後編
「おつかれ」
会社の最寄駅ではなくて、一駅分だけ歩いた居酒屋に莉羅とイロハは入った。一駅分と言っても歩いたのは十五分も掛かってない。
「久し振りに来たわ」
莉羅は温かいおしぼりで指先を丁寧に拭う。子供は近くに住んでる母親が面倒をみてくれているらしい。
「子供が出来ても飲みに付き合ってって結婚式で言ってたよね」
裏切り者。と目で訴える。
「だから来たじゃない?」
こっちは気軽に誘えなくなってるのよ!
「それで、どうしたの」
狛江の話を再現すると、莉羅は顎を一度だけ動かした。
「どうしたいか迷ってるっていうのは。二択でいいのよね? 仕事か、結婚か」
仕事に打ち込んで子供を持つのが遅くなるのは嫌だ。私は二人産みたいし、できれば三人育ててみたい。
でも実現するかは分からない。目の前にある仕事に打ち込むのも悪くないと思えてきた。
「そう。伊達くんが早くプロポーズしてくれたらいいんだけど」
「付き合ってすらないのに怖いわよ。でも私としては良かったわ。地元に帰る選択肢は有力じゃないのよね。話せる相手が居なくなっちゃうの寂しいもの」
「莉羅……」
何よもうそんなに抱きしめられたいの。ちょっと母親のことは考えたけどさ。
イロハが広げた両手を莉羅は無視した。
「決断できそう? こればかりは話を聞いてあげることしかできないわ」
「取り敢えず、私から告白するしかないよね」
「そりゃあね」
「なるべく簡単で、断られてもまだ言い訳が残る感じにしたいんだけど、なんかない?」
「告白する気ある?」
こりゃ無理ね。莉羅の予想とは違い、起こり得ないことが起こるのが世の中というものだ。はたまた神のいたずらか。
夢みたいなことが起きた。
「どうですかね。こんなこと、おかしいですかね」
伊達司令さんが、いや司令くんが言った。お付き合いしてくださいと。
打ち合わせを終え、ランチでもとカフェに入った時だった。
「……」
言葉は咄嗟に出てこない。恥ずかしながら、動揺してる。こんなにうまくいくことなんてなかった人生だから。
「すいません。忘れてください」
「宜しく。お願いします」
追いかけるように言うと、安心したようにほっと笑う。
翌日はもちろん莉羅と緊急会議だ。いつもの自販機前で。
「付き合えた?」
「そう」
「勘違いじゃないのよね」
「はっきり付き合ってって言われた。その後、名前で呼んでくれたし」
「良かったね」
「どうしよう。部屋のソファで起き上がったら。それだけが怖いわ」
「全部夢かもよ」
「嫌だぁ。立ち直れないかも」
「何の話すか」
後藤がやってきた。莉羅がこっちを見る。私は小さく頷いた。
「イロハが手塚さんと付き合えたんだって。企画展の人」
小さな声で耳打ちする。背の高い後藤はその為に背中を丸めた。なんか絵になる仕草ね。
「ああ。あの顔が良い人ですよね」
なんていうドストレートな感想よ。魅力は他にもいっぱいあるんだから。たぶん。
「おめでとうございます」
後藤と目が合う。
「うん」
素直に言われるとこれはこれでなんかなあ。いつもみたく憎まれ口の方がいい。
「偉いじゃん」
莉羅がなぜか後藤を褒めている。頭を撫でようとしてきた手をふんぞり返ることで回避していた。
「とにかく、これ見て」
スマホを操作してギャラリーを開く。
「おお?」
「先輩料理できたのですね」
四角いグリーンの平皿に盛られたのはラザニアだ。断面が綺麗な層になっていて、ミートソースとホワイトソースが垂れている。
隣にはガラス製の耐熱皿があり、そこに大本のラザニアがあった。焼きすぎて一部が黒く焦げたチーズからは香りが立ち上ってきそうだ。
「鮭とほうれん草のラザニア。美味しそうでしょ?」
料理名を聞いて、後藤が写真と私の顔を往復する。
「二度見しました」
これほど失礼な二度見があろうか。
「私もたまにするけど、等間隔で層にするのって難しいのよね。というか告白されたの昨日で、凄い行動力だわ」
「というか暴走ですよね」
安心して、そこまで手間は掛かってないの。とイロハは余裕の表情で指を振る。
「これね。デパートで買ったやつを手料理風に直したの。私は上にチーズを乗せてオーブンで焼いただけ」
一瞬だけ時が止まったみたいに、二人が固まる。
「二度見した分だけ二倍失望しました」
後藤が冷たい目で見下ろす。
「なんでよっ。これからおうちデートするかもしれないでしょ。その時に普通ご飯より綺麗なご飯振る舞ってあげたいじゃない」
「普通ご飯でもいいじゃない」
「男は肉の量と酒の種類しか興味ないですよ。あとはビールが冷えてるか」
当の男からの意見がまっすぐ突き刺さる。
「くらっときた。じゃあ私の努力はなんだったの」
「イロハはチーズ焦がしただけじゃない」
「努力に力でぶん殴られてください」
小鳥のようにぎゃあぎゃあと喚く二人を後にしてデスクへ戻る。
ふむ。
でも二人は騙せたな……。
起きた。
いや、瞼を開けるのが怖くて。目を開けてはいないけど起きてる。そんな宿題はまだしてないけど、やり方は理解してるから終わってるみたいな。
って自分にツッコミ入れてどうする。
――どうしよう?
昨夜のことが夢だったら。おうちデートして、泊まってそれから。
やばい。やばいなあ。
昇進だってそうだ。現実がこんなに望み通りになるわけがない。
恐る恐る手を動かす。肌触りは、うちの布団?
嗚呼、夢か。
でも分からない。布だけじゃ分からない。手を横にするするっと動かすと、なにかにぶつかった。
怖くても、見たくなくても、理想と現実が違っても目は開けていたい。
だって幸福は現実にしかないから。幸せは妄想では味わえなくて、だからこそ私は辛い思いをしているわけだけど。
仄暗い瞼の裏を押し上げ、世界におはようと言って一日を始める。
今にカーテンを開けるのだ。




