同心円の外側
廊下の床は、同じ模様を繰り返していた。
白と灰色のタイルが、規則正しく並んでいる。どこを踏んでも同じ位置に戻ってくるみたいで、歩いている感覚が少しだけ曖昧になる。
唯は立ち止まる。
足元を見る。
円に見えた。
気のせいだと思って、もう一歩進む。
同じ場所にいる感じが残る。
息を吸う。
吸ったはずの空気に、肺があとから追いつく。
もう一度、吸う。
今度は意識して、ゆっくり。
先に「吸った感覚」だけが来て、身体があとからそれに従う。
手を上げる。
動きが決まってから、“結果”が遅れてついてくる。
世界が、少しだけ後から来る。
「……なにこれ」
小さく呟く。
その声も、わずかに遅れて耳に戻る。
自分が“今”にいない。
そんな感覚だけが、確かに残る。
唯は、教室のドアを開けた。
ざわめき。
笑い声。
椅子の音。
全部がいつも通りで、全部がわずかに合っていない。
その中に入る。
ほんの少し遅れて。
明は席にいた。
窓の外を見ている。
その横顔が、ガラスに映る。
遅れて、同じ角度で重なる。
「ねえ」
唯が声をかける。
机に置いた指先で、同じ場所を二度叩いてから、三度目を少し遅らせる。
「なんか、変なんだよね」
明はすぐに答えない。
視線を落としたまま、呼吸がわずかに遅れる。
「……ズレてる」
唯は一瞬だけ瞬きを忘れる。
それから遅れてまばたきをして、笑う。
「それ、昨日のやつ?」
明は小さく頷く。
動きが終わってから、同じ角度にわずかに戻る。
「多分」
「じゃあさ」
唯は椅子にもたれかかる。
軋む音が、あとからついてくる。
「戻るよね?」
明はすぐには答えない。
窓の外を見る。
映った自分の動きが、ほんのわずかに遅れている。
「……分からない」
唯の笑いが一拍遅れる。
それを埋めるように、少しだけ大きく笑う。
「分からないって、なにそれ」
髪を耳にかける。
その動きが、途中で一瞬だけ遅れる。
「だってさ、ただの音でしょ?」
明はペンを指で転がす。
一周して戻る。
戻ったはずなのに、わずかにズレている。
「音、残るって言ってた」
唯の視線が揺れる。
「え?」
「さっきの放送で」
唯は考える。
思い出そうとする。
だが、順番が出てこない。
言葉だけが浮いて、意味が追いつかない。
「……それ、関係ある?」
一拍。
周囲のざわめきと合わない間。
「あると思う」
明は言い切る。
「戻す必要ある?」
背後から声が落ちる。
美遊が壁にもたれている。
その存在だけが、少しだけ遅れて空間に馴染む。
「え?」
「戻す必要、ある?」
同じ言葉。
同じ高さ。
だが、少しだけズレて届く。
「あるでしょ」
唯は即答する。
「普通に戻したいだけなんだけど」
“普通”という言葉だけが、少し浮く。
「普通って、どこ?」
美遊は動かない。
視線だけが、わずかに遅れて合う。
「どこって……今までの」
言いながら、その言葉に自分が遅れて追いつく。
「それ、もう無いよ」
静かに言う。
言葉の意味が、少し遅れて落ちる。
窓の外。
丸い光がいくつも重なって見える。
唯が黙る。
机の上の指が、円をなぞる。
「……でもさ」
声が小さくなる。
「変じゃん、今の」
「変だよ」
美遊は頷く。
動きが終わってから、わずかに重なる。
「だからいい」
「よくないでしょ」
唯が一歩前に出る。
「だって、ズレてるんだよ?」
その言葉の途中で、自分の声がわずかに遅れて返ってくる。
唯は一瞬だけ止まる。
「うん」
「ズレてる」
「だったら——」
「揃えなくていい」
言葉が重なる。
ぴったり揃う。
その揃い方だけが、不自然に綺麗だった。
沈黙。
明は二人を見る。
唯は視線を外す。
美遊は外さない。
同じ場所にいない。
「……このままだと危ない」
明が言う。
「危ないって?」
「分かんないけど」
「でも、戻らないなら」
一拍。
「ちゃんと見ないといけない」
美遊が少しだけ笑う。
「でしょ」
「……なにそれ」
唯が呟く。
「もう一回やろう」
「昨日のやつ」
「今の状態で?」
唯の声が、わずかに遅れて届く。
「今の状態じゃないと、分からない」
沈黙。
その外側で、時間だけが少し進む。
足音がする。
だが、その音もわずかに先にある。
「……やろう」
明が言う。
その言葉で、決まる。
唯は一度だけ呼吸を整える。
「……一回だけね」
三人が立つ。
同じ場所にいる。
しかしその瞬間は、それぞれ少しずつ違う位置にある。
足元の影が、ほんのわずかにずれる。
まだ戻れる。
そう思える距離のまま。




