その5
生まれてこの方誰かの弟子になんてなったことがない。密な人間関係が何よりも嫌いだというのに、師弟関係なんて師匠の顔色を常に窺わなくてはいけないような面倒な人間関係なんて結びたくないに決まっている。
しかも、目の前で消えたり見えたりを繰り返しているこんな髭もじゃで浮浪者のような変なおじさんに何が楽しくて弟子入りしないといけないのか。
何のメリットもない。
が、一応話だけ聞こうということで元々乗るはずだった電車に乗り込み、いつもの最寄り駅で降りて、駅からほど近いファミレスまでやってきた。
そこまでの道すがら、ずっと不思議だったのは男が自分以外の誰にも気づかれていないように見えることだった。
電車の中では若いOLをありえないような至近距離から舐めるように見ているのにOLは無反応だったし、駅の改札では切符を通さず駅員の前を素通りしているのに駅員からは何も注意されていなかった。
僕は人から気づかれにくいことに関しては誰にも負けない自信があったが、さすがに男と同じことをやったら気づかれてしまう自信がある。
そして、今、ファミレスで席についた時も店員が水を置いたのは僕の前だけで、男の前には何も置かれていない。
「悪いがコーヒーを二つ頼んでくれないか。金はちゃんと払うから」
男の頼み通り、店員にコーヒーを二つ頼んだ。眠そうな目をした若い女のファミレス店員は一瞬だけ奇妙なものを見るような目で僕のことを見たが、すぐに眠そうな顔に戻って奥に消えていった。
男は、僕の目の前で消えたり見えたりしながら不敵に笑っている。
「……あなたは、一体何なんですか?」
「君と同じだよ。ただ、君よりもっと修行を積んだだけだ」
男の声は、見えない幕の向こう側から聞こえてくるような声で、深夜で客も少ないこんな時間帯でなければ聞き逃してしまうような声だった。
「修行?」
「人から気づかれにくくなる修行さ」
心臓がどくん、と跳ねた。人から気づかれない、という言葉は僕にとって人生のテーマでもあった。コミュ障はコミュニケーションの本を読んで自分を変えようとする。でも、人から気づかれないという体質を持って生まれた僕のような人間はどうすればいいのか。
目の前の男が答えを知っているかもしれないと思った。
「君のことはちょっと前から気にかけていた。僕と似た体質の奴は見ればすぐに分かる。駅前で見かけた時、随分思い詰めた顔をしているからもしかしたらと思ったが、案の定さ。つけていって良かった」
全然気づかなかった。駅で特急列車に飛び込む直前にも辺りを見回したが、男の姿なんて視界に入らなかった。
「君にも気づけていなかっただけで、俺もそこにいたのさ」
眠そうな顔のファミレス店員がホットコーヒーを二つ持ってきて、二つとも僕の前に置いた。
「あの、すみません。一つはそっちに置いてもらって良いですか?」
僕がテーブルの反対側を手の平で指し示すと、ファミレス店員は突然目を大きく見開いて奇妙なものを見るような目で僕のことを見た。それから言われた通り、男の目の前にコーヒーを置いた。
ファミレス店員が去ってから、男はうまそうにコーヒーを飲んだ。
「旨い。客としてちゃんと飲むコーヒーはやっぱり旨いねえ」
「……あのコンビニ店員には、あなたのことが見えていないんでしょうか?」
そうとしか思えないファミレス店員の態度だった。
「そうだな。見えていないというよりも、気づいていないというのが正しいか。君にも心当たりはあるだろ」
あった。
家族全員でファミレスに行ったのに何故か僕だけ水をもらえなかったこと。一人でカフェに入ったのに店員に全然気づいてもらえず一苦労したこと。
この男も自分と同類なのだろうか。それにしても男の気づかれなさは異常だった。
「修行を重ねたせいさ」
男は僕の考えていることを読み取ったかのようにそう言うとにやりと笑った。といっても目は全く笑っておらず、髭の奥の口が歪んだのでそう見えただけだ。
男はそうして話し始めた。彼の半生のことを。




