12 闇の覚醒
これほどひどい目覚めは経験したことがなかった。
眼を開けた途端に胃が痙攣し、ケインは背中を丸めて激しくえずいた。しかし胃は空っぽで苦い胃液しか出ない。
ケインはシーツを握りしめ、喘ぎながら顔を起こした。
ここが病室であることはわかっていた。
低代謝誘導からの覚醒には最低でも二日はかかる。しかし今回の覚醒は、いままでにない苦しさだった。
バイタルの変化はナースセンターでモニタリングされている。
すぐに若い女性看護師が病室に入って来た。
看護師はシーツに飛び散った吐瀉物を見て少し眉をひそめ、手にしたデータパッドに掃除と着替えの手配を入力する。
「すいません」
ケインは身体を起こし、かすれた声で訊いた。
「今日は、何日?」
返事を訊いたケインは愕然とした。四日間も眠り続けていたのだ。
「後でベッドメイクが来ます。気分は悪いですか?」
「いや」
ケインは頭を振った。
「それでは検診を受けてください。場所は」
「ミオは」
ケインは言葉を遮って言った。
「妹はどうしていますか?」
記憶深層でミオの記憶を見つけ出し、取り戻した。
それは憶えている。記憶の中には白い大きな部屋があったり、不気味な暗黒の空間があったりした。はっきりとは思い出せないが、そこで非常に強いストレスと苦痛を感じた記憶がある。
そして妹を自分の腕の中に抱き、会話したことも憶えている。
確かに、ミオは目覚めたのだ。
「さぁ」
看護師は軽く首を傾げた。
「担当外なので」
病室担当だからミオのことまで知っているはずがない。ミオだけではない。それ以外にも確認しなければならない件がいくつもあった。
「連絡を取りたい」
ケインは拳を握った。
「その、《《外部》》と」
「通信ブースですね」
看護師はデータパッドを軽やかにタップした。
「使用申請を受け付けました」
「いや、今、使いたいんだ」
ケインはもどかしげに言った。
「許可が取れましたらお伝えします。それでは」
女の看護師は事務的に答えると、くるりと背を向けて病室を出て行った。
頭が上手く働かない。ケインは鈍痛のする額を押さえた。
「いったい、どうなっているんだ……」
「おはようございます」
突然、野太い男の声が響いた。ケインはぎょっとして顔を上げた。
「といっても、もう夕方ですが」
壁際のソファセットに、短髪の大柄な男が座っていた。
「山本さん?」
ケインは呻くように言った。
「……そこに、いたのか」
「あなたの警護は続いていますからね。気分はどうですか?」
「最悪」
山本はソファから立ち上がり、ケインにミネラルウォーターのボトルを手渡した。
ケインはキャップをひねり、慎重に口をつける。胃はなんとか液体を受け入れてくれるようだった。
ケインは息をつくと、山本を見上げた。
「ミオはどこにいる?」
「おそらく、このラボ・タワーのどこかに」
ケインは室内を見渡した。確かに窓がない。ここはラボ・タワーなのか。
「しかし、兄であるあなたなら問い合わせができます」
「わかった。ナースセンターに行こう。それに朝比奈博士にも会いたい。このダイブで起きたことを確かめなくては」
今回のミオの深層記憶へのダイブでは、予想もしなかった現象が幾つも起きている。断片的にしか思い出せないが、それらはまるで悪夢のような出来事だった。本当に現実に起きたことなのか確認しなければならない。
ケインはゆっくりと立ち上がったが、すぐにふらついてベッドに腰を落とした。四日間眠り続けていたためか自分でも驚くほど体力が落ちている。
「くそっ!」
ケインはなまった膝を叩いた。
「大丈夫ですか?」
「山本さん」
ケインは警備担当者に言った。
「何か食べ物を」
山本は当然のように上着の中からシリアルバーを取り出した。
ケインは包装フィルムを破るとむさぼるように食べ、更にもう一本を要求し、胃に収めた。
ケインはペットボトルの水を喉に流し込んだ。
「体力は重要だ。精神力に影響する」
「考えが変わりましたね」
山本はにやりと笑った。
「ではフィジカルを鍛えますか」
「OK。でもその前に」
ケインはぐいと口を拭うと膝に手を突き、立ち上がった。
「やることがある」
ケインと山本は廊下に出た。ケインは壁面の介護手すりを握りしめ、身体を支えながら廊下の先のナースセンターに向かった。
「そうだ、真樹さんは?」
ケインは山本を振り返った。
石井真樹は低代謝誘導にずっと立ち会っていた。
記憶深層でケインが気を失いかけた時、真樹は必死になって呼びかけ、ケインの意識をつなぎ止めた。真樹なら記憶深層探査の間に何が起きたのかを目撃しているはずだった。
「石井は拘束されています」
山本はぼそりと言った。
一瞬、ケインは言葉の意味が分からなかった。
「拘束?」
「この施設のどこかにね」
「どうして?」
「ここのセキュリティとやり合ったようで」
がしがしと短髪をかいた。
「今、会社の弁護士が交渉中です」
ケインは唸った。確かに真樹の気性ならこの施設の高圧的なセキュリティと衝突があってもおかしくない。しかし、事実の確認が取れなくなってしまった。
ナースセンターのカウンターから中年の看護師がこちらをじっと見ている。
ケインはゆっくりカウンターに歩み寄った。
「御門ケインです。妹に、御門ミオに面会したい」
「親族の方ですね。病室は?」
「このフロアです」
ケインは当てずっぽうで言った。
「こちらで、あなたのIDと認証を」
看護師は認証装置を指し示した。
ケインのIDと網膜認証の画面を確認すると、看護師は通路の先を指差した。
「A9へどうぞ」
ナースセンター前で交差する通路をAエリアに進む。
天井は低く、ドア等もコンパクトに作られている。確かにここは地下施設であるラボ・タワーの中らしかった。
歩きながら山本が言った。
「間もなく、斉藤部長が来ます」
「連絡もしていないのに?」
「毎晩来ていますよ」
ケインは黙った。何かしらもやもやとした気持ちがケインの胸の中に広がる。斉藤部長はケインの過去について何かを隠している。あの影の男と関係があるのではないだろうか。
前を歩く山本がうっそりと言った。
「……やれやれ」
角を曲がると、通路の奥のドアの前に武装した兵士が二人立っていた。セキュリティではなく、SMGを構えた対化学兵器装備の兵士だ。そのドアがA9だとわかった。
兵士は素早く銃口を二人に向けた。
「止まれ!」
フルフェイスヘルメットから音声が発せられる。
「御門ケインだ」
ケインは両手を肩の高さに上げた。
「妹と面会したい」
「ここは立ち入り禁止だ。帰りなさい!」兵士は声を上げた。
「朝比奈博士から許可を得ている」
山本がずいとケインの前に出た。平然として武装兵士に向って歩いて行く。
「連絡を受けていないのか?」
二人の兵士は一瞬、シールド越しに顔を見合わせた。
「なぜ連絡を確認しない?」
山本は距離を縮めながら威圧するように声を高めた。
「我々は博士の正式なビジターだ。ビジターに銃を向けるなぞ、大問題になるぞ」
兵士に小さく動揺が走る。突然山本は怒気を込めて叫んだ。
「貴様ら、所属と名前をいえ!」
最後の数歩を、大柄な身体が滑るように飛んだ。
次の瞬間、山本は二人の兵士の自動小銃の銃身を握り、瞬時に体を入れ替えながら両手を高々と差し上げた。ねじられた銃身が天井を向く。両手を吊り上げられた兵士の股間に山本は強烈な膝蹴りを入れた。一瞬で軸足を入れ替え、もう一人の下腹部も蹴り上げる。
二人の兵士はものもいわずに崩れ落ちた。
唖然として立ち竦むケインを振り返り、山本は低く叫んだ。
「早く!」
ケインは足をもつれさせながら走った。
山本がスライドドアの手すりをつかんで引き開ける。
病室に踏み込むと中は電気が消えていて暗い。
薄闇の中に、二つの白い眼が光っている。
ドアからの明かりに照らされたベッドに、パジャマを着たミオが上半身を起こし、こちらに顔を向けていた。
「ミオ!」
ケインはベッドに近づいた。
ミオの小さな口が動いている。何か食べ物を頬張っているようだった。
「ミオ?」
「ずいぶん」
ミオは口の中のものをごくりと嚥下すると、くぐもった声で言った。
「寝ていたわね。お兄ちゃん」
「ミオ、本当に、目覚めたのか?」
ケインは震える手を伸ばした。
「本当に……」
「見ればわかるでしょ」
ミオは冷たく言った。
「え?」
ミオは急に顔を歪め、泣きそうな声で言った。
「ありがとう、お兄ちゃん」
ミオの目から涙が溢れる。
「嬉しかった。助けに来てくれて」
ケインは思わず細い妹の身体を抱きしめた。
「ミオ!」
「お兄ちゃん……」
ケインは身体を離すと、妹の顔を覗き込んだ。
「ミオ、教えてくれ。あの日の朝、何があったんだ?」
「あの日……?」
「雨が降っていた。あの朝、お前は誰かに連れ去られた」
ミオの視線が揺れ、何かを思い出そうとしている。
「憶えていないか?」
「そう」
ミオは小さく呟いた。
「女の人に会った」
「女の人?」
「お母さん」
唐突な言葉にケインは息を呑んだ。
「……なんだって?」
「ええ。お母さんに会ったの」
「そんな……そんなはずは……」
「綺麗な人だったよ」
ミオは追憶するように眼を閉じた。
「記憶はなかったけど、ああ、この人が私のお母さんだって、すぐにわかった」
「そんなはずは……」
ケインは繰り返した。
「それでは、男に乱暴されたのは?」
「乱暴?」
ミオは眼を開けると、不快げに眉根を寄せた。
ケインは小さくうなずき、かすれた声で言った。
「お前は、ひどいことをされたんじゃ……?」
「はぁ」
ミオは小さく吐息をつくと、嘆くように首を振った。
「お兄ちゃん、まだそんなことを思っているの?」
「え?」
ケインは戸惑い、妹の光る眼を見た。
「それは植え付けられた偽の記憶よ」
「偽の記憶……」
「そう。私はお母さんと車に乗せられ、すぐに病院に連れてこられた」
「病院?」
「ここよ、ラボ・タワー」
ケインは絶句した。
「ラボ・タワーでは大人達が大勢待っていたわ。すべては計画されていたの」
ミオは言葉を続けた。
「私はお母さんと一緒に睡眠誘導を受け、意識の深層に沈められた。私は中継点に係留され、お母さんは再び障壁まで到達した。よくできたと思うわ」
「どういう、ことだ?」
「私達は人質だったのよ。お母さんを従わせるための。お母さんは私たちを守るために、あのおぞましい場所にもう一度沈むしかなかった」
「障壁……」
「人間は絶体絶命の窮地に追い込まれた時、限界を超える力を発揮するわ」
ミオの声が低く響く。
「昔の日本では『鬼が憑く』と言ったんだって。それは死の覚悟と引き換えに得られる刹那の力、人を超えた鬼神の力なのね」
「鬼だと?」
ケインは顔をしかめた。
「ミオ、いったい何をいっているんだ?」
「きゃああああああああああ!」
突然、ミオが奇声を上げた。目が裏返り、首ががくりと垂れた。
「ミオ、どうしたんだ!」
ケインは細い肩を掴んで揺さぶった。
「ミオ!」
「そうだ、怒りだ……」
老婆のようにかすれた声が聞こえた。
「なに?」
ケインは動きを止めた。声は顔を伏せたミオから聞こえてくる。
「強い怒りが、渦巻いている」
ミオは俯いたまま、深海から浮かび上がったような長く深い吐息をついた。
妹の異様な雰囲気にケインは慄然とした。何かの演技を見ているような気がする。
しかしミオは顔を伏せたままぐらぐらと頭を振り、別人のような嗄れ声で言った。
「この娘は訳もわからず暗黒の苦痛の中に置き去りにされた。その理由を求めても詮無きこと。狂おしい程の沈黙と暗黒の中で、圧し潰されそうな圧力に耐え続けたこの娘の心には、自分を苦しみの淵に沈めた理不尽を呪う黒い怒りが渦巻いている」
「黒い怒り……?」
ケインはミオの肩を掴んで身体を起こそうとした。
「何をいっているんだ。しっかりしろ、ミオ!」
「離せ!」
ミオはケインの手を振り払った。
すごい力だった。ケインは弾き飛ばされるように床に尻をついた。
「ミオ!」
「皮肉なものだ」
ミオは俯いたまま、くつくつくつと肩を震わせた。
「その怒りは俺の絶望となんと近しいことか」
ケインはデジャヴュを起こした。
同じことがあった。こんなことが、前にもあった。
「そうか」
ミオは再び大きく息を吐くと、仰け反るように顔を起こした。
「俺は憑依したのではない。お前と同化するのだな」
「まさか……?」
思い出した、意識の深海で聴いたその名前を。
「お前は、荒神……?」
ミオは大きく眼を見開き、ケインをじろりと見た。
「思い出したか、御門の子よ?」
背後で鋭く声が上がった。
「動くな!」
ドアが引き開けられ、ハンドガンを構えたセキュリティ数人が踏み込んで来た。
「ぐあっ!」
山本が叫び、首を押さえてうずくまる。電撃警棒を押し当てられたのだ。
「貴様!」
ケインの前に立ったセキュリティが電撃警棒を振り上げた。しかしその姿勢のまま、見えない手で突き飛ばされたように壁に叩きつけられる。
「止めよ」
ミオは低く唸るように言った。
「傷つけてはならん」
部屋の中の空気が膨れ上がったようだった。
全員が見えない力で壁際まで押され、身動きができなくなった。
「これが……新たなる力……」
ミオは獣のような凄まじい形相で、室内の男達をねめつけた。
ふっと圧力が消えた。ケインはがくりと床に手を突いた。
ドアに痩せた男のシルエットが現れた。
両手を握りしめ、感に堪えたように声を上げる。
「導師よ!」
スーツの男は身体を震わせた。
「ついに、復活なされたのですね!」
「ご苦労だった」
ミオは男に顔を向けた。
「湯浅」
湯浅は静かに頭を垂れた。
「ところで」
ミオは眼を細めた。
「妙なものを連れて来たな」
「え?」
湯浅は振り返った。
背後から覆い被さるように黒い影が密着している。
振り向いた瞬間、湯浅の全身に電流のように悪寒が走った。
思わず悲鳴を上げ、飛び退る。
黒い影はその傍らを滑るように音もなく抜け、病室に入った。
スライドドアが閉まり、室内が暗くなる。
「おまえは」
ケインは影を見上げ、戦慄した。
「ダーク・モンク!」
人型の影は裾の長い黒のベンチコートを着て、フードを目深に被っていた。
「ダーク・モンク?」
フードの影の中で、見えない顔貌が不快げに歪むのがわかった。
男はざらざらと耳障りな声で言った。
「無礼者め……我が名は、アレクシス・アレクセイエフ」
その名乗りに応えるように、ベッドのミオが威厳を込めた声で言った。
「我は荒神亜門なり」
「闇の求道者……死の僧侶よ……」
アレクシスはベッドに向き直り、少女の姿を観察するように言った。
「あなたはすでに、活動限界を迎えていたはずだが?」
ミオは不機嫌そうに顔をしかめ、黙っている。
アレクシスはベッドの少女の姿をまじまじと見つめ、低く声を落とした。
「それが転生した姿か」
「転生では、ない」
黒いフードを微かに傾け、アレクシスは言った。
「なるほど……器を乗り換えたか」
「そんなところだ」
ミオは素っ気なく答えた。
「そうまでして、まだこの世に留まるつもりか?」
ミオは答えず、見透かすように眼を細めた。
「どうした、その顔は?」
アレクシスは口をつぐんだ。
「闇に、顔を喰われたな?」
ミオは沈痛な口調で言った。
「……愚か者が」
「望んだことよ」
黒い男は低く言った。
「この闇を通せば、人の世の理が見える」
「笑止」
ミオは吐き捨てた。
「そんなものは錯覚に過ぎぬ」
「荒神よ」
アレクシスは姿勢を正すと、口調を変えた。
「お前に教えよう。私は進化の階梯を昇った。私は人を超えたのだ」
「お前は進化などしていない。闇の力に取り込まれるなと言ったはずだ」
アレクシスは昂る気を鎮めるように大きく息を吐いた。
「私の進化が、闇の力だと?」
「人に与えられた知覚の範囲を超えたつもりか? だがオーバーフローした情報は知覚へ反転移する。そう教えただろう」
「知覚の伸展ではない。アペンドだ」
アレクシスは苛立った声を上げた。
「付加領域としてならば制御できる。今までそれを成し得た者はいなかった。しかし、私がこの身をもってそれを実現した」
「どんな方法であれ、無意味だ」
ミオは完全に否定した。
アレクシスは押し黙った。
「おそらく仮想空間での操作能力は『神』にも匹敵するほど増幅されたのだろう。今の段階ではな」
「今の?」
「やがて処理し切れない情報が溢れ出し、お前は電子情報の海に飲み込まれる」
「……」
「既に顔を失った」
ミオは痛ましげに言った。
「じきに実体が保てなくなるぞ」
室内に重苦しい空気が流れた。いや、実際に密度が増したように空気が重くなっている。何か見えない力が充満しつつあった。
「荒神、いや……」
黒衣の男は絞り出すように言った。
「我が師よ」
ベッドのミオは黙っている。
「師よ」
アレクシスはかすれた声で繰り返した。
「呼ぶな!」
ミオは撥ね退けるように言った。
「お前は進化したのではない。ただ誤った道に入っただけだ」
「お…お…おおお……」
アレクシスは天を仰ぐように顔を上げ、大きく嘆息を漏らした。
それは深い絶望と哀惜に満ちた、苦悶の吐息だった。
「私は」
アレクシスは息を吸い、影の中の視線をベッドに向けた。
「失望した」
「ふん」
ミオは鼻で笑ったが、黒い男をじっと見つめ、眉をひそめた。
「お前は……まさか……」
「ブレイン・テクノロジーの創発はなぜ起きたのか」
アレクシスは言った。
「大きな流れはただ流れているのではない。やがて臨界点に達し劇的な変化を生む」
黒衣の男はじりじりとベッドに近づいて行く。
「飽和しつつある世界は大きな変革を迎えた。人類そのものが今、混沌の縁にいるのだ」
「テクノロジーが、人間を変えると?」
「おそらく、それは過去にも繰り返されて来た」
「古代超文明が存在した証拠はない」
ミオは憮然として言った。
「自分自身が体験することで私はそう確信した」
アレクシスはかまわずに言った。
「電子情報空間への越境は、人が進むべき道であると」
「不可能だ」
ミオは上目遣いに男を睨んだ。
「ネットワークとのリンクなど」
「脳の空き容量はそのためのもの。そう設計されている」
「あの男の受け売りか?」
ミオは嘲るように言った。
「確かに皮肉なものだ」
アレクシスは声なく笑った。
「私が辿り着いた結論が、『偉大なる父』と同じだったとは」
「勝手にしろ」
ミオはそっぽを向いた。
「私は確かめに来たのだ。我が師であるあなたを」
アレクシスは顔を伏せた。
「世界が必要としているかを」
部屋の中のプレッシャーがどんどん高まって行く。
座り込んだケインは壁に押し付けられたまま室内を見渡した。山本もセキュリティ達も皆青ざめた顔で壁際にうずくまり、身動きできないでいる。
「答えは出た」
アレクシスはゆっくりと言った。
「唯、虚無のみを願うあなたの存在こそ、無意味だ」
「頭に乗るな!」
突然、ミオは目を吊り上げ憤怒の形相で叫んだ。
「お前に我が存在の是非を問うことなどできぬ!」
「あなたはこの世界に、何ももたらさない」
黒衣の男は断じると、その影のような姿をゆらりと揺らした。
「今のあなたは『障害』でしかない」
フードに隠れた顔から、何か漠然とした黒いものが流れ始めた。それは闇の中でもはっきりとわかる濃密な暗黒だった。
ゆらゆらと空中を漂い、触手を伸ばすようにベッドに向っていく。
「さらばだ」
アレクシスは静かに告げた。
「師よ」
ミオの短い髪の毛がざわざわと逆立ち、見開いた眼が赤く炯った。
アレクシスの顔から流れ出た暗黒の霧がミオのいるベッドを取り巻き、包み込もうとしている。
気がつくと部屋の空気が質量を持ったかのように身体全体に重くのしかかり、ケインは這いつくばるように床に押し付けられていた。全身に砂袋を乗せられたように筋肉と骨が軋み、顔を起こすこともできない。
ケインは歯を食いしばって強大な圧力に耐えた。
ミオと対峙した男との間で強烈な力が拮抗し、部屋の中に充満して行く。
四方の壁がめりめりと音をたてて外側へ膨張し、紙のように歪んだ。
「おおおおおおお!」
二人の怒声がぶつかり合った。
破裂音が轟いた。
床がめくり上がり、ケインの身体が宙に浮かんだ。
そのまま暴風に吹き飛ばされるように空中を飛ぶ。ケインは身体を激しく壁に叩き付けられ、落下した。
周囲の照明が消え、一瞬で真っ暗闇になった。
ケインは顔にかぶさった石膏ボードを押しのけた。
崩れた瓦礫の間に仰向けになり、支持材や配線が剥き出しになった天井を見上げる。千切れて垂れ下がった電線から火花が散り、ストロボのように明滅する光の中にもうもうと粉塵が舞い上がっている。
ケインはほこりにむせながら身体を起こそうとしたが、落下した天井材が脚の上に重なって身動きがとれない。
骨折はしていないが、建材の隙間に足が挟まっている。救助を待つしかない。
破壊された支持材や壁材がギシギシと音を立て、何かが近づいて来る。
仰向けになっているケインは顎を引いて足元を見た。
四つん這いになった人間のシルエットが浮かび上がった。
髪の毛を短く刈り上げた、痩せた少女。
「ミオ……?」
少女は猫のような動きで這い進んでくると、仰向けになったケインの上にのしかかり、間近に顔を覗き込んだ。
「ミオ!」
ケインは妹の顔を見上げた。
「大丈夫か?」
埃まみれになったミオは、鼻からぼたぼたと血を流していた。パジャマの袖口で顔を拭い、べっと赤いつばを吐いた。
ミオは真上からケインの顔を見下ろした。
「覚悟を決めよ」
「なに?」
ミオは眼を見開き、ケインを凝視している。
気弱だった妹とは思えない強い視線にケインはたじろいだ。
その眼にはもう怒りの色はない。しかし黒い瞳は夜空に開いた穴のように、このうえなく昏く、虚ろだった。
「お前の存在は障壁を切り裂き、異世界と接触することにある」
ミオは静かに言った。
「お前はそのために造り上げられ、今日まで生きて来たのだ」
ミオは両手でケインの頭を挟み込み、髪の毛をきつく握りしめた。
「聞け、御門の子よ」
見上げる瞳の奥で、漆黒の闇が揺らいでいる。
「大きな流れの中で、すべては必然だ」
言葉には真理を語るような強い意志が込められている。ケインは何も答えられず、吸い込まれるようにただ少女の眼を見つめた。
「受け入れよ、その宿命を」
「宿命?」
「そうだ」
ミオは顔を寄せた。
「そして、我を」
そのままミオは眼を閉じ、ゆっくりと唇を重ねて来た。
「うっ!」
ケインは驚いて妹の身体を押し返そうとした。しかしミオはケインにのしかかったまま、ぐったりとして動かない。全身が弛緩している。
「ミオ!」
耳元で、すーすーと寝息が聞こえた。
ケインは大きく息を吐くと、強張った身体から力を抜いた。
ミオはエネルギーを使い果たし、眠ってしまった。
ケインは腕を伸ばし、覆い被さる妹の身体を抱きしめた。こうして眠っている間だけは、昔のままのミオであるはずだった。
狭い部屋がぐらぐらと揺れた。
天井の照明が明滅し、ふっと消える。すぐに非常用の赤い光が灯った。
「どうした……?」
真樹は視線を上に向けた。
「爆発か?」
どこかで聞き慣れない警報音が鳴っている。
ラボ・タワーの内部で何か事故が起きたようだ。
「くそっ!」
真樹は金属の壁を蹴り上げた。壁には一面に蹴り後が残っている。
既に拘束されて四日間が経っていた。外部からの連絡は一切ない。
イーノ・セキュリティの弁護士はコネクションを総動員して全力で動いているはずだった。それでもこれだけの時間がかかっているということは、どこかに強力な抵抗があることになる。
「障壁、か」
真樹は呟いた。
御門ケインの『深層記憶探査』に立ち会ったことで、この施設の機密事項に触れてしまったことは確かだった。それにしても……。
「ここは治外法権か」
実銃を携行するセキュリティ、そして完全武装の兵士。
明らかに違法だ。それでもこの巨大な医療施設が何の査察も受けていないのは、日本国政府にそれを行わない、或は行えない大きな理由があるはずだった。
「私が考えても、仕方がない」
真樹は幅の狭い金属製の寝台に横たわると、腕枕をして天井を見上げた。
数時間後、廊下に足音が響き、真樹の部屋の前で止まった。
細いドアが開くと、セキュリティがおびえた顔を出した。
「おい!」
真樹は獰猛な声で叫んだ。
「早くここから出せ!」
セキュリティはびくっと首をすくめると身体を引き、入れ替わりに大柄な男を部屋の中に押し込んだ。
男はよろめき、崩れ落ちるように床に倒れ込んだ。
すぐにドアが閉じられ、ロックがかかる電子音が響く。
男は全身が灰色のほこりにまみれている。真樹は男を見下ろして大きく溜息をついた。
「ううう」
山本は呻き声を上げた。
「もうここは、うんざりだ」
「同感だ」真樹は言った。
「ここは一体なんなんだ? 魔法かオカルトの世界か?」
山本は床を拳で叩くと、苦しそうに上体を起こした。
「骨折はないようだな」
真樹はその様子を見て、素っ気なく言った。
「なにがあった?」
「念動力者同士の争いに巻き込まれ、部屋は崩壊。ケインは宙を飛んで壁に叩きつけられた」
「災難だったな」
真樹は平然と言った。
「それで、ケインは?」
山本は床にあぐらをかくと天井のカメラアイをちらりと見た。
「病室に連れて行かれた。今後は厳重な監視が付くだろう」
真樹は腕を組んで言った。
「本社に戻るしかないな。状況が複雑すぎる。判断を仰ごう」
山本はカメラアイに背を向け、履いていた靴を脱いだ。
「ここを離れるのか?」
「もう、業務の継続は不可能だ」
真樹は口をへの字に曲げた。
「それでいいのか?」
山本はぼそりと言った。
「情が移ったかと思ったが」
真樹は黙っている。山本はゆっくりと振り返った。
「蹴らないのか?」
「あいつは危なくて見ていられない」
真樹は険しい眼で宙を睨んでいる。
「死ななければいいが……」
山本は靴のかかとを外して、小さな装置を取り出した。
「騒ぎを大きくした方が奴らは判断が遅れる。組織化されすぎた弊害だな」
山本はにやりと笑った。
「さて、ドカンと脱出するか」
立ち上がろうとした山本を真樹は手で制した。
「それは使わなくて済みそうだ」
足音が廊下に響き、ドアが開いた。銀髪の老紳士が顔を出した。
「二人とも待たせたな。すまなかった」
「先生!」
真樹は頭を下げた。
「ありがとうございます」
廊下に出ると、アルゴ・エージェンシーの斉藤が立っている。真樹は物もいわずにハイキックを放った。
側頭部を狙った蹴りを左腕でガードした斉藤は微動だにしない。
真樹は舌打ちして素早く構えを戻した。
「ケインの警護は継続する」
斉藤は言った。
「今から病室に行く」
「おいおいマジかよ」山本は頭を抱えた。
「山本!」老紳士が叱った。
「はっ」山本は姿勢を正した。
老紳士は二人の顔を見て言った。
「警護体制は大幅に増員されることになった。状況が変わったんだ。より複雑にな」
「行こう」
斉藤はくるりと背を向けて歩き出す。真樹は並んで歩きながら訊いた。
「どういうことだ?」
「連盟が介入して来た」
「連盟?」
老紳士が説明する。
「国際共通通貨連盟。ブレイン・バトルの大元締めだ。国際的な巨大組織で、先進国政府とも対等に渉り合える」
「怪我をした連盟の委員が上層部を動かしたらしい」斉藤は言った。
「すでに御門ケインは連盟から監視を受けていた」
真樹は言った。
「それがどうして?」
「彼は連盟の直属バトラーになった。現在の所属は連盟からアルゴ・エージェンシーへのレンタルという形になる」
「なんだって?」
「連盟は彼の身柄を管理する必要があるらしい」
老紳士は言った。
「我々はこのラボ・タワーの研究者達と、彼の手を左右から取って綱引きするわけだ」
「先生」
山本は憮然として言った。
「ここには化け物がいますからね。簡単にはいきませんよ」
「化け物?」
老紳士はほこりにまみれた山本の姿を見て顔を引き締めた。
「お前がいうのなら、本当にいるんだろうな」
山本は厳しい表情でうなずいた。
「わかった。後で詳しく聞こう」
エレベーター前にはセキュリティ士官が待機していた。
全員がかごに乗り込む。
真樹は士官に訊いた。
「爆発事故は?」
「いえ」
士官は前を向いたまま答えた。
「何もありませんでしたが」
エレベーターは病室フロアで停止し、真樹と斉藤が降りる。弁護士の老紳士と山本は地上階まで上がり、一旦帰社することになった。
士官に先導され通路を進む。病室の前には制服のセキュリティと、私服のイーノのスタッフが数名固まって立っていた。
「ご苦労様」
斉藤は軽く会釈をして部屋に入った。
中央に置かれたベッドを挟み、壁際のソファにセキュリティとイーノのスタッフがやはり数名ずつ向き合って座っている。斉藤は苦笑してベッドを見た。
ケインは部屋に入ってきた人影をぼんやりと見た。
「おい」
ベッドの端に腰を降ろした真樹が、ケインの胸にそっと手を置く。
「大丈夫か?」
「……真樹、さん?」
「腑抜けた顔を」
真樹は唇を噛んだ。
「くそっ、どうしたら……」
「ケイン」
斉藤が枕元のスツールに座り、ケインに声をかけた。
「レイブンがチームに入った」
良く理解できない。ケインはゆっくりと反問した。
「レイ、ブン……?」
「ディフェンスはアイアン・グレイブだ。これで鉄板だろ?」
「なんの話だ?」
「しっかりしろ、ケイン!」
斉藤は拳でケインの肩を小突いた。
「準決勝だ!」
「準決勝……」
ケインは呟くと、がばっと身体を起こした。
「ジャパン・カップ!」
「そうだ! 忘れるな。お前はブレイン・バトラー、御門ケインだ」
「当たり前だ」
ケインは眼をごしごしと擦った。
「準決勝に出なくては!」
「思い出したか?」
「斉藤さん!」
ケインは声を上げた。
「バトルは、いつだ?」
「明日」
真樹は呆れたように天を仰いだ。