その8
師匠が捕まってから、僕の気づかれなさはますますレベルアップしていった。
職場の中を、雄叫びをあげながら走り回ったが、同僚たちは何事も起きていないかのように普通に仕事をしていた。
嫌いな上司の頭をはたいたが、上司は僕の方を見ているくせに僕という存在に気づいていないみたいで、「頭が痛い。昨日寝違えたかな」などと素っ頓狂なことを言った。
受付嬢の柴坂さんには、好きです、と告白したがニコニコ笑っているだけで何も答えを返してくれなかった。
一人で女風呂に入ったりもしたけれど、師匠の教えを忠実に実行し続けた僕は人間的な欲望を一切抱けないようになっていて、何の感動もなかった。
気がつくと僕は駅のホームに立っていた。
あと五分ほどで特急列車がここを通過する。今度こそ飛び込んでやろうと思った。
今の僕の気づかれなさでは、問題なく完遂できることだろう。
思い残すことは何もない。今思うと師匠との日々はちょっと楽しかったな、と思う。でも、師匠はもういない。
その時、少し離れた所でサラリーマンらしき男が話すのが聞こえてきた。
「居酒屋で立てこもり事件だってよ。現場このすぐ近くじゃん」
立てこもり事件? 居酒屋?
特急列車が現れるまでの暇つぶしにスマホを取り出し、検索した。
すぐに出てきた。
現場はここから徒歩圏内の場所にある居酒屋だった。
会社からも近く、昼間の時間帯はランチ営業もしているので、何度か食べにいったこともある。こじんまりしているが、味に定評のあるいい店だったはずだ。
特急列車に飛び込むのは後でもできる。
野次馬根性で現場に向かった。
現場は警察やらマスコミやら野次馬やらの人でごった返していた。
かき分けて何とか最前列まで行く。
これ以上入ってはいけないというラインを警官たちが作っていて、誰もその先へ行こうとはしないが、僕は気にすることなく歩いて行った。誰も引き留めるものはいない。なぜなら誰も僕に気づいていないから。
マスコミが報道するのを聞いていて、事件の全容は大体掴めていた。
居酒屋で無銭飲食をした男が人質をとって立てこもっているのだ。男はひどく酔っ払っていて、一億円用意しろとか逃走用のヘリをよこせとか支離滅裂な要求を繰り返しているという。
酔った男が人質を傷つける可能性がある為、警察もすぐには踏み込めない状況だそうだ。
僕が現場に足を踏み入れたとしてもどうせ気づかれる訳がない。
僕は犯人を捕まえてヒーローになりたかった訳でもなく、野次馬根性でどうせならもっと近くから状況を眺めてやろうと思っているに過ぎなかった。
師匠の教えその一。こうなりたいとかああなりたいとかいう邪念を捨てるべし。
僕は未だにその師匠の教えに忠実だった。




