第1章:第1話理想の世界でパンを焼く
パンが焼ける音で目が覚める。
ぱち、ぱち、と小さく弾けるような音と、鼻をくすぐる香ばしい匂い。
寝床から起き上がる前に、ああ今日もちゃんと焼けてるな、と分かる。
――悪くない朝だ。
いや、むしろ良すぎるくらいだ。
俺はゆっくりと体を起こし、窓を開けた。
外はやわらかい光に満ちていて、風は穏やかで、空はどこまでも青い。
十回目の人生で、ようやく辿り着いた世界にしては、出来すぎている。
けれど、文句はない。
むしろ、これ以上を望む理由がない。
店の奥にある石窯の前に立つ。
扉を開けると、熱気がふわりと溢れ出た。
中では、きつね色に焼き上がったパンが並んでいる。
焦げすぎず、白すぎず、ちょうどいい。
この「ちょうどよさ」が、この世界のすべてを表している気がした。
トングで一つ持ち上げ、軽く叩く。
コン、と乾いた音。
いい出来だ。
前の人生では、こんなことをしている余裕はなかった。
一回目は、生き延びるだけで精一杯。
三回目は、力を求めて全部を壊した。
五回目では、守れなかった。
七回目では、世界そのものを巻き込んで――
そこまで考えて、やめる。
意味がない。
今は十回目だ。
「おはよう、店主さん」
扉の鈴が鳴って、常連の男が顔を出した。
「おはよう」
軽く手を上げて返す。
「今日もいい匂いだな。外まで漂ってたぞ」
「そりゃどうも」
そんな何気ない会話。
争いも、緊張も、命のやり取りもない。
ただ、パンを焼いて、売って、誰かが食べる。
それだけだ。
これでいい。
いや、これがいい。
「今日はどれにする?」
「いつものやつを三つ」
「了解」
袋に詰めながら、ふと思う。
この男は、昨日も来ていた気がする。
……いや、気がするだけか。
この時間帯に来る客はだいたい決まっているし、勘違いだろう。
会計を済ませ、男は満足そうに帰っていく。
扉の鈴が、また小さく鳴った。
ふと、外に目をやる。
店の前の道、その端に。
一輪だけ、花が咲いていた。
今は、冬だ。
白い息が出るほどではないが、暖かくもない。
少なくとも、花が咲くような季節じゃない。
「……まあ、そんなこともあるか」
そう呟いて、視線を戻す。
珍しいことではあるが、あり得ないわけじゃない。
この世界は、だいたいが“ちょうどいい”のだから。
多少のズレくらい、誤差みたいなものだ。
俺は何もしない。
それが、この世界で決めたルールだ。
パンを焼いて、売って、適当に生きる。
英雄にもならないし、何かを変えようとも思わない。
だって――
「頑張ると、大体ろくなことにならないからな」
独り言は、焼き上がるパンの音に紛れて消えた。
その日の昼過ぎ。
ふとした拍子に、もう一度外を見る。
さっきの花があった場所に
何もなかった。
(……あれ?)
首を傾げる。
踏まれた様子も、抜かれた跡もない。
最初から、何もなかったみたいに。
「……見間違いか」
そう結論づけて、店の中へ戻る。
パンの匂いは、相変わらず心地よかった。
だからその時は、まだ気づかなかった。
この世界が、
“ちょうどいい”のではなく、
“そう見えるように保たれているだけ”だということに。




