その9
汚い雑居ビルの二階にその居酒屋はあった。
ビルの入口を数人の警官が固めているが、警官と警官の間の隙間をかいくぐって中に侵入する。
階段を上っていくと怒号が耳に入ってきた。
「……めやがってよ。……お前ら……。馬鹿に……」
呂律が回っていないが、声量は大きく、耳障りな声だ。
二階の居酒屋前に到着し、入口に立った。入口ドアはガラスでできていて、中が見渡せるタイプだ。
犯人らしき男の姿がすぐに視界に入った。
男は、五十代くらいで作業着のようなものを着ていて、酔っ払っていることがひと目で分かるような赤ら顔で、とろんとした目をしていた。
若い女の従業員を後ろから抱きしめるようにして包丁を突きつけている。女従業員の顔は蒼白で、今にも倒れそうだった。
店内に客は他に数組。
大学生のような4人組と、サラリーマンらしき集団が何組か。若いカップルらしき姿もある。
客の中には明らかに犯人よりも強そうな男も何人もいたが、犯人が人質に何かするのを恐れて行動には移せないようだった。
皆、遠巻きに犯人を注視しているだけである。
そんな中、入口ドアを開けて、中に入った。
誰にも気づかれない。予想通りなので特に何とも思わない。
僕は躊躇することなく、犯人の男に近づいていった。
ちょっと近づいただけで男の酒臭さが伝わってくる。
これ以上近づきたくないが、そうもいかない。人質になっている従業員の女の子は二十歳くらいで、結構かわいい顔をしていた。
助けてあげたい。
犯人の男の目の前に立った。
相変わらず訳の分からない言葉をまくし立てている。
僕が目の前にいるにも関わらず、男の目は全く僕のことを見ていなかった。
客席を見回すが、他の客も従業員も誰も僕に気づいている様子はなかった。
これだけ注目されやすい状況にも関わらず誰にも気づかれない。
これも師匠の教えのたまものだった。師匠に今の自分の晴れ姿を見せてやりたかった。でも、師匠はもういない。
人質の女の子の顔を至近距離からがん見した。血の気が完全に引いて、幽霊みたいに白い肌。
恐怖を通り越してほとんど無表情に近いその顔は美しかった。
自分の気づかれなさをちょっとだけ呪った。
女の子だけ自分の存在に気づいてくれれば、張り合いというものがあるのだが。
でも、女の子は全く僕の存在に気づいていなかった。
やれやれ。
だが、せっかくここまで来たのだ。助け出さない訳にはいかない。
僕は、犯人の男の後ろに回り込み、その両脇腹にそっと手を伸ばした。




