。


 それは人間の少女の姿をしていた。

 少女は落下速度を緩めると、シャドウ達の前方で停止した。

 短く刈り込んだ黒髪に白いワンピースを着た少女は細い腕を組み、眼の前に並ぶ黒いギア達をじろじろと眺めた。


「お前は誰だ!」

 プリーチャーは少女を指差し、高い声で誰何した。

「どうやって、ここに入った?」


「別のステージを用意するとは確かに想定外だった。防壁を破るのは時間がかかったが」

 白い服の少女は傲然と顎を上げた。

「だが、間に合ったようだな」


 インフィニティは上空を見上げた。

 白く細いリングが明滅しながら真っ直ぐに降下してくる。


「あれは、転送リング」

 インフィニティは少女に視線を戻した。

「お前、いったい何をするつもりだ?」


「答えろ」

 シャドウは低く威嚇した。

「お前は何者だ?」


 少女は顔を伏せてくつくつと嗤った。

 シャドウの手から黒いブレードが疾った。ブレードは少女の寸前で屈折し、彼方に流れて行く。


大鴉エル・クエルポよ」

 少女の声が響く。

「お前の還るときが来たぞ!」


 空間が揺らめくような気配を感じ、インフィニティは視線を下に向けた。

 黒い円が浮んでいた位置にレイブン、アカツキ、アイアン・グレイブの三機が姿を現している。

 反射的に閉じたマスクの細いスリットの中で、インフィニティの目が光った。


「不可知領域を解除、した?」

 訝しげに呟く。

「何をするつもり」


 インフィニティは言葉を途中で呑み込んだ。

 ぞっとするような悪寒が電流のように走り、一瞬で危険が迫っていることを悟った。


「離脱しろ! シャドウ!」


「もう、遅い」


 シャドウ・ライダーは自身の機体を見下ろした。

 下方から爆発するように膨れ上がった黒い円が、既に胸元まで呑み込もうとしている。


 「しまっ……!」

 意識が闇に溶ける寸前、インフィニティは少女の顔を見た。


 少女はうっすらと微笑んでいる。


 しかしその瞳は闇よりも昏く、その中には、本当に何もなかった。 


「共に行こうぞ」

 虚無の眼をした少女は、愉しげに唇を歪めた。

「闇の底へ」


 インフィニティは、初めて知った。

『絶望』というもののかお






 在日米軍基地。

 バーチャル・シミュレーション・センター中央管制室。


 暗い室内には電子機器とディスプレイが隙間なく並び、壁面の大型スクリーンには様々な幾何学図形や数列が映し出されている。

 電子機器を操作している十数人のスタッフも全員米軍の制服だ。


 インフィニティの視覚情報がメインスクリーンから消えた。

 最後のシーンに現れた白い少女が残像のように網膜に焼き付いている。

 情報は入っていたが、実際の姿を見るのは初めてだった。


「あの子供が荒神だと?」

 アイラーは露骨に顔を歪めた。

「まったく、なんて格好だ!」


 アイラーは指揮官席の椅子に深く座り直し、軍服の襟を緩めた。


 壁面スクリーンには仮想空間の中に構築されていた黒魔天四機の機体情報が表示されていたが、今はすべて『NO DATA』の赤文字が明滅している。

 状況を報告するスタッフの囁きが重なり、さざ波のように室内に広がる。


「知覚情報はすべてブラックアウトしています」

 女性のスタッフが言った。

「モニターできません」


「リンクが切れたのか?」アイラーは低く言った。


「いいえ」

 スタッフの一人が言った。

「想像的構築体は維持されています。あの特異な領域の中に、ブレイン・ギアはいます」


 別のスタッフが振り返った。

「生体とのリンクを保ったまま、どこかに転送されています」


 アイラーの横に立つ男が言った。

「みんな、どこに消えたんだ?」


「休憩に行ったのかもな」

 アイラーはおどけて言った。

「スターバックスとか」


 冗談をいっている状況とは思えない。カイル・ローゼンタールは訝しみ、黒髪の男に視線を向けた。

 アイラーは眉根を寄せた険しい顔でスクリーンを睨み、爪を噛んでいる。

 予期せぬ展開であることは間違いなかった。


「その通りだ」

 アイラーは心を読んだように言った。

「予想していなかった展開だ。早急な対策が必要になった」


「どういうことだ?」


「君のディメンション・キャプチャーを投入する」


「あれは」

 カイル・ローゼンタールは息を呑んだ。

「できたばかりだ。まだ試験運用もしていない」


「そんな時間はない」

 アイラーはにべもなく言った。


「転送先がわかりました!」


 スタッフの一人がスクリーンにウインドウを表示する。

 アイラーは椅子から立ち上がるとウインドウの情報を読み取った。

 インカムを押さえ、早口で指示を出す。


「緊急事態だ。我が軍のブレイン・ギア四機がコクーンのパイロットとの接続を保ったまま強制的に転送されている。追跡した結果、転送先はラボ・タワーで現在行われている深々度ダイブ・オペレーションと判明した」


「深々度ダイブに転送?」

 カイル・ローゼンタールは声を上げた。

「まさか、なんて危険なことを!」


「回収しますか?」

 年輩のスタッフが振り返る。


「この状況での回収はロストする可能性があります」

 別の女性スタッフが異議を唱えた。


「だろうな」

 アイラーは顎を撫でた。

「回収はしない。向こうのダイブ・オペレーションに介入する」


「ラボ・タワーのコンピュータにクラッキングするつもりですか?」

 背後に控えていた制服将校が慌てて口を挟んだ。

「それは外交問題になります」


 アイラーは断定的に言った。

「大丈夫だ。協力者からアクセスコードが送られてくる」


「え?」

 将校は意表をつかれ、ぽかんと口を開けた。


「手は打ってある」

 アイラーは平然と言い、スタッフに命令した。

「転送されたらすぐに座標を特定しDCディメンション・キャプチャーを投入するんだ」


「了解しました」


「脱出ルートを複数設定し、接続し続けろ。司令部のスパコンのパワーを全部こちらに振り分けてもらえ」


 アイラーはコンソールに向かうスタッフの肩を背後から掴み、身を屈めた。


「主任管制官」

 耳元で低く囁く。

「……絶対に切られるなよ」


 スタッフはびくっと身体を硬直させた。

「わ、わかりました!」



「来てくれ、カイル」

 カイル・ローゼンタールを従え、アイラーは後方の出入り口に向かった。


 エアロックのような二重の認証ゲートを抜け、基地内の通路に出る。

 待機していたガード二人がすぐに両脇についた。


 アイラーは急ぎ足で通路を進むと、小さなドアの前で立ち止まった。

 認証プレートもない用具室のような鉄のドアだ。

 アイラーはドアノブを掴むと眼を閉じて何かを念じた。

 ドアの向こう側で閂が引き抜かれる金属音がした。


「入るんだ」


 アイラーはカイルを押し込んだ。

 ドアの内側には頑丈な閂が取り付けてあった。しかし、室内には誰もいない。

 同じようなドアをいくつか開けると、突き当たりは殺風景な小部屋だった。

 グレーの事務机の上に半世紀も昔の赤い有線電話がひとつだけ置かれている。アイラーとカイルは取り調べのように向かい合わせにパイプ椅子に座った。


 アイラーは無言のまま受話器を取り上げて耳に当てると、儀式のようにダイヤルを一回だけ回した。


 受話器からは何も聴こえない。


 重苦しい沈黙の時間が流れる。


 しばらくして、アイラーが小さく呟いた。


偉大なる父(マーグヌム・パーテル)……」


 受話器から低い男の声が流れて来た。


「アイラー……」


 チェロの弦が響くような、太くて豊かな声だ。


「不意をつかれたな」


「はい」

 アイラーは感情を押さえるように低く言った。

「ですが、対処しています」


「『闇の求道者』には、もう少し注意を払うべきだった」

 深く響く男の声は、自分の言葉を噛み締めるように言った。

「乗り換わる器まで用意していたとは」


「厄介な奴です」

 アイラーは吐き捨てるように言った。


「……彼がカイル・ローゼンタールか?」


 不意に男の声は言った。

 カイルは驚いた。どうやって自分がいることを知ったのか。


「そうです」

 アイラーは当然のように答えた。


「では、準備は?」


「できています」


「これで、互いのカードは出揃った。だが切るのは我々だ。主導権はこちらにある」


「その通りです」


「あの者は異世界との境界に異物を挟んだ。取り除こうとすれば傷がつく」


 アイラーは受話器を耳に当てたまま、眼を細めた。

「それでは、やはり、現れるのですね?」


「こちらが見ているように、向こう側もまたこちらを窺っている。三十年前にそれは確認されている」


 アイラーは黙ったまま、ちらりとカイルに眼をやった。


 カイルの背筋にゾッと悪寒が走った。

 蛇のように感情のない眼だ。

 過去の記憶は戻っていないが、その冷たい瞳には確かに以前どこかで会っていた気がする。


 受話器から、北風が吹くような長く深い溜息が流れる。


「私のプランには、なかったことだ」

 男は重く言葉を落とした。

「だがこれには重大な意味があった。『異世界の情報』は私のプランを大きく進展させるものだった」


 アイラーは黙っている。


「それが大きな流れならば私は受け入れ、そして取り込むだろう」

 男は低く響く声で名を呼んだ。


「アルベルト・アイラー」


「はい」


「必ず手に入れるように」


 カイルは無意識に部屋の中を見回した。

 何かの気配が去って行くのが感じられる。よく見ると赤い電話機のコードは途中で切れていた。


 アイラーはゆっくりと受話器を置き、「かっ」と奇声を上げた。


「ああ、息が詰まった」

 乱暴に髪の毛を掻きむしる。

「いちいち報告するのも疲れるな」


「今の声は?」カイルは訊いた。


 アイラーは答えずに、影のかかった暗い眼を明に向けた。

「あのサムライのバトラーは、カイル、君の息子だ」


「そう……らしいな」

 カイルは顔を曇らせた。

「そう聞いている。だが、記憶がないんだ」


「記憶を消したのは荒神だ。奴は今、再び障壁に向かっている」


「障壁に……」


「そうだ。君の奥さんの分離した人格が座標点になっている。母親の意識を知覚マーカーとして息子に感応させ、辿らせるわけだ。なかなかくそ素晴らしいアイデアだよ」

 アイラーはやっと気づいたように肩をすくめた。

「おっと失礼」


「それをやったのが、その荒神なんだな?」

 カイルは怒りを押し殺すように言った。


「そう、その通り。荒神だ」

 急にアイラーはパイプ椅子から立ち上がった。

「管制室に戻ろう」


 二人は部屋の扉を開け、通路に出た。

 再びガードに警護され中央管制室に向かう。


「そうだ、カイル」

 アイラーは旧知の友人のようにカイルの肩に腕をまわし、親しげな口調で言った。

DCディメンション・キャプチャーのオペレーションは君が最適だ。このまま指示を出してほしい」


「わ、わかった」

 カイルは戸惑いながらうなずいた。

「だが、一体、何が出てくるんだ?」


「話していなかったか?」

 アイラーは驚いたように眼を見開いた。


「ああ」


「そうだな、よくわからないが、まぁ反物質みたいなものだ」


「なんだって!」

 カイルは愕然とした。

「そんな危険なものが!」


「《《そんなことより》》」

 アイラーは暗い双眸でカイルの顔を覗き込んだ。

「何が出て来ても必ず捕獲するんだ。絶対に失敗は許されない」


「わ、わかっている」

 カイルは硬い声で答えた。


「本当か?」

 アイラーの眼が獣じみた凶暴な光を帯びた。


 カイルはぞっとして身体を離そうとしたが、肩にかけた腕が獲物を掴むようにそれを許さない。


「いいな?」

 アイラーは繰り返した。

「絶対にだ」


 カイルは唇を噛み、小さく首肯した。やはり、この男は異常だ。


「よろしい」

 アイラーはにやりと笑い、カイルの肩から腕を放した。


 中央管制室入り口の認証装置の前に立つ。

 二重扉を抜けて室内に入ると、若い将校が近づいて来て耳打ちした。


「ラボ・タワーのコンピュータに侵入するアクセスコードが届きました」


「そうか、速いな」

 アイラーは満足げに笑みを浮かべた。

「ユアサは状況をよく理解している」


「では、すぐに転送の準備にかかります」

 将校は敬礼し、コンソールを操作しているカイル・ローゼンタールに向かった。


 アイラーは再び指揮官席の椅子に深く身を沈めた。

 気怠げな表情で上目遣いに正面のスクリーンを見つめる。

 画面は茫漠とした灰色に覆われたままだ。


「荒神め、お前の望むようには絶対にさせんからな」

 呪詛をかけるように暗く呟く。

「障壁を切り裂いたら、お前をその中に蹴り込んでやる……」






 ラボ・タワー地下の中央官制室。

 大勢のスタッフは押し黙り、行き詰まるような緊迫した時間が続いている。


 もう間もなく深々度に設置された転送リングからブレイン・ギア達が出てくるはずだった。スーパーコンピュータのパワーはその演算処理に注入され、フロアに並んだ電子機器のほとんどは照明を落とした待機状態にあった。

 広いフロアは深夜の水底のように暗く静まり返っている。

 大勢のスタッフ達も口をつぐみ、じっとシーケンスの進行を見守っていた。


 朝比奈は血走った眼でメインスクリーンのオペレーション・フローを凝視していた。

 予想もしなかった事態が発生し、朝比奈は激しく動揺し混乱状態に陥っていた。


 ジャパン・カップ決勝戦でエントリーしたアルゴノーツの四機のブレイン・ギアは、本来のステージではない別の仮想空間に送り込まれていた。

 ようやく突き止めたステージは在日米軍のサーバにあった。

 連盟を通じて米軍が介入したことに朝比奈は衝撃を受け、取り乱した。

 まず保身を計らねばならない。

 その老博士を一喝したのは、荒神だった。


「狼狽えるな!」


 サブスクリーンのひとつから、白い服の少女が朝比奈を睨みつけている。

 ラボ・タワーのコクーンからエントリーした荒神が初めて想起した想像的構築体は、現実の自分の姿そのものだった。


「その仮想空間はどこにある?」


「ざ、在日米軍本部の、コンピュータだ」

 朝比奈は喘ぎながら答えた。


「ふん……アイラーの仕業か……」


 少女は唇を噛み、宙を睨んだ。白蝋化した荒神の前に現れたアイラーは、米空軍佐官の制服を着ていたからだ。


「間もなくシーケンス終了します」

 スタッフのアナウンスが流れ、朝比奈は我に帰った。


 急いでスクリーンを見上げる。

 転送リングのアイコンに重なってカウントダウン表示が現れている。フロアで沈黙していた電子機器に一斉に照明が灯り、人も機械もすべてが蘇生したように動き始めた。


「転送リング励起れいき。間もなく現れます!」


 スクリーンにコンピュータが描出した深々度映像が映し出される。

 転送リングの上方に滞留しているAIプローブの知覚カメラからだ。

 画面奥に転送リングのスクリーンが明滅を繰り返している。更にそのずっと奥に小さくアイコン表示されているのが、障壁に固定された知覚マーカーだ。


 その中心には御門優が沈められている。


 朝比奈博士はごくりと唾を呑み込み、額の汗を拭った。

 もうこの状況から逃げることはできない。覚悟を決めるしかない。


 ついに障壁が、開かれる。







 完全な暗黒。

 その闇の中にケインの意識はあった。

 何も見えない。何も聴こえない。何も感じられない。

 五感のすべてが閉ざされていて、ただ『意識している』自分だけが漠然と感じられる。

 このままの状態で、いつまで自分の意識を保っていられるのか。闇に溶けてしまいそうな不安と恐怖がじわじわと這い寄ってくる。


 ケインは見えない眼を見開き、あるものを探した。


 レイブンが発生させたこの不可知領域の中には、自分以外にもアイアン・グレイブとエヴァ、そして連盟の三機のギアが呑み込まれている。


 そして……。


 一旦解除された不可知領域が再び閉ざされる寸前、上空に見えたのは白い服を来た少女だった。

 あれは確かにミオだった。

 ミオは自分自身の姿をブレイン・ギアとしたのだ。


 ケインは闇の中で、妹の名を呼んだ。


「ミオ! どこにいる?」


 知覚が遮断されたこの領域では声を発しても誰の耳にも届かないはずだった。いや、かって一度だけこの闇の中で会話した者がいる。


「レイブン!」


 ケインは闇を見透かし、意識の声を上げた。


「出てこい、レイブン!」


 前方に二つの小さな赤い火が灯る。赤黒く濁った凶兆のような不吉な眼。


「荒神め……」

 がさがさと乾いた声が響いた。

「どこまでも汚い奴だ。道連れを作るとはな」


「道連れ?」


「……莫迦ばかが!」

 レイブンは吐き捨てた。

「どこへ向かっているか、知らないのか?」


 ケインは沈黙した。この大鴉は何をいっているのか。


 闇の奥からぼんやりとしたものが近づいて来る。

 無色透明な波動を放つそれは急速に接近し、ケインの意識の上を越えて後方に遠ざかって行った。


「なんだ、あれは……?」


 突然、少女の声が闇に響いた。

中継トランスポンダユニットだ」


「ミオ!」ケインは叫んだ。


フレイムを!」

 ミオは唐突に言った。


「なに?」


「焔を燃やせ!」

 屹然とした口調で命じる。


 ケインは一瞬躊躇った。

 しかし、すぐに焔を思い描いた。

 闇の中で開いた掌に、オレンジ色の焔が燃え上がる。

 焔は風にはためくよう灯火のように、ゆらゆらと揺れた。


「ミオ!」


 ケインは手の上の炎を暗黒にかざしながら、周囲を見回した。


「ここは、いったいどこだ?」


「障壁に向かっている」

 姿の見えないミオは答えた。

「この大鴉が彷徨っていた記憶の最深層にな」


「ここは、ミオの意識の中ではないのか?」


「知覚マーカーを障壁に沈めた。あれがありさえすれば、入り口はどこでもいい」


「入り口?」


「お前も見ただろう。繭の中で眠る子供達を」


 ケインは思い出した。研究棟の隔離病室エリアだ。

 無菌室に並べられた白い繭に、かってのミオのように今も眠り続けている子供達。

 その深層意識の中に入っているのか。


「記憶の最深層では、すべての意識が通底していると言ったはずだ」


「これから、障壁へ……」

 ケインはぼんやりと呟いた。


 ケインは混乱した。予想もしていなかった。

 昂った気持ちはまだブレイン・バトルの延長線上にある。


 ミオは静かに言った。

「これで、すべてが終わる……」


 声の方向に、暗黒よりも濃密な影が立っていた。

 それはミオの中に居座っている荒神の本当の姿なのかも知れない。


「永き桎梏から解き放たれるのだ。俺も、お前も」

 黒い影は独語するように言った。

「そして、お前の母親もな」


「母親……」

 かざした掌の焔が意識に感応して大きく噴き上がる。ケインは無意識のうちに叫んでいた。

「母さん!」


「そうだ」

 細長い影は揺らめいた。

「障壁を切り裂け。異世界との境界をえぐり取るのだ。世界を焼き尽くしたその終焉の焔をもって」


「この、焔で……?」

 ケインは自分の掌の上で燃えるオレンジ色の焔に目を落とした。


「けぇぇぇぇ!」


 突然、甲高い怪鳥の叫びが起こった。

 大鴉の声がぐるぐると周囲を駆け巡る。


「なんて莫迦な小僧だ! まんまと騙されおって!」

 大鴉は汚い声で罵り、嘲笑った。

「いったいどこまで利用されたら気がつくのだ!」


「レイブン!」

 ケインは闇を睨んだ。


「まぁ勝手にしろ。何が起きようが儂の知ったことではないわ!」


「放っておけ!」

 ミオの鋭い声が飛んだ。

「いよいよだ! 出るぞ!」


 暗黒の世界が、闇の空間そのものが振動し始めた。

 四方から強い波動が押し寄せ、ぶつかりあう。

 ケインの意識は激しく揺さぶられた。


 記憶の最深層は太古から重なり合った生命記憶の精神圧で満たされている。深海探査艇と同様に堅牢な耐圧イメージで身を固めたブレイン・ギアでしか潜ることはできない。

 しかし今、強制的に運ばれているギア達は誰もそんなイメージを持っていない。この不可知領域が最深層で解除されれば、すべてのギアが剥き出し(ネイキッド)のまま強烈な精神圧の中に投げ出されることになる。誰一人として耐えられるはずがない。


 暗黒空間の振動は激しさを増し、空間自体が歪み、ねじれ、波打っている。

 ケインは強い波動に突き飛ばされるように翻弄されながら、他のバトラー達の存在感を自分の近くに感じた。

 それは知覚を遮断する不可知領域が崩壊しつつあることを意味している。


「ミオ! どこにいる!」


 ケインの声に、ミオが叫び返した。

「間もなく障壁だ!」


 その声は周囲を回転している。巨大な渦に巻き込まれているようだ。


「母さんは!」

 ケインは振動に負けじと声を張り上げた。

「母さんはどこにいる?」


「すぐにわかる!」ミオは叫んだ。


「ミオ!」


「圧し潰されるな!」

 ミオの声が遠ざかって行く。

「機会は一瞬ぞ!」


「待ってくれ、ミオ!」

 ケインは闇の奥に向かって手を伸ばした。


「……決して」

 ミオの声が闇に消えていく。

「……躊躇うな」


「ミオ!」


「けぇぇぇぇぇ!」

 耳元でおぞましい叫びが湧いた。


「レイブン!」


「お前らみんな、死んでしまえぇぇぇ!」


「きさま!」

 ケインは怒声を放った。

「黙れッ!」


 ケインは掌の上の焔を握り締めた。

 指の間から火炎の塊が礫のように飛散する。

 焔に照らされ、闇の中に真っ赤な眼が浮んだ。血眼は激しく揺れる空間に同調してぶるぶると痙攣し、失神するようにぐるりと裏返った。

 誰かの小さな呟きが聞こえた。


「出る」


 振動が消えた。

 時間が止まったようにすべてが静寂に包また。


 しかしそれは、今までケインが感じた最も短い『一瞬』だった。

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