第4話:ここは異世界、名はアルカディア
路地裏で死にかけた誠二が、目を覚ましたのは見知らぬ天井の下――教会の一室。
穏やかな神父・ダリアに癒やされ、ここが異世界“アルカディア”だと告げられる。涙が光になる魔法「レイ・クライ」、そして自分を救った“赤頭巾の少女”の存在。
帰還手段は不明、身分の保証もなし。ならば生きるために――誠二は冒険者になる決意を固め、まずはギルドへ。胃袋を満たす朝食から、異世界の一歩目が始まる。
――目を覚ます。見上げた先にあったのは、見知らぬ天井だった。
さきほど路地で浴びた、あの剥き出しの陽光はない。窓から入る光はやわらかく、部屋の埃を金の粉みたいに浮かび上がらせ、ちょうどよく床や壁を照らしている。
背中に感じるのは石の冷たさではなく、ふわりと受け止める弾力――ベッドだ。薄手の掛け布団。指で布地をつまむと、ごく素朴な織りの手触りが返ってくる。
上体を起こし、周囲を見回す。日本のそれとは趣きの違う内装だった。
家具はどれも木製で、角は丸く磨り減り、年季が刻まれている。壁には蝋燭台が取り付けられているが、電灯やスイッチの類はどこにも見当たらない。昼の明るさがあるから不便はないが、夜はどうするのだろう――そんな当たり前の疑問が、ここが「別の理」で動く場所だと静かに告げる。
そのとき、扉がきしんだ。
ギギッ、と乾いた音。茶の髪をなでつけた男が一人、黒衣の裾を静かに揺らして立っていた。胸元には小ぶりな金の十字架が下がり、窓明かりを細く反射する。背丈は誠二よりわずかに高い――百八十ほどか。彫りの深い顔立ちが西洋人めいた印象を与え、刻まれた皺が四十代の風格を添えている。
「おや、起きられましたかな。体調はいかがでしょう」
「おはよう……ございます」
声を交わした拍子に、路地の記憶が逆流する。掴まれ、振り回され、壁に叩きつけられ――骨が悲鳴を上げた、あの瞬間。
慌てて自分の身体に触れる。あの痛みを刻んだはずの傷がどこにもない。夢か、と一瞬よぎるが、すぐ否定した。あの圧倒的な痛覚は、夢の再編集が生み出せる類いのものではない。現実だ――と、彼は悟る。
「あの……俺、たしか変な奴にぼこぼこにされて……血とかもヤバくて……でも、傷が、なくて」
うまく言葉が繋がらない。男は近くの椅子に腰を下ろし、穏やかな相槌で続きを促す。その視線の温度に、誠二の胸のざわつきがゆっくり沈んだ。
「ええ、ええ。大変でしたね。ですが、もう大丈夫。あなたの傷は、私と――あなたを助けた女の子が癒やしました」
「赤い頭巾を被った、小柄なお嬢さんです。あなたを引きずってここまで運ぶと、『後は任せた』とだけ言って、風のように行ってしまわれましてね」
「赤い……頭巾」
血の膜越しに滲んだ景色の中で、ひときわ鮮烈に残る色がある。
緑――宝石めいた、冷たい光を宿す瞳。
「緑色の、瞳……」
「そう。とても綺麗な緑でした。彼女自身も傷を負っていたのに、制止を振り切って……。面目ないことです」
「いえ、その……あなたも助けてくれたんですよね。遅れましたが。ありがとうございます」
誠二は慌てて頭を下げる。ベッドに腰掛けたまま、できる限り深く。男はわずかに目を丸くし、すぐ柔和な笑みに戻った。
「礼には及びません。私は神に癒しを授かった者として、なすべきをなしただけ。あなたを災厄から救ったのは、あの少女です」
作り物ではない笑顔だった。誰かの痛みに寄り添うことが日常である人の、静かな顔。胸の奥がほどけ、抗えず涙がこぼれる。
「あ、いや……うぐ……ごべ……んなさい。こんな助けてもらっ……て」
「構いませんよ。それが私の役目です」
男は目をそっと閉じ、短い言葉を紡ぐ。
「――レイ・クライ」
頬から零れた涙が、宙にほどけて光の粒になった。きらきらと瞬き、空気に溶ける。
誠二は思わず目を見開いた。現実だ。自分の涙が、小さな花火のように光へと変わっている。
「あの……これは」
「涙を光に変える魔法です。私が初めて覚えた術でもあります」
「ま……ほう?」
短い沈黙ののち、男は姿勢を正した。
「やはり、ですね。まずは自己紹介を。私はダリア・ロースト。この国で神父を務めています。あなたのお名前は?」
「田中誠二です」
「誠二さん。――出身は、日本国で?」
当然のことを問われ、誠二は言葉に詰まる。日本語を話しているのだから日本人に決まっている。ならばなぜ確認を。胸の底で、嫌な予感が形を得た。
「もしかして……ここって、異世界ですか?」
ダリアはゆっくりとうなずく。
「装いなどから見当はついていました。――改めて。日本国からの来訪者、田中誠二。ようこそ、アルカディアへ」
「アルカディア……この国の名前、ですか?」
「いえ。世界の名です。あなたがいた世界が“チキュウ”であるように」
「異世界、アルカディア……。それは分かりました。でも、どうして別世界のあなたが、日本を?」
素朴な疑問に、ダリアは静かに答える。
「時折、訪れるのです。そちらの世界からこちらへ。多くは王や高名な魔術師に“呼ばれて”。――ここへ来たとき、近くに誰かはいませんでしたか?」
「近くに、誰か……」
脳裏をかすめるのは、ゴリゴリマッチョな金髪のチンピラの顔だ。周囲の記憶は彼一人だけ――だとすれば。
「変なチンピラ風の男がいました。で、ぼこぼこにされました」
「ふむ、チンピラ風。……そういう装いの高名な――」
「いやいやいや! さすがにそれはないです! 見りゃ分かるタイプでした!」
思わず素で突っ込む。ダリア――この男は、底抜けに優しいが、少し天然の気配もある。
「では、あなたを呼び出した者は誰か……」
誠二の視線に、ダリアは困ったように眉を寄せた。
「……私にも分かりません。お力になれず、申し訳ない」
「いえ、とんでもない! 俺は助けられた身ですし!」
「そう言っていただけると救われます。――ただ、一番の問題が残っています」
初めて、声に重みが落ちた。
「あなたの今後です。本来、来訪者は“呼び出した者”が身元を引き受けます。戸籍や身分の保証がなければ、一般の職に就くのは難しい」
はっとする。
ここは異世界で、帰れる保証はない。生きるには働かねばならない。だが、身分がない。
「元の世界に、帰る方法は――ありませんか?」
ダリアは言葉を選ぶように間を置き、ゆっくり首を振る。
「現状、見つかっていません。あなた方の世界から来た賢人たちが長く探りましたが……いまだ」
胸の底が、音を立てて沈んだ。未練が強いわけではない。だが、この世界が穏やかとは言い難いことを、さっき身をもって知った。こんな場所で、自分のようなもやしがやっていけるのか。
「じゃあ……戸籍がなくてもできる仕事は? 俺、なんでもやります」
「ないわけではありません。ですが――」
言いにくそうに言葉が濁る。部屋の空気がわずかに重くなった。ろくな仕事ではないのだろう。
ダリアは誠二の目をまっすぐ見て、その覚悟を測るように口を開く。
「……“冒険者”という職業は、ご存じですか?」
(――聞き覚えはある。丸一年、引きこもってネットに沈んでいた。ラノベも有名どころは読みあさった。何度となく目にした語だ)
「たしか……まだ見ぬ土地を開拓したり、悪い魔物を倒すために各地を旅する人たち。――それが、冒険者、ですよね」
「ふふ。ずいぶん大きく評価してくださる」
誠二の神妙な面持ちに、ダリアは苦笑交じりに応じる。頬が熱くなる。
「いや、その……日本の小説だと、そういう感じで」
「笑ってしまってすみません。おおむね正しいですよ。実際は“なんでも屋”です。危険な依頼から、日常の雑務まで、幅広く。――そして危険です。私たち神父は癒しの術で彼らを支えますが……多くの生死を、見てきました」
言葉が偽りでないことは、表情が語っていた。落ち着いた空気は、数多の最期と数多の救いに立ち会ってきた者のものだ。
誠二は息を吸い、ダリアの瞳を真正面から捉える。
「俺、冒険者になります」
「それぐらいしかないんですよね。なら、やります」
ダリアは短く目を伏せ、やがて頷いた。
「止めはしません。止めても、あなたを救えないでしょうから。――冒険者になるなら、冒険者ギルドへ。生活に必要な手続きを手伝ってくれます。どうか、無茶はなさらないで」
最初に見せたあの笑顔で告げる。その瞳の奥に、薄い心配の色が灯っているのが見えた。根の優しさが、そこにあった。
温もりが胸に広がったとき、もう一つの疑問が蘇る。赤い頭巾の少女――彼女のことだ。
助けられたのなら、礼を言わなければならない。
「ダリアさん。さっきの、赤頭巾の子は――どこへ?」
「……すみません。素性を尋ねる間もなく、立ち去られて。ですが、この国で見ない顔でしたし、大きな鞄に、腰には短剣の柄のようなものが。――この世界で、その装いの生業は一つだけ」
「冒険者、ですね」
「ええ。ですから、ギルドへ行けば会えるかもしれません」
「それなら、すぐ――」
勢いで立ち上がろうとして、ぐらりと視界が傾いた。膝が笑い、そのまま床に尻もちをつく。痛みはないのに、身体に力が入らない。
「こ、これって……魔法の副作用とか!?」
「いえ、空腹でしょう」
即答。頬が熱くなる。
「昨日から眠っていましたから、胃の中は空っぽです。今はまだ九時前で、ギルドも開いていません。朝食を召し上がっていきませんか」
羞恥を飲み込み、誠二は口を開く。
「でも、その……ご迷惑は」
「立てないでしょう?」
「うぐ」
図星だった。
「まだお若い。遠慮はいりません。年寄りの楽しみは、若者が食べるのを見ることです。よろしければ、ご一緒に」
ダリアは歩み寄り、手を差し伸べる。その笑顔に、嘲りの影はひとかけらもない。混じりけのない善意は、人の防壁を簡単に溶かす。
「……ありがとうございます」
気づけば、誠二の口から自然にその言葉がこぼれていた。
お読みいただきありがとうございます!
今回は「目覚め→状況説明→決意」の三点セットで、誠二の立ち位置と路線を固めました。ダリアは“支える大人”ポジ、赤頭巾は“動かす謎”ポジでしばらく牽引します。
次回は――
冒険者ギルドでの登録、世界の常識講座、そして赤頭巾の足取りへ。




