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嗚呼、夢か  作者: 真月 一蓮


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1/3

前編

 

 その時、信じられないことが起きた。


 奇跡を呼ぶために奇跡が起きたのだ。つまりは何かどでかいことを願う為の土台ができたわけだ。

 ちょうどカーテン(淡い緑色で、薄く竹林が描かれていた。二十八歳の誕生日に買ったやつだ)の向こうでは流れ星が一つ、星空に大きく尾を引いた。気付いた何人かが、遅れて手を合わせた。

 三日前にどこかのアホが頭に付けたガムを、落ち葉で取ってあげたお地蔵さんはマンションの解体工事のお陰で、その緑色のカーテンが見える状態になっている。

 ついでに近くの神社ではお賽銭を入れた男性がガシャガシャと鈴を鳴らしている。



 お酒を飲んでいる内にソファから尻がずり落ち、背中で座った状態のイロハはぼんやりと天井を見ている。

 およそ三十歳を過ぎた女性とは思えぬ態度である。外ではしっかり者を演じている反動とも言える、のかもしれない。

 テレビは点けているだけで、見ていない。お笑い芸人の、がっはっはっは。と大きな笑い声が響いた。


 うぐ、なんか匂う。


 飲み終わった後の缶ビールの匂いは嫌い。

 ローテーブルの下に置いていた缶を手で遠ざけ、さらに足でずりずり押す。当然のように倒れた。空っぽだからこぼれはしない。

「ありゃりゃ」


 そろそろ片付けよう。


 よし片付けよう。


 今だ起き上がれ。ヨシッ――。


 だめだ立ち上がれない無理。


 「あーあ。片付けてくれる人がいれば。……イケメンで優しい素敵な旦那様がお空から降ってこないかな。私のこと大好きでさ、ちゃんと定職で」

 ふっ。

 前髪をかき上げても、言葉は下らないままだ。自嘲して漏れた息の行方は、神のみぞ知る。

 春は薄着でちょうどよい気候の日だ。いつの間にかイロハは寝てしまった。安らかな寝顔は幸せそうで、すうっと深い寝息は長い、長い夢へと誘う。



 「ぐが」

 肩が跳ねる。起きた。

 窓の外は真っ暗だ。

 贅沢な日曜日の遣い方をしていることに、イロハは少し不安を感じている。うら若き乙女たちは今頃繁華街で女子会やらデートやら、そうでなくとも美容院やエステに通っているのだろうな。

 ――このまま?

 私はこのまま年を取っていくの?

 今は楽しい。けど来年も再来年も楽しいか分からない。若さを失っていく恐怖が、首をもたげる。

 しかしもたげただけだった。


 まだ三十二歳――。焦る年齢ではない。それにイロハには筋金入りのメンタルがある。(屁理屈で)理論武装され、(暴走しがちな)女子力により繕われた美しい心だ。

 ずる。

「んあ。よだれが」

 プゥ。

「んあ。屁も出た。……さて、歯磨きしよっかな」


 大事なことなので繰り返すが、イロハは外ではしっかり者を演じていた。もちろん演じ切れてはいないが、努力している。




「おはようございます」

 出勤するとさっそく上司の狛江に呼ばれる。

「押木。ちょっといいか」

 押木五郎八おしぎ いろはは名前も珍しければ、苗字もなかなか聞かない。

 キラキラネームほどではないが、小学校の頃は親を呪った(なにせゴローだとか、ゴロハチとかっていかついあだ名で呼ばれたから。こんなにも可愛らしい私を捕まえてそれは屈辱的なことだった)。

 あっ、今は呪ってないから長生きしてね。


 「取引先が挨拶に来るから同席してくれるか。夏フェアの担当も一緒みたいでな」

 イロハが勤めているのは家庭用から業務用までカバーするカーテンの会社だ。そしてこの度は企画展を任されることになった。

 「あ、そうですか。是非是非。午後の二時ですね。承知しました」

 だったら爆速で仕事をしないと。

 定時で帰りたいのに。うひー。こりゃあ午前中は忙しいぞ。



 「もう疲れた顔してるわね。一日もつの?」

 藍田莉羅あいだ りらは心配と呆れが半々くらいの表情をしている。背が小さく、きつね顔に切れ長の目は、たまに冷たい。


 私と同期のくせに既に結婚している裏切り者だ。友達じゃなかったら、話し掛けられないよう、さっとコーヒーだけ貰って自販機前から退散するのに。

 「誰が裏切り者よ。誰が」

 眼鏡の奥から白い目で私を睨む。

 「あれ、漏れてた?」

 「思いっ切りね」

 冗談ですってば。

 「コーヒー?」

 「うん」


 コーヒーメーカーと並ぶように設置された自動販売機で莉羅はストレートティーを買った。私はコーヒーメーカーに豆をぶち込んで紙カップをポンと置き、スイッチをペンと押す。

 やけにこのスイッチ音が響くのよね。

 みんな会社のコーヒーを美味しくないっていうけど、無料なんだからいいじゃない。

 「――それでどうだった?」

 「どうだったって?」

 今度こそ呆れ顔になった。

 「もしかして。土曜のデートはお流れ?」

 「いいえ、しっかりと、行かせていただきましたよ?」

 こくりと莉羅が頷く。

 「でもお昼で解散でした」

 「あら。なにやらかしたの?」

 「私がいけない前提なのやめてくれる?」

 ぺぇん。手持無沙汰にスイッチをもう一度押す。

 叩くようにすると良い音が鳴った。

 「なんか急に自分の好みの女性像を話し始めてさ。それがいわゆる清楚系で。ぺぇん」

 なるほどね、と莉羅も納得してくれる。

 「それ分かるかも。うちの旦那がこの前、清楚系の子っていいよねとか言ってて、なんかモヤっとしたの」

 うんうん。


 ちょっとペシペシうるさいですよ。と横から後輩の後藤がやってくる。

 「どういう話ですか」

 「要約すると清楚系の女の子はあざといって話?」

 「アラサー二人が僻んでるのってこんなにも切ないのですね」

 はい。今こいつは何億いるか分からない敵を作りました。夜の帰り道は気を付けろよ。

 「僻まないよ。後藤くんはどういうタイプが好きなの?」

 莉羅が尋ねる。

 「なんです急に」

 いきなり自分へ振られて後藤が動揺してる。

 イイキミダ!

 「ごほん。まあ、美人さんですかね」

 「その美人は清楚系と被るところある?」

 「あー。あるかもしれないですね?」

  イロハがしてやったりと笑う。

 「でしょ。ほら」

 僻んでると言われ、実は傷付いていたのだ。

 「清楚系とはまた違うとも思いますけど」

 「あのね。どうして清楚系を女が目指すと思う?」

 イロハの質問に後藤は少し考えてから言う。ちょっと細かいところがあるけど、こうして素直な男なのだ。

 「普通に可愛くなりたいからじゃないですか?」


 やれやれ。

 この甘えんボーイは。唇の端に引っ付いた母乳が拭い切れてねぇや。


 「なんですか」

 イロハと莉羅はため息をつかざるを得なかった。それも深いため息を。

 二人は目を合わせる。今のうちに青二才の幻想を打ち砕いてやるのも優しさ、か。

 「清楚系ってさ。おしとやかで綺麗でってイメージでしょ。男漁りなんてやってませんよ。恋愛も白馬の王子様が来るまで待ちますとか。アフォガードとかお洒落なカフェで飲んでるのよ」

 途中でイロハの偏見が入ったのはご愛敬だ。別に彼氏が盗まれたとか、嫌がらせを受けた経験は一切ない。

 「それだけモテる努力できるんだから男が好きなのよ。だって芋女は清楚かって話じゃない」

 「芋女は、芋女じゃないですか。それより狛江さんに呼ばれてましたよ」

 「あ、もうそんな時間か。これ飲んだら行こうかな」

 

 まったく。それを先に言いなさいな。今の若い子って報告の基準がバグってないかしらん?

 報告も伝言も蔑ろだったイロハは思う。


 「でもじゃあ、先輩は清楚系になりたくないんですよね」

 「ほっ……」

 意表を突かれたイロハの口から情けない声が漏れる。

 うふふ。藍田が口元を隠して笑う。

 まるでおバカさんみたいに半開きになった口を閉じ、私は無言でこの馬鹿を睨んだ。

 「ト、トイレいってきます」

 後藤がそそくさと退散していく。飲物を買いに来たんじゃないのかい。

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